2022/04/24

元東宝専務・平尾辰夫さん、受けた恩を返せなかったことをお詫びし、ご冥福をお祈り申し上げます

故・小松雅雄先生のゼミの大先輩&東宝入社時の保証人だった平尾さんの思い出

 

 平尾さんの義父は、木下保(日本のクラシック音楽界の巨匠)

 奥さんは、俳優座養成所出身(10期)・青年座で活躍した元女優木下育子さん。

 

 ネットで平尾さん逝去の記事が報じられたのは418日の早朝だった。

 「平尾辰夫氏死去 元東宝専務」(共同通信)

 「元東宝専務・平尾辰夫さん死去 『レ・ミゼ』『ミス・サイゴン』日本初演に尽力」(オリコン・ニュース)

 「東宝元専務・平尾辰夫氏死去 演劇担当として『レ・ミゼラブル』日本初演実現に尽力」(サンスポ)

 「名作演劇の礎築く 東宝平尾辰夫さん93歳で死去」(スポーツ報知)

 

 東宝が伝えた訃報をほとんどそのまま各紙が書いた伝えた詳細は、ほぼ同じ内容なので、スポーツ報知の記事を引用する。

【 東宝は17日、同社元専務取締役演劇担当の平尾辰夫さんが13日午後923分、脳出血のため死去したと発表した。93歳だった。葬儀は近親者のみで執り行い、妻の育子さんが喪主を務めた。平尾さんは1955年に入社、87年「レ・ミゼラブル」、9293年「ミス・サイゴン」の日本初演(東宝製作、帝国劇場)実現に向けて尽力。両作品のオリジナル・プロダクションのサー・キャメロン・マッキントッシュと信頼関係を築き、現在に至る長期公演の礎とした。77年演劇部長、83年取締役、88年常務取締役、92年専務取締役と長く演劇畑で活躍した。同社は、「ご生前のご功績を偲び、謹んで哀悼の意を表します」とコメントした。 】

 

 私が平尾さんと初めて会ったのは、早稲田大学の政経学部の学生だったときだった。当時の平尾さんの肩書は、東宝の演劇課長で、部長は横山という人だった。

 その頃の東宝の演劇部門のトップは、菊田一夫だった。菊田は、放送時間になると銭湯がガラガラになったといわれているNHKの連続ラジオドラマ「君の名は」(1952~1954年)を書いて一躍その名が全国津々浦々に轟いた超有名人である。

 平尾さんが菊田一夫を「うし(大人)」と呼んでおられたことも印象深い。

 

  「このミュージカルは観ときなさい」といって、帝国劇場の入場券を渡された。

 帝劇でやっていたミュージカルは、市川染五郎(⇒松本幸四郎⇒白鸚)がドン・キホーテに扮した『ラ・マンチャの男』だった。

 上演が開始されて、ほどない頃だったように思う。

 ドン・キホーテが「姫」と信じ込む宿屋の娘「アルドンサ」は草笛光子、浜木綿子、西尾恵美子が交代で演じたが、浜木綿子は〝カマキリ先生〟こと香川照之のお母さんだ。

 

 ——遠い遠い昔の話。就職するに際し、私は、普通のサラリーマンではなく、「自己表現できる仕事」をしたいと考えていた。

 「どこかのテレビ局に入って、ドラマの演出家になりたい」という私の希望を聞いたゼミの先生(「経済政策」の小松雅雄教授)に伝えると、唖然とした顔で「なにをバカなことをいっている。やめなさい」といわれた。

 

 小松ゼミは、当時の早稲田大学政経学部では、伊達邦春教授(伊達政宗の子孫)と並んでトップクラスの成績の者が集まるゼミとして知られており、就職先は基幹産業・都市銀行・商社という暗黙のルールのようなものが出来ていたから、先生が驚くのも当然だった。

 

 しかし私は強情を張り、撤回しなかったので、先生は「報道関係はどうか。私のゼミの先輩で、今、フジテレビの報道部長をしている大和寛君がいるから、彼に相談するするように」といって、ご自身で電話されたらしい。

 あとでわかったことだが、先生は、大和さんに芸能部門は断念させるように説得してほしいと頼んでいた。

 大和さんに連絡し、「ドラマの演出をやりたい」との希望を伝えると、ドラマの演出をやっていた社員ともう一人、「三匹の侍」で名を上げたフジテレビの演出家で、映画にも進出していたていた五社英雄に会わせてもらえるという話だった。

 

 ところが、フジテレビ(当時、河田町にあった)を訪ねると、五社英雄は現れず、ドラマの演出家としては失敗して、別の部門に異動した人物がやってきて、「演出家なんか目指さない方がよい」と、こんこんと諭したのである。

 何のことはない、「演出家になったら失敗する。俺のところの報道局へ来た方がいい」という話だったのだが、その場で人事部の人に引き合わせてもらうと、「今年たくさん採用したので、来年の採用はゼロの予定」といわれた。

 

 そんな経緯があって、私は映画監督志望へと考えを改めた。

 小松先生は困り果て、「どうしてもというなら、東宝の平尾君に会って相談するように、私から連絡しておく」といった。

 有楽町の芸術座があるビルが東宝の本社で、そこへ平尾さんを訪ねると、2人差し向かいで話せるスペースしかない狭い応接室に招かれ、

 「世田谷区の砧(きぬた)にある東宝撮影所の方で、不定期に助監督を3人募集するそうだ。もし受かったら、大学を中退することになるが、それでもいいか」

 といわれた。

 要するに、中途採用である。確か試験日は6月だったように思うが、間違っているかもしれない。

 

 しかし、私は受験を申し込んだだけで、当日は行かなかった。

 その理由は、余人にはおそらく理解できないに違いない。

 大学中退というのも、引っかかってはいたが、決定的な理由ではなかった。

 試験日が迫ったある日、黒澤明の「七人の侍」をやっている映画館があったので見に行ったところ、その凄い演出力を見て圧倒され、「自分には、こんな演出ができる才能はない。監督など無理だ」と脅えたのである。

