2023/07/21

「どうする家康」が、築山殿(瀬名姫)を通説の〝底意地の悪い女〟として描かなかった理由は「有村架純ありき!」 NHKはドラマの名を借りた〝歴史捏造常習犯〟か?

ドラマだから何をやってもいいのか? 歴史を捻じ曲げる傲慢・暴走するNHK

 本ブログ記事は1か月以上前に書いたが、NHK大河ドラマの展開に違和感を覚えることが多く、また(例年のことであるが)梅雨入り頃から鬱状態が重くなったことなどもあり、発表する気がなくなって、今日まで放置してきた。

 しかし、鬱状態が少し軽くなってきたし、せっかく書いたのだし、明後日にはウェッジ・オンラインで拙稿の「本能寺の変」が発信されるということもあり、発表しておこうという気になった。

 NHK大河ドラマの暴走は、「ドラマなのだから何をやってもいいのか?」という疑問を視聴者に突きつけ、歴史好きな人たちを不快な思いにさせているのが、今年の大河ドラマ「どうする家康」である。

 一度や二度というのではなく、これでもかこれでもかと異説を取り入れてストーリーを展開するのは、NHK大河ドラマ半の〝専売特許〟なのか。そこに思い上がりはないのか。

 時代考証を担当する学者は、何のためにいるのかといった問題もある。

 改めて考え見る時期に来ているのではないか。

 

過去の通説が、なぜ築山殿を「悪女呼ばわり」してきたか

 たとえば、『曳馬(ひきうま)拾遺』という古典には、築山殿(瀬名姫)には、

「無頼、悪質嫉妬に深き婦人なり」

 という残酷な評があったと書かれている。

『曳馬拾遺』は、「世間では彼女が嫉妬深かったというが、家康が彼女を冷遇したことはいわない」とも書いており、どちらかの肩を持っているわけではなく、いっていることを信用してよいのではないか。

▼築山殿を斬殺死へと追いやった原因は、大きく分けると「夫婦間の亀裂」「嫁姑の確執」の2点である。

①夫婦間の亀裂

 築山殿n生来の「嫉妬深さ」が災いして夫家康に疎まれ、別居を強要させられ、しかも家康が自分の侍女に手を出し、子まで生ませたことで逆上、「死んだら呪ってやる」と書いた手紙をだしたが、その手の手紙は何度もだしたとされている。

②嫁姑の確執

 嫡男信康の嫁徳姫(信長の長女)が男の子を生まないといって、いびりまくっただけではすまず、岡崎城下にいた武田勝頼の家臣の妾が産んだ娘を側室として信康にあてがうなどしたため、頭にきた徳姫が父信長に「姑築山殿と夫信康が武田勝頼と通じている」などと訴える12箇条の手紙で泣きついた。

 

 しかしNHKは、通説となっている以下の説を完全に無視した。すなわち、

「築山殿は美人だが悪女。勝ち気で強情、底意地の悪い女」

 という過去の築山殿評をそのまま踏襲せず、歴史を捻じ曲げて、築山殿を「悪女」ではない風に描いた。

  そのような悪女に設定すると、有村架純という好感度の高い大物女優が視聴者から反発を食らうと考えたからだろうが、有村架純という女優は演技力があるのだから、「人としての善女」と「悪女にならざるを得なかった築山殿の心の葛藤」を見事に演じさせることもできたはず。だが、そうすることなく、いかにも中途半端で安っぽい筋書きにしてしまった。

 

視聴者が喜ぶような筋書きに

 NHKは、「江戸時代に書かれた史料だから、神君家康の肩を持った書き方をする」「ドラマなのだから、何をやっても構わない」として、歴史的な事実を軽視ないし無視し、視聴者が喜ぶような筋書きにしたのである。

 その結果、NHKは、視聴者が有村架純が演じる築山殿から受けた印象は、概して「美人で、おっとりした賢そうな、話せばわかる、やさしいイメージの女」となった。

 信長は徳姫から「信康の蛮行の数々」を知らされ、徳川家の家老の酒井忠次がそれを肯定したことから「信康には人の上に立つ資質はない。殺せ」といったが、武田勝頼と通じたとする築山殿に対する罰則は口にしなかった。

 彼女を殺すようにいったのは家康である。だが家康は、彼女を佐鳴湖で斬り殺したとの報告を受けると、「もっと別のやり方があったろう」と斬殺に関わった3人の武将に話したという。

 別のやり方とは、築山殿は殺すことなく、尼にして尼寺に蟄居させることである。

 

歴史を無視したいなら考証は不要! 髪形も衣装の好きにすればいい

 家康には「信康を助けたい」という思いと同時に、「この騒ぎを利用して築山殿を遠ざけたい」という思いもあったと推測されるが、そのあたりの葛藤に深く立ち入ってトコトン描こうとNHKはなぜ考えないのか。

 男社会だった戦国時代の武将の妻が、どう生きようとし、どう生きるしかなかったのかといったことをNHKなら描けたはずだが、そうしなかった。

 そこにNHK大河ドラマの致命的ともいうべきマンネリ化と限界があるように思うのは、私だけだろうか……。

 過去の大河ドラマでNHKが盛んに行なってきたのは、話を面白くするために、時代考証をする歴史学者の意見を無視して暴走し、史実を平然と捻じ曲げることである。

 その最たる例が、家康の「伊賀越え」に江姫が同伴したというSFまがいの筋書きだった。NHKのご都合主義がそうしたというわけだ。

 そういうことをやりたいなら、空想劇「NHK大河ドラマ」とでもするしかない。

 今に始まったことではないが、NHKが傲慢といおうか、視聴者も小馬鹿にしているのは、視聴率を上げようとして、歴史を軽視どころか、歴史を捏造しまくることである。

 

たとえば「どうする家康」では、25回目の放送も

 築山殿が武田勝頼に開通した廉(かど)で、佐鳴湖畔で殺傷されるとき、家康が船に乗ってやってきて「死ぬな」といったという話は、どの史料にも載っていないし、こんなありえない演出を思いつくのはNHKぐらいのものだろう。

「低視聴率に悩むNHKが〝お涙ちょうだい〟で視聴率を稼ごうとした」

 と勘繰られても弁解できない創作である。

 昨今は、昔と違って歴史に詳しい人も多く、NHKが歴史的事実をどう曲げ、どのように操作したのかはすぐに知れるので、彼らを落胆させている。

 しかし、そういう人たちを除いた一般の視聴者は、史実がどうであったかを知らず、NHK大河ドラマは史実に基づいてドラマチックに描かれた真実だと思ってしまっている。

 そこに、大河ドラマの制作陣の思い上がりがあるといわれたら、NHKはどう弁解するのか。

 

徳姫が父信長にチクった「夫と姑の悪口12箇条」

 信康の正室徳姫が、実家の父信長に義母築山殿と夫信康の悪口を12箇条にわたって記した手紙を送り、それを家康の重臣が信長の前で「すべて事実」と肯定したことから、信長は「信康を殺せ」と命じたのだが、築山殿まで殺せとは命じていなかった

 徳姫が信長に送ったとされる12箇条の第1条は、築山殿が夫と自分の仲を裂くためにあることないことを家康や夫に告げ口して不和にしたことである。

 12箇条のうち、なぜか8箇条のみが今日まで言い伝えられている。『三河後風土記によれば、その第1条の文面は以下のようだったという。

一、築山殿悪人にて三郎殿(=信康)と吾身(わがみ)の中(=仲)をさまざま讒(ざん)して不和にし給ふ事。

 これが書かれている項目の見出しは「築山殿凶桿附信康君猛烈の事」となっている。

 凶桿は「きょうかん」と読み、「残忍」とか「酷薄」といった意味である。そこには、

「北方凶桿にて物嫉(ものねた)みの深くましましければ、いつしか御なからひも疎々しくならせ給えぬ」(正室の築山殿には残忍で嫉妬心が強かったことから、夫婦仲がだんだん悪くなっていった)

 とあり、自己主張の激しい女だったことがよくわかる。これが、彼女に対する歴史的な通説だ。

 それをひっくり返すには、彼女がドラマに登場したときから、陰ひなたのある複雑な性格である演技をしてこなければならない。そうすれば、視聴者は、「この危ういバランスはいつ壊れてしまうのだろう」と思いながら観るだろう。

 有村架純という女優は、そういう演技ができる人だと私は思う。そこまでの演技をNHKは彼女に求めなかったために、築山殿という女性の心の奥深くの悩みと苦しみ、怒りなどを表現できなかったのではないか。  

 

築山殿が家康に文句をいった手紙の内容

 築山殿が手紙で家康に文句をいったのは、以下のようなことだった。

 ①自分は正室である

 ②自分は徳川家の嫡男信康の母である。

 ③自分の父は家康のために(今川氏真に)殺された。

 ④嫡男を産んだ正室なのに、なぜこんなひどい扱いを受けねばならないのか。

 これらのことから感じられるのは、足利将軍家を後継できる家柄である「今川義元の姪」というプライドの高さ、家康の正室として跡継ぎの男子を生んだという自負心で、これが仇(あだ)となった。

 ただ『三河後風土記』には、想像力がふくらみ過ぎて、「見てきたような嘘を書き」といった点も見られる。次の一文はそれだろう。

「一念の悪鬼となり、やがて思ひ知らせまいらすべし」

 私が死んだら呪い殺してやるというような恐ろしげな怨念を彼女が家康に抱くようになったのには、それなりの理由がある。

 

別居から離縁への道を模索していた家康

 家康と築山殿が別居するようになったのは、家康が居城を岡崎城から浜松城に移した1570(元亀元)年正月からだ。

 そのとき29歳だった家康は、正室の築山殿を連れていかず、岡崎城の新城主にした嫡男の信康のところに留め置いたのである。

 形式的には「別居」だったが、実質的な「離縁」と何ら変わるところはなかった。

 家康は、ときどき岡崎城へ足を運んでいたが、築山殿の目を盗んで、彼女の侍女お万に手を出し、妊娠させてしまう。

 築山殿は怒り狂って、お万を激しく折檻したといわれており、おなかの子を堕胎させようとする狙いがあったと思われ、そういうところからも「築山殿は嫉妬心が強かった」という評判につながったのだろう。

 お万は百姓の娘だったが、神社の神主の養子にして身分を高くして築山殿の侍女におさまっていたが、ある夜、家康が風呂に入る世話(湯女(ゆな))をしてお手がつき、やがて妊娠したという経緯があった。

 お万を演じているのは広瀬アリスで、素の彼女がどことなくバカっぽい感じがするところが適役かもしれない。

 お万は、百姓の娘だけあって体が強かったのだろう、築山殿のいじめに堪えて出産したのが男子だったから、築山殿の怒りはさらに激しくなった。

 

真実か、でっち上げか

 築山殿が唐人医師を装った武田勝頼の間者(減敬〈めっけい〉にかどわかされて、勝頼と通じたとされている。

 そのことがどうして発覚したかというと、築山殿の侍女が、こっそり築山殿の手箱の底に隠してあった文筥(ふばこ)を盗み見ると、そこに武田勝頼の血判が押された誓紙があったことが発端とされている。

 これが真実か否かは、その誓紙の実物が残っていないから何ともいえない

 謀略かもしれないし、事実だったかもしれない。そういうしかないのだ。

 だが、その侍女の姉が信長の娘徳姫の結髪係をしていた関係で、そのことが徳姫の耳に入り、話が大きくなったという。

 徳姫は娘2人を産んだが、姑の築山殿から「男を産め」といびられただけでなく、武田につながる娘を側室として信康にあてがわれることまでされたことで、頭に血が上り、築山殿と信康の悪口を書いて信長に手紙で訴えた嫁姑戦争の勃発だった。

 

 信康・築山殿の事件について書くべきことは、まだまだたくさんあるが、このあたりでやめておこう。

 なお、12箇条の詳細などを知りたい向きは、拙著『家康の決断』をお読みください。

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(城島明彦)

2023/03/31

「どうする家康」の人気イマイチを「どうするNHK」?

どうする「期待を裏切る視聴率推移」

 私個人としては、『家康の決断』という本を出版しているので、大河ドラマ「どうする家康」の人気がよくないと本の売れ行きにも影響して困るのだが、ビデオリサーチによる視聴率(関東地区)の推移はイマイチだ。 

 放送開始から3ヵ月の月別平均視聴率の推移は、1485%→1285%→1022%と下落の一途をたどっており、「視聴者の当初の期待を裏切らるドラマ展開となった」ということになる。

 ▽1月 平均視聴率 14・85%

  1回 (1/8) どうする桶狭間  154

  2  (1/15) 兎と狼      153

  3  (1/22) 三河平定戦          148

  4  (1/29) 清州でどうする  139

 ▽2月 12・85%

  5    (2/5) 瀬名奪還作戦    129

  6  (2/12) 続・瀬名奪還作戦  133

  7  (2/19) わしの家      131

  8  (2/26) 三河一向一揆        121

 ▽3月 10・22%

  9  (3/5)  守るべきもの   118

 10  (3/12) 側室をどうする   72 ※WBC(侍ジャパン)中継の影響

 11  (2/19) 信玄との密約    109

 12  (2/26) 氏真        110

 例年の大河と違って、「どうする家康」では、少年時代から始めず、いきなり「桶狭間の戦い」からスタートしたのは新鮮に映り、「家康と信長がどう絡むのか」という点にも視聴者は関心をもったことが放送内容から推測できる。

 

「回想シーンの多用」は「映画的」で悪くない

 「回想シーンが多い」という批判がある。

 時系列に沿って物語が展開するテレビドラマを見慣れている若い視聴者の目にはそのように映るようだが、私はそうは思わない。

 構成上のテクニックとして回想を多用するのは「映画的な手法」を取り入れているからで、悪くはない。だが、視聴者に「多い」と思わせてしまうのは、「脚本の練り方」ないしは「演出技法」に問題がある。

 その場面で、読者の意識をドラマからたとえ一瞬でも離れさせてしまわないようにするのが、脚本家と演出家の腕なのだから。

 

家康以外の人物描写に時間をかけすぎ

 「どうする家康」は、家康以外の人物も深く描いており、それはそれで面白いが、必ずしも家康とその人物と絡んではいない場面も多く、そうすればするほど、家康の存在感は薄れることになる。その点に問題があった。

 「主人公がどうする」「主人公がどうなる」と思って視聴者はドラマを観ているのだから、主人公が長い間、出てこない場面が続けば、視聴者は「面白くない」と思ってしまう。

 そういう問題があるので、過去の大河ドラマでは、無理に主人公を絡ませる場面を作ろうとして史実を無視したり、主人公に立ち聞きさせたりする手法を使うなどしたが、そんな設定は安易で邪道というより、やってはならないことだ。

 

失敗しても飛ばされない制作統括プロデューサー

 「どうする家康」の制作統括プロデューサーは、汚い場面として視聴者にそっぽを向かれ、史上空前の大失敗作といわれ、大河ドラマ史上で「歴代ワースト2」の低視聴率をたたき出した「平家物語」を手掛けた人物と知って、驚いてしまった。

 民間企業なら、「信賞必罰」で、どこかに飛ばされ、〝冷や飯組〟になってるはずだが、NHKではそういうことはなく、以後もプロデューサーとして継続して仕事をしてきた。

 こういう微温湯的な体質が大河ドラマの視聴率を上げる大きなマイナス要因になっているのではないだろうか。

 