 映画の右も左もわからない世間知らずの若造が、世界の黒澤明と才能を比べるなど、見当違いもいいところだが、今思うと、それが若さという者だった。

 

 ところが、である。

 日が経つにつれて、困ったことに、またぞろ、映画を演出してみたいという愚かな考えが頭をもたげてきたのだ。

  「喉元過ぎれば、熱さ忘れる」ってやつだ。

 で、恥も臆面もなく、のこのこと平尾さんに相談に行くと、ふところが深い平尾さんは、文句ひとついうでもなく、ただ笑顔を浮かべて、

  「それなら入社試験を受けて本社社員となり、助監督として配属されるようにすればいい」

 といわれた。

 平尾さんには黒澤映画の一件は黙っていた。

 平尾さんが「君は、僕のところ(演劇部)に来て演劇をやる気はないか」「映画をつくるといっても、君は監督になりたいのか、プロデューサーになりたいのか」と尋ねられたので、私は「監督になりたい」と答えた。

 

 今、考えると、私は「どちらかといえば、映画監督向きではなく、いろんな企画を考えたりキャスティングをしたりするプロデューサーとか、脚本家の方が性に合っていた」ように思う。

 若い頃は勢いだけで突っ走る傾向がある。私自身を振り返ると、まさにそうだった。

 

 ――そんな経緯があって、私は東宝に入社し、首尾よく、映画助監督として撮影所に配属されたのだ。

 東宝に入社するには、保証人が求められる。「来なかったのは軍艦だけ」といわれた労働争議に懲りたからで、その労働争議では鎮圧するために戦車までやってきたのだ。

 

 「平尾さんが保証人になってくださった」と私は思っていたのだが、あとでわかったのは、平尾さんと同期入社の映画監督森谷司郎さん、当時の撮影所の製作部長の滝沢昌夫さんにも声をかけてもらっていて、この豪華絢爛たる3人を保証人欄に記入して平尾さんは会社に届け出たのだった。

 

 いつ頃のことかは記憶が薄れてしまっているが、平尾さんから「遊びにおいで」と声を掛けられて、ご自宅を訪ね、奥さんの手料理をごちそうになったことがある。

 平尾さんは晩婚(当時41、42歳か)で、結婚して間がない頃のような印象が残っているが、小田急線の鶴川にあった団地に元女優の育子さんと住んでおられた。

 それから半世紀も経った今でもはっきり覚えていて思い出すたびに赤面するのは、何か気の利いたことをいわなければと焦った私は、いうに事欠いて、育子さんに、

 「幸せですか」

 と尋ねてしまったのだ。

 私より7つ年上の育子さんは、少し照れたような、ちょっぴりあきれ顔で、何も返事しなかった。「この子、いうに事欠いて何をいうのよ」とでも思ったに違いない。

 

 育子さんは、成城学園で学び、俳優座養成所(俳優座演劇研究所付属養成所/1949~1967年)10期生となり、その後、青年座の女優となった。俳優座養成所の出身者は、男優では、仲代達矢、宇津井健、平幹二郎、田中邦衛ら、女優では岩崎加根子、河内桃子、市原悦子、渡辺美佐子、栗原小巻ら、演劇に限らず、映画、テレビでも活躍した人を数え挙げればきりがない。

 

 育子さんの旧姓は「木下」。木下保の次女で、長姉の坂上昌子さんは声楽家、妹の三女増山歌子さんはピアニストという〝華麗なる一族〟だが、音楽関係者以外の人は知らないだろうが、父親の木下保は桁外れにすごい。すごすぎる人だった。

 育子さんのお父さん木下保(1903〈明治36〉年)6月14日~1962〈昭和57〉年11月11日)は〝音楽界の超巨人〟で、ウィキペディアの文章を引用すると、こんな具合である。

 

 「声楽家(テノール)、音楽教育者、指揮者合唱指揮者、オペラ歌手、音楽評論家、作曲家・編曲家。日本の洋楽の黎明期を代表する音楽家として多大な功績を残した」「1928(昭和3)3月東京音楽学校(現東京芸大)研究科修了、1933(昭和8)年4月ドイツ国立ベルリン音楽大学(現ベルリン芸術大学)に留学」云々。

 

 東京芸大教授を務めたバリトン歌手の中山悌一(ていいち/1920~2009年)は、木下保に師事しているが、同じ東京芸大で学び、テノール歌手だったソニーの元社長・元会長の大賀典雄(19302011年)は中山悌一に師事しているので、大賀は木下保の孫弟子という関係になる。大賀もベルリン音楽大学(現ベルリン芸術大学)へ留学している。

 

 平尾さんは、前述したように、ふところの深い方で、私が東宝をやめてソニーに移るときでも嫌みの一つさえいわれなかった。

 助監督をやめたときは、本社の人事に話すと「企画部はどうか」と打診されたが、固辞し、東宝を退社し、ソニーの宣伝部に移ったのだった。

 今思うと、平尾さんのいた演劇部に移る手もなくはなかった。遠い昔の「たられば話」である。

 

 その後、平尾さんとは、小松雅雄ゼミ全体の集まりで何回かお会いし、そのつど雑談を交わしたが、いつもニコニコされていたという印象が強い。近い将来、あの世で平尾さんと会って話すことが出来たなら、私はこう申し上げたいと思う。

  「映画はつくるよりも観る方が、私には向いています」

  「助監督をやめた後は、ソニーに移らず、平尾さんの部下になって演劇部門という新しい可能性にチャレンジするという道もあったかもしれません」

 おだやかで、おおらかな才人で、それこそまさに大人(うし)だった平尾辰夫さん、ご冥福をお祈り申し上げます。

(城島明彦)

 

2020/04/27

家訓・遺訓を知らずして、戦国武将の好き嫌いを論ずるなかれ!

誰が好きかで、その人の性格・考え方・処世術がわかるのが「武士の家訓」だ!

 

 テレ朝が、本日(427日午後700954)、「禁断企画」と銘打って「日本人が本当に好きな戦国武将総選挙」という番組をやるようだが、どういう基準で選ぶのか!?

 AKBの総選挙あたりにあやかろうという魂胆か。

 あおるに事欠いて「禁断」とは、どういう趣向か!?

 禁断症状の「禁断」か? 「クスリをくれ」という中毒患者のうめき声か?

 アダムとイブが禁断の木の実(リンゴ)を食べてエデンの園を追放されたという、あの「禁断」か? 食べるとヤバいことになるという意味なのか。

 いずれにしろ、意味がようわからん!

 

 「国民10万人がガチ投票!」というキャッチまでついている。

 10万人程度で、「禁断」云々というところがしみったれている。

 同じ吹くなら「100万人がガチ投票!」ぐらいやったらどうだ!

 いや、どうせ吹くなら「1000万人がガチ投票!」の方が景気がいいぞ!

 いやいや、「コロナもぶっ飛ぶガチ投票!」でどうだ!

 

 それはさておき――

  生きるか死ぬかの戦国乱世に名将あり、知将り、徳将あり、謀将あり。

 いくさ上手か、統率力か、器の大きさか、駆け引き上手か、民の人気か、知略の巧者か、文武の達人か……。

 「武士の家訓」には、人生を勝ち抜く秘訣満載されている!

 

 父から子へ、子から孫へと伝えた「武士の家訓」は〝処世術の宝庫〟だ!

命がけで身につけた戦国武将の貴重な教えが、箇条書きの短い文章から手に取るように伝わってくる。

 徳川家康、豊臣秀吉、織田信長、武田信玄・信繁、上杉謙信、伊達正宗、今川義元、徳川光圀(水戸黄門)、徳川吉宗、藤堂高虎、毛利元就、北条早雲、島津斉彬、島津斉彬、加藤清正、黒田如水(官兵衛)・長政、上杉鷹山、徳川斉昭……

 彼らが乱世を勝ち抜いた〝秘訣〟に「家訓」あり。

 父から子へ、子から孫へ、孫から曾孫へ……果てしなく受け継がれ、「家訓」を守った家は栄え、「家訓」を破った家は衰退ないしは滅亡した例が多い。

 Photo_20200427044101 (4月16日発売/本体価格1800円--と、ちゃっかりPR)

(城島明彦) 

2008/07/06

「幸福」とは?

 何十年も前に買った書物のなかに、三浦靱郎(ゆきお)訳編『生きることについて〈ヘッセの言葉〉』(教養文庫)という一冊がありました。

 その本のなかに「幸福」と題する次のような詩が載っていました。

  君が幸福を追い求めているかぎり
  君はいつまでも幸福にはなれない
  たとえ最愛のものを手に入れたとしても
  
  君が失ったものを嘆き
  目標をめざして動いているかぎり
  君にはまだ安らぎとは何であるかわからない
  
  君があらゆる望みを捨て
  もはや目標も欲望もなく
  幸福のことを口にしなくなったとき

  そのとき世間の荒波は君の心に届かず
  君の心ははじめて憩いを知るのだ

 まだ人生経験が浅い若い人たちへのメッセージが含まれた詩ですが、人生経験豊かな人たちにとっても含蓄のある内容です。

 ヘルマン・ヘッセは、一八七七年に南ドイツにあるカルヴという田舎町で生まれ、一九六二年に八十五歳で没した詩人であり作家でもあった巨人です。

 彼が二十八歳のとき(一九〇五年)に「新チューリッヒ新聞」に連載した『車輪の下』は神学校時代の体験をもとにした青春小説で、世界的な評価を得、今日まで読み継がれている大傑作です。

 ところで皆さんは、こんな疑問にとらわれたことがありませんか。

 「本を読むとは、どういうことなのか?」

 この疑問にヘルマン・へッセが「書物」という詩で答を出してくれています。こんな詩です。

  この世のどんな書物も
  君に幸福をもたらしてくれはしない
  けれども書物はひそかに君をさとして
  君自身の中へ立ち返らせる
  
  そこには太陽も星も月も
  君の必要なものはみんなある
  君が求めている光は
  君自身の中に宿っているのだから
  
  そうすると君が書物の中に
  長い間捜し求めていた知恵が
  あらゆる頁から光ってみえる――
  なぜなら今その知恵は君のものとなっているから

 (PR)城島明彦著『怪奇がたり』(扶桑社文庫)、近日発売

(城島明彦)

2007/05/24

男の引き際・死に際

(はじめに)
 終わりよければ、すべてよし。
 男は「引き際」が大切である。
 どんなに立派な実績や素晴らしい成果を積み重ねて、世間から高い評価を得ていても、「引き際」を誤ると、それまでの努力が水泡に帰してしまう。
 そんな例は、過去現在を問わず、数え切れないほどある。
 政治家、スポーツ選手、俳優、経営者、作家、歌手……さまざまな分野で名を成した人や頂点を極めた人が、名誉や地位や名声に固執して、引退時期を誤ったり、晩節を汚してしまったりした例も、また枚挙に暇がない。
 ことほどさように「引き際」は難しい。

 では一体、人は、いつ、どのように辞めたらいいのか。
 余力を残して、惜しまれつつ、辞めるのか。
 生も根も尽き果て、ぼろぼろになるまで戦って引退するのか。
 名誉と名前に傷がついても、なお現役に執着するのか。
 引きずり下ろされるようにして辞めるのか。
 男の引き際は、実に難しい。