どこかズレているNHK大河ドラマ班

 大河ドラマの歴代ワーストナンバーワンは、年間の平均視聴率が〝恐怖の82%〟という2019年の「いだてん~東京オリムピック噺」で、東京五輪に便乗するつもりの安易な企画がたたったといえなくもなかったが、大河ドラマの定番である「時代劇」ではない素材にチャレンジした点は大いに評価したい。

 だが、詰めを欠き、主役に起用した中村勘九郎の人気が出なかったし、脚本も冒険しすぎて独りよがりとなり、視聴者が引いてしまった。

 その結果、大河ドラマの材料を時代劇以外に取り、明治・大正・昭和を舞台にしたドラマ設定という新路線への目論見は瓦解してしまった。

 

平均視聴率の「歴代ワースト・シックス」

 ワースト・シックスを列記すると、なぜ低視聴率だったかの理由が見えてくる。

 ①2019「いだてん~東京オリムピック噺~」82%――主演中村勘九郎

 ②2012「平清盛」12.0%――松山ケンイチ

  2015年「花燃ゆ」12.0%――井上真央 

 ④2018「西郷どん」12.7%――鈴木亮平

  2022「鎌倉殿の13人」12.7%――小栗旬

 ⑥2017「おんな城主直虎」12.8%――柴咲コウ

 娯楽が多様化したから視聴率が下がったわけではない。2020年「麒麟がくる」144%、2021年『晴天を衝け』吉沢亮141%なのだから、ワースト・シックスとなった上記の作品は、次の3点で失点を重ね、それらの相乗効果が人気離脱に拍車をかけたと見るべきだろう。

 ①内容がイマイチで、視聴者の琴線に触れず  

②テーマ選びのミス 

③主人公の人選ミス→好感度がイマイチの役者を選んだ

 

NHKは天皇家を軽視している

 「鎌倉殿の13人」では、NHKは、満を持して脚本家に三谷幸喜を起用し、前評判は高かったが、にもかかわらず、ワースト4の視聴率にしかならなかったのは、なぜか。

 私にいわせると、主人公の北条義時(鎌倉幕府の第2代目執権)は、幕府を倒そうとした「承久の乱」に関係したとして、後鳥羽上皇ら3人の上皇を島流しにしたことと関係がある。日本史上、そこまで天皇を粗末に扱った者はいない。

 たとえ遠い過去の出来事とはいえ、天皇家を軽視してそんな横暴なことをした者を主人公にしたドラマを私は見る気にはなれなかった。

 ここで思い出すのは、「平清盛」で「天皇家」といわず、「王家」と言い方をしたことだ。当時、そのような言い方に反発を覚える向きも決して少なくはなかった。

 王家という言い方もあったにしろ、3上皇を島流しにした北条義時を主人公にするにしろ、そういう一つ一つのことがらが、いくつか重なると、NHKは天皇家・皇室を尊崇していないと視聴者に受け取られても反論できなくなる。

 

女性主人公は「好感度か否か」が決め手

 NHKは男女を交互に起用しているが、女性を主人公にするとコケやすい。再来年の大河ドラマには吉高由里子を紫式部の役に起用したが、彼女も銀行のCMに起用されるなど清く正しいイメージになりつつあるものの、クセが強い感じは否めず、また映画のデビュー作「蛇にピアス」でいきなりヌードを披露したこともあり、女性層の好き嫌いが分れるので、私はコケる可能性が高いと見ているが、どうなりますか。

 「平清盛」の翌年2013年の大河ドラマは、綾瀬はるかを主人公に起用した「八重の桜」だったが146%を記録した。スキャンダルのない明るい天然系女優という憎めないキャラが好感度につながっているのではないか。

 ワースト2の井上真央は演技力があるし、ワースト6の柴崎コウも演技力はあるが、綾瀬はるかと比べると「好感度」の点で見劣りがし、それが視聴率に跳ね返ったのだろう。「好感度=国民的人気」という尺度を意図的に無視しているのかと疑いたくなるようなNHKの人選だった。

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(城島明彦)

2023/02/07

NHK大河ドラマ は、なぜフィクションで遊びたがるのか?

〝視聴率ばなれ〟を自ら誘引するNHKにブーイング

 

「妻子奪還」を2回もやる不思議

 NHK大河は、6回・7回と連続で「今川の人質」となっている家康の妻子(正室の築山殿〈つきやまどの〉、嫡男竹千代・長女亀姫)の奪回話「瀬名奪還作戦」「続・瀬名奪還作戦」だが、伊賀の忍者部隊を率いる服部半蔵と本多正信が妻子奪還を画策するという逸話は、「虚実入り混じった」というより、6回目などは「ほとんどがフィクション」であり、加えて、「妻子奪還というテーマに2回も費やしていいのか」と歴史好きな視聴者からは苦情の声も出ているようだ。

 たとえば、放送日翌日(2615:30配信)の「FLASH」は、《『どうする家康』の「完全フィクション回」に驚きと賛否 41話で家康の生涯「残り54年描き切れるか」の憂慮》と題して、ウォッチャーの感想として次のような声を伝えていた。

「第5話は、本多正信と服部半蔵が、今川の本拠である駿府に潜入、瀬名を奪還しようとして失敗する、というストーリーでした。しかし、これは明らかなフィクション。正信と半蔵という、これから重要な役柄を担う2人の紹介のために、1話を創作話で丸ごと費やしたといってもいいでしょう。

史実では、今川重臣の子息を捕虜とし、元康の妻子と人質交換したとされ、それが第6話の『続・瀬名奪還作戦』にあたります。家康といえば今後、長篠の戦いや伊賀越え、小牧・長久手の戦い、関東移封、関ヶ原、大坂の陣と、描かなくてはならないエピソードが山ほどある。それにも関わらず、フィクションを交えた妻子の奪還の話だけで2週分も使ってしまって……という視聴者の心配は、もっともでしょう」

 案の定というべきか、後述するように視聴率(関東地区の平均視聴率、ビデオリサーチ調べ)129%と低く、声なき声として「NHK大河は、史実無視のフィクションで遊んでほしくない」と多くの視聴者が思っていることは容易に推測できるのではないか。

 

「人質交換」が実態なのに「妻子奪還」とは?

 家康の人生の大きな節目は、19歳のときにやってくる。

 信長が、「桶狭間の戦い」で、誰も予想しえなかった「今川義元を葬り去る」という大金星をあげ、そのおかげで家康は、6歳のとき以来の「人質」という縛(いまし)めを解かれ、自城の岡崎城へ戻れたのだが、妻子はまだ今川家の人質として駿府にいた。家康を今川家の人質から解放しても、今川を裏切らなることがないように氏真がそうしたのだ。

 家康にとって妻子を人質から解放することは重要な事案ではあるにしても、NHKが2回にわたって「妻子奪還作戦」を描こうとまでする真意が、私には理解できない。 

 結論から言えば、家康が戦いで捕虜にした妻子の奪還は、家康が戦で生け捕った今川氏真の近親者2人との人質交換によるので、「奪還」などという表現はいささか大袈裟すぎるきらいがあるからだ。

 もう少し詳しくいうと、家康は、信長との軍事同盟(清州〈きよす〉同盟)が成立した翌月の1562(永禄5)2月、自ら兵を率いて出陣、名取山に本陣を設け、家臣の松井忠次・久松俊勝の両名に命じて上之郷城に忍び込ませて放火させ、同城を攻略した。その結果、城主の鵜殿長照および長照の弟は討死し、長照の長男氏長・次男氏次を生け捕りにしたのである。

 家康は、今川氏真が従兄弟2人を見殺しにはできず、何とか無事に生還させたがっていると知り、石川数正を駿府へ派遣し、人質交換交渉に当たらせた。こうして妻子は岡崎へ戻ることになったというのが、史実なのである

 

本多正信と服部半蔵

 本多正信についてだが、本多家は、松平(徳川)譜代の家臣で、幼少の頃から家康に近侍していながら、三河で一向一揆が勃発すると、家康を裏切って一揆方につくが、一揆が終息すると、家康は正信を許して家臣として復帰させ、家康の参謀として尽すようになる。