 「引き際」の最たるものは「人生の幕引き」つまり「死に際」である。
 ほとんどの人にとってそれは、病気や老化によってもたらされるが、一部の人間にとっては、何らかの理由で自ら人生の最後の幕を引かねばならない場面が訪れることもある。

 ある者は老残の身をさらしたくないという理由で、ある者は自身が生き続けることでほかの人間に多大な迷惑をかけたくないという理由で、またある者は永遠に口をつぐめば自身の名誉が守れるだろうと考えて、自死を選ぶことがあるが、そんな場合でさえ、時と場所を誤るとその人の評価を下げてしまうのである。

  ここで取り上げる著名人たちは、「引き際」「死に際」に対する筆者の人生観、価値観、美意識で判断しているので、当然ながら異論もあろう。

 あなたは、ここに登場する著名人たちの、どの「引き際」に共鳴し、どの「死に際」に納得するのだろうか。
 


●権藤博……「滅私奉公型」または「玉砕殉職型」

 「月月火水木金金」といっても、今の若者たちには何のことやらわからないだろう。
 太平洋戦争が始まって間もない頃、大ヒットした軍歌の題名であり、その歌の中で繰り返されるフレーズである。
 「月月火水木金金」は、日本海軍の艦隊の猛練習ぶりを歌ったもので、先日逝去した作家城山三郎の著書「毎日が日曜日」とはまるで逆。
 一週間は一週間でも、土日がないのだ。
 1番の歌詞は、「朝だ夜明けだ、潮の響き」で始まり、「月月火水木金金」で終わっている。
 2番、3番も最後の歌詞も同様で、戦意を鼓舞する意図が込められていた。
 
 しかし、どんなに戦意を高めようとも、短期決戦ならまだしも、戦争が長期化すれば負けるのは明らかだった。
 米国との軍事力の差は歴然としていた。
 そして日本は、日本開闢以来の領空侵犯を許し、米爆撃機B29による本土空襲を受けたのである。
 その結果、京都を除く大都市は皆、焼け野原と化し、そのあげくに原爆を2発も投下されて無条件降伏した。
戦争が終わり、戦地から九死に一生を得て復員してきた男たち、満州や朝鮮から裸一貫で引揚げてきた男たちは、廃土と化した日本を見て茫然と立ち尽くし、「永遠に立ち直れないのではないか」という不安に駆られた。
 
 そして連合軍の進駐。有史以来、初めて他国の支配下に置かれるという屈辱を味わいながら、われわれ日本人の祖父や父は、日本再建のために血眼になって働いた。
 
 月月火水木金金。働いて働いて働きまくった。
 しかし、「働けど働けど、わが暮らし楽にならず」だった。
 それでも働いた。月月火水木金金。いつかきっと生活が豊かになる日が来るだろうと思いながら――。

 敗戦から15年目の1960年(昭和35年)。
 国民の娯楽は、映画であり、大相撲でありプロ野球だった。
 その年、セリーグの覇者となったのは大洋ホエールズである。
 大洋は、前年まで「6年連続最下位」。この間までの阪神タイガーズのような〝どうしようもないお荷物チーム〟だったが、新しく監督に就任した知将三原脩によって奇跡的に〝見違えるような強いチーム〟に変身。
 チーム創設以来、初めてペナントレースを制したことから、〝三原マジック〟と賞賛された。

 三原人気の陰に隠れて、あまり話題にならなかったが、そのシ-ズンオフ、「ノンプロ」と呼ばれていた実業団チームの一つに所属していた右投げの投手が、セリーグで5位だったチーム「中日ドラゴンズ」と入団契約を結んだ。
 
 大洋ホエールズが次に優勝するのは、38年後である。球団名は「横浜ベイスターズ」と変わっていた。
 同チームを率いた優勝監督は、大洋が優勝した38年前にノンプロから中日に入団した右投げの投手だった。
 権藤博である。

 権藤博が、横浜ベイスターズの新監督に就任した98年に、抑えのエース〝大魔人〟佐々木主浩を投入する「勝利の方程式」(勝ちパターン)によって、同チームを38年ぶりの優勝に導いたことはプロ野球ファンなら誰でも知っているだろうが、現役時代の権藤の雄姿を見知っている人は少ないはずである。
 何しろ、権藤が活躍したのは今から40年以上も昔、1960年代前半のことなのだ。

 権藤は、〝太く短く生きた〟中日ドラゴンズのエースだった。
 プロデビューは大洋優勝の翌1961年(昭和36年)、筆者が中学3年のときだった。
 筆者は三重県四日市市で少年時代をすごした。
 あのあたりの子供のほとんどがそうであるように、筆者も熱狂的な中日ファンだったから、権藤博というノンプロの投手が中日に入団したということは、自宅で購読していた「中部日本新聞」(現中日新聞)のスポーツ欄やラジオのニュースなどで知っていた。

 権藤は、来栖高校からブリヂストンタイヤに入り、スカウトされてドラゴンズに入団したのである。
 権藤は、並みのルーキーではなかった。
 プロ1年目にいきなり35勝あげた。勝ち星も多かったが、負け数も多かった。35勝19敗。全130試合中69試合に登板し、429回と3分の1を投げたのである。
 これは、セ・パ2リーグ制になって以降、今日まで破られていない最多記録であり、今後も絶対に破られることのない大記録である。

 権藤の活躍で、その年の中日の成績は勝ち数71でトップだったが、勝率で巨人に7分劣り、1ゲーム差の2位でシーズンを終えている。
 中日の勝ち数71の半分は権藤があげていたのである。
 権藤が登板した69試合中、先発完投勝利したのが31回もあり、うち12回はシャットアウト(零封、完封)という凄さだった。

 権藤の凄いところは、それだけ投げていながら、防御率はセリーグトップの1・70で「最優秀防御率」に輝き、「新人賞」はいうに及ばず、投手最高の栄誉である「沢村賞」をも受賞している点だ。
 この年の最優秀選手は、セリーグが〝ミスタージャイアンツ〟長嶋茂雄で、パリーグは野村克也(南海ホークス)だった。