 服部半蔵は伊賀国服部郷の出身だが、父保長の代に伊賀から三河に移り、家康の祖父清康・父広忠、家康の3代にわたって松平家に仕えた。半蔵は、16歳のときに(愛知県蒲郡市にあった)三河宇土城(みかわうとじょう。上之郷城〈かみのごうじょう〉、西郡宇土城〈にしのごおりうとじょう〉とも)の夜討ちで戦功をあげたと『服部半蔵正成譜』(正成は名)に書いてある。

「西郡宇土城(にしのこおりのうとじょう)夜討の時、正成十六歳にして伊賀の忍(しのび)の者六、七十人を率いて城中に忍び入り、戦功をはげます。これを称せられて、家康より持槍(長さ七寸八分、両鎬(りょうしのぎ)を賜ふ」

 

「じり貧」の視聴率が意味するもの

 まだ放送が始まって2ヵ月目とはいえ、回を追うごとに「じり貧」の視聴率の推移がそのことを如実に物語っている。

  154%→153%→148%→139%→129

 歴史的に不明な出来事は、安易にフィクションに走らず、史実をとことん追いかけることで、「こうだったのではないか」という描き方をしてこそ、〝NHK大河の本領発揮〟といえるのではないか。私は、ずっとそう思ってきた。

 しかしNHKは、視聴率が下がろうが、叩かれようが、フィクション路線を変えようとはしない。

 

三河武士気質

 家康の人質暮らしは、足かけ13(織田家2年、今川家11年)にも及び、その間に初陣も済ませ、義元の姪を妻にもらい、子(一男一女。竹千代・亀姫)までもうけていたので、いつしか、そういう〝隷属的な暮らしが板についた〟としてもおかしくなかったが、家康はそうではなく、いつか岡崎城へ帰るという望みを捨てていなかった。

 その理由は何かといえば、極端なまでに「耐え忍ぶ」という、他に類を見ない〝三河武士気質〟ではないか。

 何に堪えるのか。刻苦であり、貧困であり、境遇などである。

 家康の父も祖父も20代なかばで不慮の死を遂げていたことも、「自分が松平家を再建する」という思いを強くさせた。

 譜代の家臣たちは、日頃は農業に精を出しながら、戦(いくさ)に備えていた。

 その一方で家康は、文武両面での教育に力を注いでくれていた〝烏帽子親〟(えぼしおや)である義元には「恩義」も感じていた。

 のちに家康は、「武士道」に代表される「人としての生き方の規範」として「儒教」を政治にとり入れるが、そうした背景には人質生活を通じて身につけた考え方があったのだ。

 そこが、何の苦労もなく育ち、蹴鞠や謡などに明け暮れていた義元の嫡男氏真(うじざね)と大きく異なる点だ。

 義元は、親バカにはならず、「家康を氏真の指南役にしたい」という強い思惑があって、人質であっても家康に文武両面での教育を受けさせたと推察でき、そのことは家康にも伝わっていた考えてよいのではないか。

 その反面、義元には人質に対する冷酷な一面も当然あって、普通は〝ご祝儀〟の意味合いで安全な「初陣」(ういじん)も、17歳のときの家康の場合の初陣「寺部城攻め」は、そうではなく、厳しい戦をあてがわれた。

 その年の家康は、寺部城だけではなく、広瀬城、挙母城、梅が坪城、伊保城なども攻めた。

 人質だから冷酷非情な扱いをしたという面以外に、義元は、家康に「〝武将としての非凡な才〟を見出していた」とも考えられるだろう。

 義元の武将らが「危険だから」という理由で引く受けなかった桶狭間の戦いの前哨戦「大高城への兵糧入れ」という至難の任務を、義元が家康に命じたのも、「人質だから」という理由に加えて「家康ならやり遂げる」という思いも義元にはあったはずだ。

 

(おまけ)伯父水野信元との石ヶ瀬の戦いについて

 家康は、今川から織田に転んだ伯父(家康の生母お大の方の異母兄)の水野信元(緒川城の城主)と石ヶ瀬で三度も戦っている。

  17歳(永禄元年6月) 石ヶ瀬川(愛知県大府市)を挟んで、緒川城(愛知県刈谷市)の軍勢と戦闘。

  19(永禄3年6月) 「桶狭間の戦い」(5月19日)後の6月中旬、石ヶ瀬から刈谷城外へと攻め入る。

  20歳(永禄4年2月) 三度めの戦い(家康は、横根(大府市)や石ヶ瀬で戦い、広瀬城や伊保城を攻めた)

  21歳(永禄5年正月) 信長・家康の軍事同盟「清州同盟」成立

    (永禄5年2月) 家康、名取山に本陣。甲賀・伊賀の忍者活躍。長照・長忠の兄弟は討ち死にし、2子(氏長、氏次)を生け捕る

 家康は19歳のときに大高城へ兵糧入れを果たし、城に留まっていたとき、信元は「今川義元が信長に討たれたから、そこにいると危ない。逃げろ」と知らせてくれたが、家康は自分で確かめるまで大高城を動かなかった。

 信元は、今川方から織田方に転び、家康が21歳になった1月には、信長の意をくんで家康との同盟交渉をになった人物だが、家康からは信用されていなかったのだ。信元は、のちに(長篠の戦い後)、「武田に内通した」と信長に疑われ、家康に殺されることになる。

 ▼拙著・拙訳書

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 (城島明彦)

2023/01/30

妄想・暴走・時空超絶の〝怪作〟家康やがな! デラおもろいでアカンわ! あんたも、大河ドラマ、いっぺん観たってちょう!

「どうする家康」の鬼採点! おどろき、ももの木、さんしょうの木、100点満点でどうなる?

おどろ記 第4話「清州でどうする」(1月29日)

 この前、見逃した「どうする家康」の第3回を土曜日の再放送で観て、明くる日曜の夜には第4回を観ました。で、感想はというと、全体にかなりテンポが速いという印象でしたな。それだけじゃあ、おもしろくないというんで、採点してみました。

〇新説度 200点

 家康には今川義元の姪(築山殿〈つきやまどの〉)という正室がおりましたが、NHK大河は「信長は、妹お市と家康を夫婦にさせようとしたが、成立せず」という〝びっくらぽん〟の新説を打ち出しましたぞ。当時は、同盟を結ぶと相手の息子や娘と結婚させて親戚になるのが普通でしたから、という理屈ですかな。

 そういう想像自体はあってもよいでしょうが、『信長公記』などの記録には残っておらず、いかんせん、嘘っぽすぎますわな。その分、新鮮味というか、新説度は抜群!

 家康と信長は、実際には、同盟を結んだ翌年(1563〈永禄6〉年)に、信長の長女(徳姫〈五徳〉)と家康の嫡男(竹千代)を婚約させました。幼すぎたので、実際に結婚するのは同盟から5年後の1567(永禄10)年。それでも新郎新婦はどちらも9歳と幼かったから、子どもが生まれるのは18歳になってから。ところが、徳姫が産んだのは女の子2人。

それを見て、姑のお大の方は「なぜ男児を産まぬのじゃ」と嫌味を言い続け、あげくの果てには、側室をあてがうのですな。こうして嫁姑問題は激しくなっていったというわけですな。

〇北川景子のブスメイク 80点

 信長の妹で、〝絶世の美女〟といわれたお市の方を演じるは、その役にぴったりの北川景子だが、「えッこれが北川景子!?」という、普段よくみているお顔とあまりに違う〝ブスっちい顔だち〟で登場したので、あっと驚いた。これがすっぴん顔なのかい?