 誰がいいだしたのか知らないが、うまいことをいった。
 「権藤、権藤、雨、権藤」
 権藤の常軌を逸した連投ぶりを表現した比喩で、権藤が登板しないのは雨で試合が流れた日だけという意味であった。
 今日では、先発、リリーフ(中継ぎ、抑え)という分業システムがきっちりと確立され、先発投手の場合には、次回登板まで「中3日」とか「中4日」といわれるような間隔を置くことが当たり前になっている。
 そんな「近代野球のセオリー」から見ると、権藤の起用は常軌を逸した〝狂気の沙汰〟としか映らないが、当時はそうした考え方やルールなどなく、野球ファンも、「権藤は凄いな」「きついんじゃないか」「それにしても、タフだなあ」と、ただ感心して終わりというような時代感覚だった。
 そういう無茶な起用をされた投手は、権藤1人ではなかったのである。

 同じ年パリーグでは、西鉄ライオンズのエース稲尾和久が、404回を投げて歴代3位の投球回数を記録している。
 稲尾は、2年前の59年にも402回1/ 3回(4位)を投げており、「鉄腕稲尾」と呼ばれていた。
 日本球界最高の「400勝投手」金田正一は、国鉄スワローズに在籍していた55年に400回を投げて5位に入っている。
 歴代2位は、大洋ホエールズのエース秋山登が57年に記録した406回。権藤より投球回数が29回と3分の1少ない。この違いは大きい。

 権藤の直球は速くて重く、武器のフォークボールは打者の眼前で大きく沈んだ。
 面白いように三振の山を築き、〝日本のフォークボールの元祖〟杉下茂の再来といわれた。
 杉下は〝魔球〟フォークボールを駆使して、54年(昭和29年)のシーズン優勝を中日にもたらした立役者である。
 その年杉下は32勝し、三振奪取数は273に達した。

 権藤が新人デビューした年に奪った三振の数は、ベテランのエース杉下を大きく上回る310であった。
 「彗星のごとく」という比喩があるが、権藤博はまさに彗星のごとく現れた中日ドラゴンズの期待の星だった。
 
 権藤は、その期待に応えた。応えて余りあった。
 6月以降は、毎試合ベンチに入り、先発だろうがリリーフだろうが連投だろうが、濃人渉監督の命ずるままにマウンドに立った。
 「月月火水木金金」――権藤は、「勝つため」に監督にいわれるままに働いたのである。

 「権藤、これからは全試合でベンチに入るぞ。杉浦、稲尾もそうやっているんだ。おまえもやらなければいけない」
 国鉄スワローズと対戦して12勝目をあげた権藤は、61年6月4日に濃人渉監督からこう言い渡された、と「日刊スポーツ」の「20世紀伝説―公式戦4万6180試合の記録―」は書いている。
 そういわれて権藤は、どう思ったのか。
 「天にも昇るような気持ちだった。そうだろう。新人が、あの2人と同じ扱いをされるんだぞ。故障への不安なんてなかったよ」

 プロに入ったばかりの権藤にとって、杉浦や稲尾は〝雲の上の存在〟だった。
 杉浦忠は、立教大学で長嶋茂雄と同期である。58年に立教を卒業して南海ホークスに入団。下手投げのダイナミックなフォームから繰り出す剛速球と大きく曲がるカーブで、翌59年つまり権藤がプロに入る2年前には、38勝4敗という〝とてつもないない記録〟を残していた。

 この杉浦の記録を塗り替えたのが西鉄ライオンズのエース稲尾和久である。権藤がデビューした61年に42勝をあげるのだ。
 42勝は、伝説の名投手スタルヒンと並ぶ日本最高記録である。まさに〝鉄腕〟だった。

 濃人が権藤に放った言葉は〝殺し文句〟であった。
 当時の日本球界を代表するスーパースター二人と同列に扱われて、権藤は、
 「俺がやらねば誰がやる」
 「監督やチームメイトから寄せられる全幅の信頼に応えるのは当然」
 「俺がドラゴンズを支えているんだ」
 と意気に感じ、燃えたのだが、そこに〝投手権藤の誤算〟があった。

 「2年目のジンクス」も、権藤には無縁だった。
 61試合に登板、30勝をあげた。投球回数は362回1/ 3。防御率は前年より落ちたとはいえ、それでも2・33であった。
 
 その結果、2年間の投球回数は791に達した。
 1年が365日であることを考えると、目を疑いたくなる数字である。
 サラリーマンなら、2年間一日も休みを取らずに出勤していた勘定だ。残業、出張、休日出勤、接待……会社のために、上司にいわれるままに、身を粉にして黙々と働く〝エリート社員〟の姿が権藤にかぶさってくる。
 権藤は愚痴ひとつこぼさなかった。それどころか、やりがいがあると思っていた。

 しかし、どんなにタフであろうと、人間であることに変わりはない。
 酷使され続けた権藤の右肩は、少しずつ確実に壊れていった。権藤は、いっている。
 「肩が張っているとか、痛いうちは、まだいい。そのうち何も感じなくなる。投げると、そのまま肩が抜けて右腕が吹っ飛んでいくような気がした」

 肩の変調は、数字となってはっきり表われた。
 登板数が減り、投球回数も少なくなっていった。
 一年目は400回台だった投球回数が、2年目300回台、3年目200回台、4年目100回台と減っていき、5年目にはついに18回と3分の1しか投げられなくなってしまっていた。
 入団した年に1点台だった防御率が、2年目は2点台、3年目は3点台、4年目は4点台と毎年1点ずつ増えていき、5年目は11.00という信じがたい数字となった。
 勝ち星の数も、当然、減っていった。35勝15敗からスタートし、30勝17敗、10勝12敗、6勝11敗ときて、5年目は1勝1敗という成績しか残せなかった。

 あの〝スーパースター〟権藤と同じでないことは、誰の目にもわかった。誰よりも権藤自身が、そのことを一番よく知っていた。
 「引退」の二文字が権藤の脳裏を去来する。
 だが、スタープレイヤーの辞めどきは難しい。頂点を極めた選手になればなるほど、その引き際は難しくなる。
 長嶋茂雄、王貞治、落合博光……皆、辞めどきで悩んだ。
 一流選手になればなるほど、「過去の栄光に泥を塗りたくない」「満天下に無様な姿を晒すことはしたくはない」と考えて、余力を残し、周囲から惜しまれながら現役を引退する傾向にある。
 野村克也のように、三冠王までとっていながら、「生涯、一捕手」と割り切って、最後の最後まで現役にこだわった一流選手は珍しい。

 一流二流を問わず、プロの選手は、野球が好きで好きで、野球しかできないと思ってきたわけで、そういう人間にとって、生活のことも含めて、一日でも長く現役で野球を続けたいと願うのは当然のことだが、いつか必ず引退しなければならないときがやってくる。
 
 どんなに肉体を鍛錬しても、40歳まで現役ではいられないのである。
 ネームバリューのある一流選手の場合は、コーチとしてチームに残ったり、テレビやラジオの専属解説者として野球と関わっていくことができるが、そうでないほとんどの選手は、現役を辞めても野球に関わる仕事を続けられるかという保証はない。
 かといって、サラリーマンに転身できるほどの器用さも持ち合わせていない。

 権藤は、「一つでも多く勝ちたい。勝たねばならない」と考える監督の犠牲になったといえなくもない。酷使され、過労死したようなものである。しかし、権藤には悲壮感などなかった。あるのは「使われる喜び」であった。

 そして、中日ファンもまた、それを期待していた。
 当時中学生だったドラゴンズファンの私も、そんな一人だった。
 そういうファンの期待も権藤を奮い立たせ、監督にいわれれば条件反射のようにマウンドに向かった。

 権藤は、スパッと引退したのではなかった。
 投手にしては打力があったので、野手に転向したが、成功しなかった。
 そして引退した。
 ファンの目には悲痛・悲壮に映った。
 華麗なまま、投手として引退すべきではなかったかと、まだ少年であった私は思ったものだ。
 
 そして今、私は思う。
 「昭和30年代のスーパースター権藤博は、会社のいうまま、上司に命じられるまま、仮定を犠牲にしながら身を粉にして働き、ぼろぼろになり、その挙句にリストラされてしまった団塊の世代とそれ以前の企業戦士たちの哀しい姿とダブルものがある」と。
(城島明彦)

2007/05/17

蔓延する「よろしいですか症候群」

 「よろしいでしょうか」
 といっておけば問題ないと思っているバカ日本人が増えている。

 ①「ストローをお入れしてよろしいですか」(マクドナルドの若い女性店員)
 ②「住民カードをお返ししてよろしいでしょうか」(横浜市青葉区役所の中年女性吏員)
 ③「一万円からお預かりしてよろしいでしょうか」(東急ストアのレジの若い男性店員)

 これらは、ここ一週間の間に私が直接いわれたり、人がいわれているのを小耳に挟んだ例だが、それにしてもお粗末な日本語の使い方をする人間が多すぎる。

 ①は「ストローを入れますか、それともご自分でなさいますか」」と聞くべきである。
 ②は、「返さないでいいという住民がいるのか」といいたくなる。「住民カードをお返しします」となぜいえぬ。
 ③は、一万円を渡しているのに、それを預かっていいかと聞く。こんなバカな言い方がどこにある。「一万円、お預かりします」となぜいえないのか。

 無理して丁寧にいおうとすることはやめたほうがよい。それが正しい日本語を使えるようになる基本だ。
(城島明彦)

2007/04/15

ホリエモンの後継社長がすべてを話した!

 『ボクがライブドアの社長になった理由(ワケ)』
 という本が話題になっております。

 ホリエモンが事件を起こし、逮捕されたため、思いがけず、ライブドアの新社長に就任するハメになった平松庚三(ひらまつこうぞう)さんの初の著書であります。
 私は、企画・聞き書き・構成という形で、この本を創るお手伝いをしました。

 彼は人徳者で、人脈がすごい人。たとえば、若い頃にジョン・レノンやオノ・ヨウコと個人的に話をしています。
 
 『ボクがライブドアの社長になった理由』は、ソフトバンク クリエイティブ㈱から出版されました。山田真司さんが編集を担当しました。

 ホリエモンの判決が出た日に本屋の店頭に並んだので、「宣伝効果を狙ったのか」と聞いた編集者もいましたが、たまたまそういうタイミングになったのです。
  
 本は、六本木ヒルズに東京地検特捜部が突入したところから始まります。

 面白い本なので、IT関係の企業に就職したい学生諸君はむろんのこと、仕事のやり方を学びたいビジネスマン、老後の生き方を考える団塊世代の人たちに、おすすめです。
(城島明彦)

2007/04/14

回答乱馬?