 ▽お市の方 家康は6歳から8歳(数え年)まで織田家に人質に取られていたが、お市が生まれたのは1547〈天文16〉年。家康が織田家に人質にとられた年なんですな。よって、家康68歳、お市13歳というのが歴史的事実。信長は1534(天文3)年生まれなので、お市は13歳年下の妹ということになりますな。

〇タイトルバック一新 85点

 マンネリ打破の意気込みを買う! タイトルバックのチャレンジングな演出姿勢が伝わり、好感度。

〇「どうする家康」の不思議ロゴ 35点

 まるまっちいロゴマークは「ダンゴムシ」に見えてコミカルすぎて違和感がある。意外性はあるが、デザイン的にはイマイチ。〝だんごむし家康〟は子どもには受けるかもしれませんなあ……。

 10カウント「だるまさんがころんだ」に変えて、これからは「いえやすはだんごむし」ってぇのは、どうでっしゃろ? あかんか。

〇回想利用に新機軸 90点 

 NHK大河は幼少期から時系列で描くのが通例で、そのためにチンタラチンタラとなる悪弊を生んだが、それを廃して、幼少期などは「回想」という形で処理する手法を取ったのは、大進歩といえる。

〇今川義元のバカ遺児嫡男氏真(うじざね)が瀬名姫を手込め 15点

 家康は、16歳のときに、義元の姪の瀬名姫(築山殿)を嫁にしたしたが、彼女は家康より推定810歳年長で、それから3年後の桶狭間の戦いの頃は2527歳。

 一方、「霞か、雲か、はた露か」の有村架純は29歳だが、役柄が家康の嫁の瀬名だけに、そんなに違和感はありませなんだ。

 氏真は死んだ親(義元)も認めていた「暗愚」ではあったが、女に不自由はしておらず、♪カゴメ、カゴメ、籠のなかの鳥の人質の家康の嫁を手ごめにするなどということは、ありえないし、資料にもないし、NHKも描いてはならんのとちゃうのん。テレビは子どもかて観てるんやでぇ。

〇年齢詐称の大胆演出 -50点(大赤点!)

 超低予算番組「孤独のグルメ」で一世を風靡した松重豊の「石川数正(かずまさ)」役、これはいけませんぞ。桶狭間の合戦当時の数正の年齢は27歳ですからな。

 松重の実年齢は60歳で、どうみても青年には見えませんわな。

 いつも平気でこういうことをやるのが、NHKの悪いくせだっちゅうの。視聴者を馬鹿にしてんのか? NHK党の意見は、どうや。

 それはさておき、北川景子・松重豊共演の映画「ヒキタさん! ご懐妊ですよ」は面白かった。おススメですぞ。

〇ジャニーズとの癒着度 50点

 岡田准一が信長役だが、折しも、キムタクが信長に扮した製作費22億円という超々々大作映画「レジェンド&バタフライ」がNHK大河放送の2日前の金曜日(127日)に公開された。大河の家康が松本潤、信長が岡田准一で、映画の信長がキムタクとなれば、いずれも(元)ジャニーズ。脚本が大河と同じ古沢良太という点も含めて、話題づくりを狙った〝あざとさ感〟も読み取れるわな。

 岡田准一は、2014年のNHK大河「軍師官兵衛」で主演黒田官兵衛を演じた。(個人的な感想をいえば)そのイメージがいまだに強く、信長を演じても当時の姿とダブる。そういう人物を起用すれば、NHKとジャニーズの癒着を疑われかねない。

〇信長から〝白うさぎ〟呼ばわりされた 50点

 秀吉は「猿」、家康は「狸」に対して、信長は「虎」か「狼」と呼ばれることが多いのですが、NHKは「織田家の人質時代の信長は14歳~16歳の悪ガキだったから、家康をイジメまくったに違いない」と解釈したようですな。しかし、いくら何でも8つも年下の幼児をぶん投げたり、とことんイジメたとは考えづらいですわな。

〇今川に義理をつくすか、悲願の独立かの描き方 65点

 家康は義理堅い人。今川義元は人質家康に教育を施し、武芸の稽古も積ませたが、家康の初陣でも大高城への兵糧入れでも温情は見せず、下手をすれば命を落としかねなかった。家康の心中には「恩讐」の両面が拮抗してたのだ。家康は、義元が死ぬと家臣の待つ岡崎城へ帰るが、氏真には「桶狭間の復讐戦をせよ」と何度も迫っている。

 そこが家康の義理堅いところだが、氏真のもとには依然として「妻子が人質として囚われている」という理由もあった。

 信長が家康に同盟を呼びかけたのは、桶狭間の戦いから2年後である。

〇清州同盟締結で見せた信長の横暴な態度 50点

 信長が父信秀の法要で位牌に香をつかんで投げつけたのは、19歳のとき。

 その行ないを諫めようとして、教育係を務めた家老が自決した事件が起こるんです。でもって、さすがの〝野生児〟信長も猛省して、しばらくは行ないを慎んでいたのですが、やがてまた以前のような型破りな言動が戻ったといいます。

 同盟締結についてですが、これは、家康が、桶狭間の戦いの前哨戦となった「大高城への兵糧入れ」で信長軍を圧倒したのを見て、敵に回すのは損だと考えたからでしてな。

信長の方から頭を下げて持ちかけた話なんですから、大河ドラマで描かれたような乱暴きわまりない接し方はしなかったと考えるのが常識です。つまり、対等の関係の同盟であり、そのとき29歳だった信長は21歳の家康に対して、年齢こそ8歳もへだたっていましたが、「徳川殿」「家康殿」と丁寧に接したはずです。

 しかし、その対等の関係は、同盟を結んで年月が経つにつれて、家康が愚直でおとなしい忍従タイプであるのを見て、信長は次第に上位に立つようになっていったんですな。

そうはいっても、何ごとにも真剣に取り組む家康を尊敬する気持もあり、言葉遣いなどにも気をつかっていたようで何ですぞ。

〇家康の母(お大)の描き方が異常っぽい 65点

 NHK大河では、家康の生母お大(於大の方)が「しゃしゃり出て」きて、家康にあれこれいわせましたが、そういう性格付けはどこから出てきたのかてぇと、家康の嫁になった信長の娘徳姫との嫁姑問題からでしょうかなあ。徳姫が父信長に手紙で嫁いびりの実情を訴え、信長は娘の言い分を聞き入れて、お大と徳姫の夫を殺すように家康に申し入れたことがありましてな。政治にあれこれ口を差し挟んだり、嫁をいびり倒す意地の悪い性格という描き方は、この事件に拠(よ)っているのでしょうな。

▼初夢速報! 戦国の三英傑が揃い踏みの「どうする家康」の番宣に、きれいどころの有村架純に北川景子に松嶋菜々子が、Tバックの後ろ姿で出血大サービスってか! 

 戦国の三英傑だけに、これがほんとの「三ええ尻(けつ)」やでぇ。

 そんなケツ(けっ)たいな大サービスがあるわけないやろってか。

 ――史実とドラマとの違いは、拙著『家康の決断』を読んでもらったら、たちどころにわかるでなも。よろしゅう頼んますわ。

 おいでやす、家康へ。やすうしときまっせ!

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2023/01/23

「どうする家康」第3回目、「伯父(水野信元)につれられて母が会いに来た」は嘘! 「大高城への兵糧入れ」前日に「家康がひそかに会いに行った」のが正しい! 