 ふと頭をよぎった言葉があった。
 快刀乱麻。
 かいとうらんま、と読む。
 若い人が日常会話の中で使うことはまずないだろうが、「世の中、麻のように乱れ」という言い方をしますな。
 乱れ絡んだ麻を刀でバッサバッサと斬っていくのが「快刀乱麻」であります。
 「快刀乱麻を断つ」などといいますな。
 複雑に入り組んだ事件や紛争をきびきび、てきぱきと片付けていく様をそう表現しております。
 1970年代前半にそのものずばりの「快刀乱麻」という連続テレビ時代劇があったようだが、団塊世代のはしくれに連なる私などは、「快刀乱麻」から「快傑黒頭巾」を連想してしまいます。
 怪傑黒頭巾といえば、大友柳太朗の当たり役。ついでにいうと、丹下左膳や鞍馬天狗も当たり役。
 大友柳太朗といっても、若い人はご存じないでしょうなあ。
 〝映画の黄金時代〟昭和30年代に東映時代劇の主役だったおじさんだ。
 市川歌右衛門、片岡千恵蔵、大友柳太朗、東千代之介、大川橋蔵、中村錦之助……団塊少年たちを熱狂させた大スターであります。
 昨今のテレビタレントとは格が違います。
 おっと、快刀乱麻が脱線してしてしまった。
 何がいいたいかというと、日本語にはイメージをふくらませてくれるすばらしい熟語があるということであります。
 (城島明彦)
 

〝ちなみに〟バカ症候群

 テレビを見ていて気になる言葉の一つに「ちなみに」の乱用がある。
 バカタレントが、むやみやたらと乱発している。
 この言葉を使うと、利口そうに見えるとでも思っているのか、なにかというと、「ちなみに」という。
 ちなみに、私など「ちなみに」というべきところでも、わざと使わないようにしている。
 以前、「ちなみに」と書きたくないので、「参考までに記すと」としたら、バカ編集者が「ちなみに」と直したことがあった。
 (城島明彦)
 

2007/01/04

城島明彦の「怪し不思議の〝気になる日本語〟」

 使いづらい言葉、発音しにくい表現は、次第に消えていくが、今日使われている若者言葉はどうだろう。
〝門久勇太郎(もんくいうたろう)〟こと城島明彦が、つれづれなるままに「気になる日本語」を挙げ、独断と偏見に満ちた寸評を加えてみた。

○エロカワイイ
 改めて説明するまでもないだろうが、エロチックな衣装で歌うセクシーな歌手、倖田來未を評する言葉で、2006年の流行語大賞にも選ばれた〝傑作新語〟である。大賞の対象語は「エロカッコイイ(エロカワイイ)」。
 エロは「淫靡な」イメージだが、かわいいには「清純」とか「無垢」なイメージがある。
 「アホバカマヌケ」のように類似の言葉を連ねることはあったが、本来、相入れないはずの二語を合成し、造語にしてしまったところに新鮮さが感じられる。
 矛盾する二語を、ただ連結すればいいのかというと、そうでもない。
 「ボケカワイイ」の場合、その対象が天然ボケの若い女の子なら「面白い」と思われるかもしれないが、本当のボケ老人が相手となると、「愚弄している」「小馬鹿にしている」「差別」などと受け取られてしまう。
 「エロドスケベ」のように類語を二つ並べるのではなく、関連性のない言葉を二つくっつけてみる。
 たとえば、「アホカワイイ」。
 「かわいいアホ」というと、ストレートで、いわれたほうはグサッとくるが、「アホカワイイ」となると、憎めない感じになる。
 「ブスドスケベ」のように、どちらもマイナスイメージのものをくっつけたり、「クソババ」「クソジジ」のようにどちらも汚なそうな響きの言葉をくっつけるのはよくない。
 そういえば、昔、インスタントラーメンのCMで、「おいしい」ことを「バカウマ」と表現したCMがあったが、これは流行語大賞には選ばれなかった。

○キモイ
 当初、「気持ちいい」の略かと思ったが、違っていた。
 「気色悪い」「気味悪い」「気持ち悪い」といった意味。
 この表現がはやりだした頃は、
 「何だ、この言葉づかいは」
 と思ったが、「肝」(きも)」の不気味な感じを連想させるのと、「キモイ」と声にだしていったときの音の響きが、いかにもそれっぽい感じがする面白さがある、と最近思うようになった。
 しかし、「気分が悪い」を「キブイ」という人はいない。
 応用を考える場合、「くさい」「まずい」「こわい」「さむい」「つらい」など、心身によくない状態を言い表す言葉で、末尾が「い」で終わる言葉には3文字が多いことから、「きたない」→「きたい」となってもおかしくないような気もするが、なにか変だ。
 「けったくそ悪い」を「けったい」としたらどうかと思ったが、関西で使われている「奇妙な」という意味の「けったい」という言葉はすでに存在するので、「ケタイ」にしたらどうか。
 しかし、それもピンとこない。
 類語として「モツイ」というのはどうだろう。モツ煮込みの、あのモツからの連想である。

○うまい
 日本語を乱れさせたA級戦犯は、テレビのCMと「バラエティ番組」である。
 バラエティ番組に登場するタレントたちの下品な言葉づかいが若者たちに与えた影響は、看過できないものがある。
 食事やおやつを食べて美味だったとき、口にする言葉は「おいしい」と思っていたら、いつからだろうか、下品さを売り物にした出っ歯のお笑い系女性タレントが、「うまい」「うまい」を連発するようになり、やがてそれが伝染して、上品な顔立ちの女優やタレントたちまで「うまい」と平気でいう時代になった。
 彼女らは、「食べる」というべきところを、「食う」と平気でいう。
 なんとも、下品で情けない時代になったものだ。
 パソコンで「うまい」と入力して感じに変換する場合、「上手い」「美味い」「甘い」「巧い」「旨い」「甘い」という候補が出る。
 「旨い」という言葉はまちがいではないが、男言葉である。
 自分自身にいうぶんには構わないが、人様がいるところで「うまかった」といってはいけない。
 男でも、ごちそうになったときには、「おいしかったです」というべきで、「うまかったです」というべきではない。ましてや妙齢の女性が「うまかったです」などとは、口がさけてもいってはいけないのである。
 女性は「おいしい」といわないといけない。
 大口をあけて笑うときや、ものが口に入った状態で話さねばならないとき、女性は手を口にあてるのがマナー。
 それが「女性のたしなみ」というもので、「おいしい」という言葉も同様。
 〝ブログの女王〟と呼ばれている才色兼備の若い女性が、テレビ番組の中で、しばしば「うまい」と口走るので、そのつど筆者は不快になったものだ。
 ある料理評論家のように「おいしゅうございました」とまで丁寧にいう必要はないが、少なくとも「うまい」などと口走ってはダメである。