 体調が悪く、ずっと眠っていて第3回の放送を見逃したから、偉そうなことはいえないが、爆睡したおかげで早起きし、スポニチアネックスの記事を読んで、「またNHKの悪い癖が始まったか」と思った。

 ドラマを面白くするためには、平然と歴史を歪曲するという困った癖だ。

 どんな内容だったかが、スポニチアネックスに次のように書いてあった。傍線は筆者。

  第3話は「三河平定戦」。故郷の三河・岡崎へ戻った松平元康(松本潤)は、打倒・織田信長(岡田准一)を決意するが、弱小の松平軍は全く歯が立たない。一方、今川氏真(溝端淳平)は援軍をよこさず、本多忠勝(山田裕貴)らは織田に寝返るべきだと言い始め、駿河・駿府に瀬名(有村架純)を残す元康は今川を裏切れないと悩む。そんな中、伯父の水野信元(寺島進)が岡崎城に“ある人”を連れて来る。それは16年前に生き別れた元康の母・於大の方(松嶋菜々子)だった…という展開

 

 この記事を読んで、「へえ、そんな風にしたんだ」と思ったが、事実の改竄(かいざん)はNHK大河の常套手段。「またやったか。ひでえもんだ」である。

 家康(当時の名は元康)が三河平定に着手するのは、桶狭間の戦いで今川義元が信長に殺され、人質から解放され、岡崎城に戻ることができたからだった。しかし、今川義元の後継者の氏真が生きていて、妻子は依然として「人質」として氏真の監視下に置かれているから、完全な自由の身ではない。

 

 NHK大河では「母が家康のところへ会いに来た」としているが、実際は、その逆で、会いに行ったのは家康の方であり、会った時期も違っている。

 家康が母に会いに行ったのは、「大高城への兵糧入れ」の前日。

 NHKが母が会いに来たとするのは、その翌年。

 

 家康は、桶狭間の戦いに臨む今川義元から、信長軍に包囲されて食糧が尽きてきた「大高城への兵糧入れ」という〝危険きわまりないミッション〟を命じられ、「死ぬかもしれない。攻めて、その前に」と考えて、こっそり生き別れた母に会いに行ったのである。

 NHKがこういうことを知らなかったはずはなく、知っていて、わざと事実を歪曲したのだ。そうした大きな理由に、「お大に扮したNHK好みの女優の一人、松嶋菜々子の登場場面を効果的・印象的に演出したいとの意図があったからではないのか」と私は推測している。

 なにせ、家康の伊賀越えに江姫を同行させたNHKである。これぐらいのことは朝飯前なのだろう。

 

「そんなこと、どっちでもいいじゃないか」という人もいるだろうが、自分から「生母に会いに行く」と「生母が会いに来た」とでは、家康の考え方、性格などの解釈がガラッと変わってくる。NHK大河班の連中は、そういうことは考えないのだろうか。 

「ドラマを面白くしたい」「新しい家康像を創出したい」ということばかり考えて、歴史を都合のよいように好き勝手につくり変えてしまうのは、本末転倒ではないのか。民放ならいざ知らず、少なくとも受信料でドラマをつくっているNHKがやるべき姿勢ではない。

〝カピバラそっくり顔〟立花孝志(NHK党党首)さんよ、こういう点も追及せんといかんよ。

 

 拙著『家康の決断』(ウェッジ)のその個所を以下に引用するので、参考にされたい。

「元康は、信長との戦いで戦死するかもしれないと思い、その前日、ひそかにある人に会いに行った。3歳のときに生き別れたお大(於大)の方である。

 お大は、織田方の久松俊勝と再婚して、その居城「阿久比城」(あぐいじょう/愛知県知多郡)に住んでいた。お大は驚いたが、16年ぶりに会う、別れたわが子が立派な姿になっているのを見て涙を流し、元康もまた涙にむせんだという。

 お大は、「生家を相続した異母兄(水野信元)が従属先を今川から織田へ鞍替えした」という理由で、元康の父(広忠)に離別された関係で、そのときは実家の居城には入れてもらえず、城の近くの椎の木屋敷というところに住み、水野家の菩提寺「楞厳寺」(りょうごんじ/曹洞宗)で仏門に入った」 ※お詫び:拙著を読み返すと、ケアレスミスを犯しており、「水野信元」を「水野元信」と誤記(P34)していた。すみませんなあ。

 この文の後に、私はこう書いた。

「自立してからの家康の女性の好みは、秀吉と違って、顔や身分を少しも気にしなかっただけではなく、後家や出産経験のある者を何人も側室にしたが、その理由は幼くして別れた母お大の方への思いを心の奥で追い求め続け、母親のような包容力のある女性を追い求めていたからではないのか。私には、そう思えてならない」

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(城島明彦)

2023/01/15

ふざけてんの? 「どうする家康」はパロディ? ギャグ大河? どうするNHK!

 NHK大河「どうする家康」の初回を見て、違和感を覚えたのは、私だけではなかった。

  「日刊ゲンダイDEJITAL」(1月18日)は、こんな出だしの記事を発信した。

 筆者はコラムニストの海原かみな氏。

 

 「この8日に始まったNHK大河ドラマ『どうする家康」を見て、「あれえ、今年は青春コメディーかいな」とズッコケたのではないか。

 

 1回目・2回目を通じて私が感じたのは、「わざと、ふざけているのか」ということだった。新機軸を打ち出そうとして、意図的にそういう線を狙ったのなら、考え違いもはなはだしい。

 まず年齢設定は、いつもながらの「でたらめ」で、今回もひどいことになっている。

 

▼でたらめ、その① 42歳の岡田が14~16歳の信長を演じた不気味

 家康と信長の年齢差は8歳。竹千代と呼ばれていた家康が、織田家に金で売られて人質となったのは6歳から8歳まで。

 そのときの信長の年齢は14歳~16歳だった。

 大河では、信長が幼児の家康役の子役を何度もぶん投げる、〝いじめ〟ともみえるようなシーンがあったが、そういう想像はさておくとして、演じる役者の年齢が無理すぎた。

 信長役の岡田准一 1980年生まれで42歳。

 42歳の岡田が1416歳を演じること自体、無理を通り越して不気味である。

 役者だから縁起はうまいが、やっていることは、

 

▼でたらめ、その② 27歳の石川数正を60歳の松重豊が演じる不気味

 桶狭間の戦いは1560年。

 このとき石川数正は27歳(数え年)。

 演じた松重豊は59歳(数えで60歳)。 

  ※石川数正 1534~1609年

   松重 豊  1963年1月19日生まれ

 NHK党の攻撃材料にされかねない、こういう無茶というか、視聴者の気持ちを逆なですることを平気でやれる神経を疑う。 

 

▼でたらめ、その③ 本多平八郎忠勝が主君である家康に〝タメ口〟を叩くデタラメ加減

  家臣忠勝が主君家康を尊敬できないという理由でタメ口を聞くという設定自体、戦国時代の主従関係ではなく、現在の感覚で頭の中で想像した設定で、誰が考えても無理がある。

 

▼こんな演出では、視聴者はだんだん離れていくだろう。そうならないことを祈るばかりだ。

 ただ演出面では「救いもあった。

  

【参考】真実を知りたい人は、こちら

 徳川家康から学ぶ「忍耐力」  

 ウェッジ WEBマガジン「WEDGE ONLINEhttps://wedge.ismedia.jp

 ①「人質家康」はいかに辛抱して活路を見出したか (11日発信)

 ②戦国武将に一目置かれた「桶狭間の戦い」での徳川家康 (18日発信)

 ③徳川家康と織田信長の浅からぬ縁 出会いから別れ19日発信)

 

 天下人に上り詰めた徳川家康の「決断力」

 幻冬舎 WEBマガジン「GOLD ONLINE」 http://gentosha-go.com/ 

 【第1回】 NHK大河『どうする家康』時代が求める新しいヒーロー像は? (18日発信)

 【第2回】戦国時代の人質の半数は殺害!徳川家康はなぜ生き延びたのか? 115日発信)

 

 ▼拙著『家康の決断』

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(城島明彦)

2023/01/08

NHK大河「どうする家康」第1回放送で、気づいた点いくつか

いろいろ工夫していることは伝わったが、さあ、これからどうする

〇信長「桶狭間の戦い」の前哨戦「大高城への兵糧入れ」の家康から始めたのは賛成

 これまでの大河では、幼少期から始めることに固執してきた感がある。幼少期などは、どこかで回想シーンとして入れればいいのに、そうすることなく、毎度毎度、似たような展開にい、〝一種のマンネリ化〟を招いていた。

 その点、「どうする家康」では、19歳のときの「大高城の兵糧入れ」から始めたのは評価できる。

 大高城への兵糧入れのシーンで、初陣(2年前の17歳)のカットを回想シーンとして入れる手もあった。

 

〇桶狭間の戦いと大高城への兵糧入れの場所の位置関係・時間比較をもう少しわかりやすくした方がよかった

 桶狭間の戦いで信長が義元に討たれたのと家康が大高城の兵糧入れに成功したのは、ほぼ同時刻で、両者は少し離れた場所にいたでに入っており、兵糧を入れたとおおたか

 

〇今川義元の顔は。「武将顔」ではなく、「公家顔」のはず

 桶狭間で信長に討たれる義元の顔は、顔は白塗りで、お歯黒をした公卿顔(〝おじゃる顔〟)なのに、普通の武将の顔と同じになっていたのは史実に反している。

 野村萬斎が普通の武将のメイクで義元役を激しく演じたが、そのまま信長役になれた。

 信長役は岡田准一だが、おっとりしており、イメージとしては違う。

 

〇NHKのジャニーズとの癒着が岡田准一を信長に起用したのか?