○ウザイ
 「うざったい」を略したものだが、「煙たい」「煙ったい」→「けむい」と転じてきたいい方に近いものが感じられる。
 しかし、「かったるい」を「カタイ」とはいわない。
 筆者は少年時代を三重県で過ごしているが、キモイとかウザイと似たような三文字言葉の「マブイ」という言葉を使っていた。
 「まぶい」は沖縄や奄美大島で「魂」を意味する言葉らしいが、転じて「心が通う」という意味になり、「マブダチ」は「心の通った真の友」の意味になる。ダチは「友だち」の「だち」だ。
 「うざったい」が「ウザイ」なら、「うるさい」は「ウサイ」か?
 
○~ていうか
 「~ていうか」は、漫画風の表現で、「~ちゃって」「ったく」「~ってか」の同類。
 「ったく、元彼って、バカっていうか、ドジっていうか、なんちゃって」
 縮めて「~つうか」という使い方もされる。
 断定する自信がないときに使うっていうか、それまでの話をごまかすときに使おうとするっていうか、あいまいにする意味で使いたがる、ってか。

○私的(わたしてき)には
 普通は「してき」としか読めない。
 こういう使い方は、日本語にはない。
 あきらかに間違った、おかしな言い方なのだ。
 「愛的場面」のような中国語風のいい方のように思えなくもないが、どう考えてもおかしないい方。
 「私」といえばすむが、そういうのがどうしてもいやなら、「私としては」というべきである。
 「彼的には」「ピカソ的には」「魚的には」「野次馬的には」と同じ言い方をしているわけで、日本語にうるさいはずの作家やかなりインテリと思われている複数の文化人が、テレビに登場して使っているのは違和感がある、というより不快である。

○何気に 
 「なにげに」という言い方が若い人たちの間で使われだして間もなくの頃、たけし軍団の一人がテレビ番組の中で使うのを聞き、違和感を覚えたことがある。
 若者が使うのならわかるが、彼は四十代。怪談話が上手な男だ。
 彼は、何十年も「何気なく」といってきたはずで、「何気に」などという表現にはなじめないはずなのに、当然のごとく使ったので、おおいなる違和感があった。
 自分は流行に敏感で、若者言葉を自由に使いこなせるとでも思わせたかったのだろうが、「情けない男だ」としか感じなかった。
 そして、「こういう男がテレビで使い、こういうふうにして広がっていくのか」と皮肉な意味で納得したものだった。
 本来の言い方である「何気なく」「何気なしに」は、「何の気もなく」「何の気もなしに」という意味の美しい日本語である。
 どこをどう略したらそうなるのか、理解に苦しむ。
 「美しい国・日本」
 をめざすのなら、
 「美しい日本語」
 を破壊する表現もやめさせる教育をしないといけない。
 「何気に」などという表現は、その最たるもので、容認しがたく、
 「『せわしなげに』は、どう略すのか? 『せわげに』か」
 と毒づきたくなる。

○食べれる
 ら抜き言葉の普及を加速させたA級戦犯は、コンビニだったか、ファミレスだったかよく覚えていないが、CMであった。
 CMの最後に出る企業名の前に「飲める、食べれる」といったような語呂合わせ風の言葉が流れるCMがあった。
 その企業は、新聞や雑誌で「ら抜き言葉」が問題視されるようになってからも、平然と長期間にわたって続けていた。
 今ではもう流れていないが、小さな子供たちに与えた悪影響は、はかりしれないものがある。
 「食べることができる」という意味の「食べられる」であって、「食べれる」ではないのだ。口でいうといいづらいことは確かだが、だからといって、テレビCMや雑誌広告などでわざと「食べれる」と表現することはいけない。
 こんなことをいう筆者は、古すぎるのであろうか。

○~じゃないですか
 これを連発すると、話が長く、まどろっこしくなる。
 にもかかわらず、連発する女性アナウンサーが結構いる。
 「じゃないですか」という言葉は、本来は語尾を上げて相手に質問するいい方だが、流行語としての「じゃないですか」は語尾を上げないのが特徴。
 相手に同意を強要するニュアンスが含まれるので、いい表現ではない。
 たとえば、「朝顔は美しいじゃないですか」といわれても、全員がそうだと思っているわけではないのだから、迷惑な話なのである。
 もっとひどくなると、「うちの台所に洗面器が置いてあるじゃないですか」のようになる。
 そんなこと、相手は知るはずがないのである。

○めっちゃ
 「めっちゃかわいい」などと使い、「超」と同義語である。
 めっちゃは、「めちゃくちゃ」が縮まったものだが、「めちゃくちゃ」は「無茶苦茶」から転じたもの。
 つまり、「めっちゃ」は「無茶」から転じたと考えられないか?
 昔、吉本興業に花菱アチャコという名漫才師がいたが、彼の飛ばした流行語に「むちゃくちゃでござりまするがな」というのがあった。
 そういえば、以前は「めちゃんこかわいい」といっていなかったか。 

2006/11/16

30万人の読者の皆さん、ありがとう

 10月10日からライブドアのケータイサイトで連日更新してきた掌編怪奇小説は、32話をもって連載を終えました。
 (以後もケータイサイトには残っているので、前回8月分の10話ともども、まとめて全部読むことができます)

 これまで『怪し不思議の物語』を読んでくださった方は、11月10日に延べ30万人を突破しました。
 
 厚く御礼申し上げます。

 ケータイサイトに送ってくださった意見・感想は、著者である私のところへも届いており、今後の参考にさせていただきます。
 (城島明彦)