 野村萬斎のが短い時間だったが、演じた顔・姿・声、動作は信長そのもののように私には映った。

 岡田を白塗り、お歯黒メイクにすれば、義元のイメージとピッタリになったのではないか。

 家康の松本潤、信長の岡田准一。どちらもジャニーズ。

 そこにミスキャストの生じる癒着構造があるのではないか、とゲスのかんぐりをいれたくももなるのだが……。

 

〇イッセー尾形のいつもながらのオーバーな芝居にダメ出し

 老家老(鳥居忠吉)役のイッセー尾形は、NHK大河でいつも大袈裟な演技をし、浮いている。今回も「歯が抜けていて何をいっているのかわからない」という設定だが、オーバーすぎていて浮いてしまっている。

 演出家に抑える力がないのか、尾形が勝手にそのような演技にこだわるのか。シラケるのは私だけなのか。

 歯抜けになるとスース―いう音が混じるだけで、棋士の加藤一二三も歯抜けだが、何をいっているかはわからなくはない。

 

〇有村架純演じる瀬名姫は姉さん女房(8~10歳年上)

 家康が瀬名姫と結婚したのは16歳。そのとき瀬名は2426歳。

 一方、松本潤は現在39歳。有村架純は29歳。

 どちらも若づくりはしても、その年齢差には見えないところが苦しかった。

 (個人的には、演技力があり、笑顔が似合う有村架純は嫌いではない)

 

〇家康と築山殿がラブラブの関係であったようにNHKは描いたが、後に家康は、信長の命で築山殿を斬殺させることになる。そのシーンをどのように描くのか気になった。

 一般には、家康は、嫁に行き遅れた年上の娘を義元から無理やり押しつけられた、と解釈されてきた。

 ドラマとして面白くするのは、それでは都合が悪いとNHKは考えたのだろうか。

 

〇元康(家康に改名前の名前)と瀬名姫の夫婦関係

 今川の人質時代の家康は、元信、元康だ。

 (幼名)竹千代→(元服)元信→(結婚した頃、改名)元康

 元信・元康の「元」は今川義元の「元」。

 瀬名姫は、義元の姪で結婚後は築山殿(つきやまどの)と呼ばれことになる。

 義元が2人を政略結婚させたので、家康が彼女を好きだったかどうかはわからない。

 夜の結婚生活は、年齢差を考えると、築山殿がリードし、それがトラウマとなって、後に家康は後家や美醜を問わないようになったのではないか。私を含めて、そう考える人は決して少なくない。

 ただし、結婚前の2人の関係に触れた史料はなく、義元が人質家康をどのように扱ったかという細かい史料もないから、結婚前から好き合っていたいたとするNHKの解釈は間違いではない。

 

〇大高城への兵糧入れに成功した後、家康が弱気になって姿をくらまし、大高城のすぐ裏の海岸を1人さまよっていると、そこへ馬に乗った武将の槍で襲われ、その武将が本多平八郎忠勝だったというシーンは不要ではないのか? 

 家康が義元の死を知ったのは、桶狭間の戦いの翌日。それも夕刻。

 大高城を守っていた家康のところへ、放っていた密偵が戻ってきて、義元が桶狭間で殺されたと報告するが、家康は信じない。

 続いて敵方の織田勢ではあったが伯父からも手紙で「義元が信長に殺されたから逃げろ」と急を知らせてきたが、家康は密偵を放って調べさせ、それでようやく事態を知り、「さあ、どうする家康」となり、岡崎城へ向かうのが史実。

 今川勢は、あっちの砦、こっちの砦から逃げ、岡崎城からも逃げているとの報告を聞くと、家康は、有名なセリフを吐く。

 「捨て城ならば、拾わん」

 堂々と岡崎城に入城したのである。

 このあたりのことを描いてほしかった。そうすれば、家康の用心深さが伝わると思うのだが。

 ドラマなんだから、固いこといわずに、ま、いっか。(ん?次回?)

 ▼(手前みそコーナー)

 トコトン史実にこだわりたい人に、おすすめ! 事実は事実、ドラマはドラマという人にもおすすめの1冊!  

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(城島明彦)

2022/12/07

俳優の故・志垣太郎が寿司をおごってくれた思い出

1972年に千葉県茂原市のロケ先で

 志垣太郎が心不全で急死したことは、誰から聞いたのかは忘れたが知っていたので、「長男がブログで37日に逝去していたことを発表した」と本日のスポーツ紙などが報じているのを見て、「えっ、未発表だったのか」と驚いた。

 志垣太郎が寿司をおごってくれたのは1972(昭和47)年の春から夏にかけての頃だった。

 当時私は東宝の映画の助監督をしており、森谷司郎監督の「初めての愛」についていた。ありふれた言い方をすると、「2組の男女の青春の光と影を描いた映画」で19729月に公開されたが、当時はまだ無名に近かった「少しは私に愛をください」をはじめとする小椋佳の歌を全編にいくつも使った点に森谷司郎の先見の明があった。

 森谷司郎は、私が東宝に入社する際の保証人の1人だった。

 「初めての愛」の主演は岡田裕介(のち、映画プロデューサーを経て東映社長・会長)で、準主役が恋人役の島田陽子。

 志垣太郎は岡田裕介と同居している親友役の準主役で、志垣の恋人役が、当時文学座の演劇研究所に所属していた服部妙子。

  Photo_20221207193601 東宝映画(1972年)「初めての愛」ポスター 

 中央左寄りの男女は岡田裕介と島田陽子。下段左の写真が志垣太郎(後ろの女優は加賀まりこ)

 

 「初めての愛」では、服部妙子が千葉県の茂原に住むおじいちゃんを尋ねるシーンがあり、茂原へ12日のロケがあった。撮影が終わって旅館に入り、スタッフは大広間、島田陽子と服部妙子は同じ別室になった。

 私は神経質で寝床が変わると寝付かれないのに加えて、スタッフ連中がマーシャンをするので、うるさくて眠れず、そのうち腹も減ってきたので、「寿司でも食べに行くか」と思って出かけた。志垣太郎と出会ったのは寿司屋へ向かう道だったのか、店の暖簾をくぐると志垣太郎がいたのかは忘れたが、1時間くらい寿司屋にいて、いろいろ話をし、一緒に旅館へ戻った。会計をするとき、5つ年上の私が2人分支払おうとするのをさえぎって、志垣太郎が支払った。

 腹が満たされたせいか、旅館に戻ると、すぐに寝つき、翌朝目を覚ますと、周囲の様子が変だった。

 何事かときくと、スタッフの誰かが島田陽子と服部妙子が寝ている部屋に忍び込み、足を撫でるという事件が昨晩あったのだという。足を撫でられる被害に遭ったのは、服部妙子の方だという。

 スタッフの誰かが、「犯人はパジャマを着ていたというじゃないか」と私に繰り返しいった。

 島田陽子と服部妙子は私のことを〝パジャママンさん〟と呼んだが、冗談にしろ、旅館の浴衣に着替えず、持参したパジャマに着替えていたのは私だけだったから、不愉快になった。

 そういう事件があったので、出発するロケバスのなかは、重苦しい雰囲気で、誰もしゃべらなかった。

 ロケバスの運転手が犯人だとわかったのは、その翌日だった。

 それから50年もの歳月が過ぎた。

 

 「初めての愛」が完成し、9月に公開された後、私は、助監督会が発行しているシナリオ同人誌「アンデパンダン」に志垣太郎を主人公にした青春映画のシナリオを2作寄稿した。そのうちの1本がそれで、「白薔薇懺悔録に記された青春譜」といったような青くさいタイトルをつけたが、会社からの反応はなかった。

 私が映画界を去ったのはその翌年のことだった。辞めた後、提出してあった別の企画が通って、福田純監督から電話があり、「自分の手で映画化するから脚本を書いてくれないか」といわれ、第2稿まで別の筆名で書いて、あとはその組に着く助監督の手に委ねた。

 

 森谷司郎監督は、1984(昭和59)年12月に逝去し、岡田裕介は202011月に71歳で亡くなり、志垣太郎は20223月、島田陽子は同年7月に69歳であの世へ行った。

「初めての愛」の主役・準主役で残っているのは、私より3歳若い1949年生まれの服部妙子だけ。

 服部妙子は愛知県の出身で、彼女の父と私の叔父は東海銀行(現在の三菱UFJ銀行)の同僚で仲が良かったことから、変わり種どうしの私と彼女を結婚させたかったらしいことが、あとになってわかった。

 映画の撮影以前か撮影中に、彼女の父と親しいという話を聞いていたら、個人的な話もしたろうに、もしかしたら、夜、「寿司を食べに行かないか」と誘っていたかも知れず、いや、そこまでいかなくても、旅館でコーヒーでも飲みながら歓談ぐらいできたかもしれない。そうなっていたら、痴漢事件も起きていなかったのではないか、と私は思うのだ。

 次の本は、あの事件からちょうど50年後の今年、私が執筆した近著で、400数十年前の家康の青春時代も書いてある。ぜひ、ご一読を!

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 (城島明彦)

2021/05/12

NHK大河の悪い癖が始まった! 「蒼天を衝け」の平岡円四郎(堤真一)が「べらんめえ口調」で浮きまくっている

ドラマ展開をもっと主役の渋沢栄一に絞れないものか!

 

 平岡円四郎は、渋沢栄一と一橋慶喜(15代将軍徳川)をつないだ人物だが、資料はほとんどない。

 この人を演じている堤真一は、べらんめえ口調を使いまくって、ドラマから浮いている。

 

  べらんめえ口調で有名なのは勝海舟だが、知名度の点では、平岡円四郎はその足元にも及ばない。

 なのに、主役の渋沢栄一を食うような芝居をさせている。

 渋沢栄一は自叙伝の類をたくさん残しているが、そこにも平岡はそれほど出てこないし、渋沢と直接知り合ったのではない。

 自叙伝などを読めば、そういうことがわかる。

  平岡は、徳川慶喜を支えた一人だが、やがて暗殺される人物なのに、NHKはえらくこの人に入れ込んでいる。

 だが、そうすればするほど、主人公の渋沢栄一の存在が軽くなっていく。

 「京都へ行く通行手形をもらいに平岡の屋敷へいったら、平岡はすでに京都へ出かけており留守で、かわりに奥さんが通行手形を渡してくれた」という程度のことしか書いてないのに、NHKは平岡の妻役の木村佳乃にたっぷり芝居をさせている。しかも、その性格は、平岡円四郎同様、妙に明るく、キャピキャピした人物になっていたので驚いた。

 それぞれの人物の家庭内のことを描けば描くほど、歴史的人物としての重みは薄れていき、それにつれて視聴率もだんだん下降していく。

 

 NHKは、これまで描かれていない人物で新たな人物像を作ろうとしているのかもしれないが、過去にも同様のことを繰り返して、次第に人気離散してきたことを忘れ、また〝独りよがりの世界〟に入りつつある 

 主人公にもっと傾注せよ。そういいたい。 

 拙著『福沢諭吉と渋沢栄一』では、渋沢栄一と福沢諭吉の人生を比較対照しながら描いており、平岡円四郎にも触れているので、関心のある向きはどうぞ。

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(城島明彦)

2020/01/20

NHK大河「麒麟がくる」の初回は〝可もなく不可もなし〟

明智光秀は史料がほとんどないから自由に描けるが……

 

 東京五輪人気を当て込んだ2019年のNHK大河ドラマ「韋駄天」が、コケにコケまくった後を受けた2020年「麒麟がくる」は、周知のように、「沢尻エリカ」を外し、代役を立てたことによる撮り直しがあって、放送開始日が遅れるという前代未聞の不祥事となった。

 

 世間の関心は、ドラマの内容そのものへの関心というより、「沢尻エリカ事件」に触発され、興味本位で観た人が多かったのではないか。

 ここ何年かのNHK大河は、話を面白くするために史実を無視するお粗末な演出が続き、私も嫌気がさして次第に見なくなった。

 

 暗雲垂れ込めるなかで、NHKは必死になって番宣に努めまくって、119日の第1回放送日を迎えたが、視聴率がどう出るか気にかかる。

過去の例から推測すると、史料率が振るわない大河ドラマを放送すると、翌年も「視聴者離れ」の影響が及ぶ。かつては「平清盛」が低視聴率を記録し、以後の大河は振るわなくなった。昨年の「韋駄天」は時代劇ではないかが、どういう影響が現れるか、私としてはその点に野次馬的興味がある。

 

 「麒麟がくる」の主人公は、歴史的史料がほとんどない明智光秀ということで、どのように描こうがあまり文句は出ないから、フィクションとして自由に描けるメリットがある。基本的にいって、敗者の資料は残らないのだ。

 NHKに期待するのは、明智光秀の謎をあらゆる角度から推理分析して視聴者をアッと驚かせるような描き方だ。

 とはいえ、史料性の高い『信長公記』あたりの記述を完全に無視したり、ご都合主義に流れたり、説得力に欠けるような描き方をすれば、視聴者はバカではないから視聴率は次第に下降線を描くだろう

 

 

 「麒麟がくる」は、初回を見る限りでは、えらくスローな描き方をしていて緊迫性が感じられず、また演出も際立っていると感じられず、意図して平凡な演出をしているのかという印象を受けた。

 従来の大河ドラマのように幼年時代や少年時代から入らず、青年時代から入ったのは評価できる

 

 私は、30数年前に明智光秀ゆかりの地である恵那市明智町を訪れたことがある。同地にオープン(1988〈昭和63〉年)して間がない「大正村」を舞台にしたコミカルな小説を書くためだったが、そのとき、大正村の実行委員会の人たちに案内されて明智城跡やら光秀の母(お牧の方)の墓所やらを案内してもらった。私は明智光秀が好きではなかったが、地元の人たちは自慢していた。

 そのことをなつかしく思い出した。

 

 明智光秀については資料が極めて少ないことから、新しい資料が発見されると、それを軸にして全体を考える傾向がみられる。初回も、医者だった可能性を示す資料をそのまま信じて話を創っている。それが必ずしも悪いことではないが、NHKにしかできない手法とは思えない。

 とことん調べまくる「ファミリーヒストリー」のようなスタイルを大河ドラマでもやってもらいたい。調べまくって、そこから大胆な推理を展開すれば、視聴者は「さすがNHKだ。われわれには及びもつかない推理をする」と感心するだろう。そうでなければ、地元以外には人気のなかった明智光秀をやる意義がない。

(城島明彦)