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2025/01/23

「べらぼう」番外編 「蔦重と写楽」の幻の映画「寛政太陽伝」とは?

〝あゝ昭和夢物語〟ってか? 「幕末太陽伝」の監督川島雄三、主演フランキー堺

 フランキーというと、平成生まれの人たちは、リリー・フランキーを想起するかもしれないが、昭和生まれの人が思い浮かべる映画俳優はフランキー堺である。

 フランキー堺は、本名が堺正俊なので、下手をすると、堺正章(グループサウンズの出で司会などもやって今でも現役)と似ているので、「正章の兄弟?」とか「(正章の父で名脇役の)堺駿二の親戚筋に当たるのか」などと思われかねなかったから、フランキー堺としたのかもしれないが、そのあたりの詳しい事情は知らない。

 フランキー堺は、もともとはジャズのドラマーで、慶応大学法学部在籍中からジャズバンドマンとして活躍していたが、しゃくれた顔立ち、おかしな動き、どこか妙な話し方が受けて、1950年代から日活の喜劇映画に次々と出演するようになり、映画全盛期の1960年代には、森繁久彌、三木のり平、小林桂樹、加藤大介ら芸達者な俳優たちにまじって、東宝の看板番組の1つだった「社長シリーズ」や「駅前シリーズ」にも出演したが、単なるドタバタの喜劇役者ではなかった。

 

ブルーリボン主演男優賞

 デビュー作は、1955(昭和30)年の新東宝映画「青春ジャズ娘」(監督は松林宗恵。フランキー堺は、ドラマー役で出た。

 (写真:フィルマークより) 左が江利チエミ、右が新倉美子(美人ジャズシンガー)  

 ミュージカルコメディとしゃれこんだ1957(昭和32)年公開の日活映画「ジャズ娘誕生」にも出演。主演は江利チエミ(故人。高倉健の元妻)。石原裕次郎が共演していた。

 ジャズ娘誕生(写真:Amazon Prime Video)

「ジャズ娘誕生」の主演江利チエミは、当時、「家へおいでよ」(カモナマイハウス/Come On-A My House)や「テネシーワルツ」などのアメリカンポップスのヒット曲を歌って、美空ひばり、雪村いずみとともに「三人娘」と呼ばれ、人気があった歌手だが、どうひいき目にみてもB級映画で、春原政久という監督の作品。

 この映画は当時主流の白黒ではなくカラーで、私は何年か前にアマゾンのプライムビデオで見た。フランキー堺は、彼女に絡む準主役どころだった。

 その後のフランキー堺は、日活のドタバタ物に何本か主演していて、何本かを見たが、軽妙な持ち味を発揮していた。強みは憎めない顔だった。

 初恋カナリヤ娘 フランキー・ブーちゃんの あゝ軍艦旗 牛乳屋フランキー フランキー・ブーちゃんの 殴り込み落下傘部隊 これらは全部見たが、あまり面白くない。

  そんなフランキー堺の映画代表作は、1957(昭和32)年7月に封切られた「幕末太陽伝」。落語の「居残り佐平次」を素材にした川島雄三監督作品だ。

 幕末太陽傳 デジタル修復版 (写真:Amazon Prime Video/中央がフランキー堺の佐平次、右が高杉晋作の石原裕次郎)

 時代は幕末。仲間を引きつれて、品川の宿の「相模屋」という女郎屋が舞台で、そこへ客として上がって、連日連夜ドンチャン騒ぎをしたあげく、それが無銭飲食だったことから、代金を弁済するためにそのまま居残って、住みついて、さまざまな出来事や事件にかかわるという、おもしろおかしい話だが、私など、長い間、日本映画の最高傑作は、黒澤明の「七人の侍」や「用心棒」ではなく、川島雄三の「幕末太陽伝」ではないかと考えていたくらい、実によくできた映画で、フランキー堺はブルーリボン男優主演賞を取った。

 「幕末太陽伝」は、私が東宝の助監督になるのに影響を与えた1本だった。もっとも、私が東宝の助監督として働いたのは3年間に過ぎなかったが。 

 この映画で、フランキー堺は演技開眼したのだから、役者の素質があったのだろう。

   川島雄三は、その前年に時代は違うが、遊郭が登場する「洲崎パラダイス赤信号」という傑作をつくっている。

 

「寛政太陽伝」に賭けたフランキー堺の執念

 フランキー堺は、無茶な要求をして演技開眼させた川島雄三にすっかり惚れ込んでしまった。

 川島雄三もフランキー堺に喜劇俳優としての類まれな演技力が大いに気に入り、

 「次は『寛政太陽伝』をやろう」

 といったという。

 この一言がフランキー堺を「写楽」と「蔦重」にのめり込ませることになる。

 川島が考えた主役は、蔦屋重三郎ではなく、写楽だった。

 当時は、「写楽が誰であるか」はまだ特定されておらず、その謎を解くストーリーを考えていたらしい。

 だが、「進行性筋委縮症」を患っていた川島は、「寛政太陽伝を撮ることなく、45歳の若さで、この世を去ってしまった。1963(昭和38)年6月のことである。

 川島雄三の映画の助監督だったのが、「にっぽん昆虫記」「神々の深き欲望」などの秀作をつくった今村昌平であり、「キューポラのある町」「非行少女」などを撮った浦山桐郎だ。

 今村昌平は、佐藤春夫の詩の一節を引用した『さよならだけが人生だ』と題した川島の回顧録を書いている。

 

 川島雄三が死んでも「寛政太陽伝」のことを諦められないフランキー堺は、写楽を調べまくり、とうとう写楽を主人公にした小説『写楽道行』(400字詰め原稿用紙で170枚)を執筆、文芸春秋の大衆娯楽雑誌「オール読物」(1985〈昭和60〉年発行)に掲載された。

 私が同誌の新人賞(オール読物新人賞)を受賞した2年後だったので、編集者が毎月送ってくれていた同誌8月号で「写楽同行」に目を通したが、「俳優なのに、筆が立つ」と感心した。

 翌年3月には単行本化され、さらにその3年後には文庫化された。フランキー堺は、のちに大阪芸大教授も務めるインテリでもあった。

  
 川島雄三がフランキー堺に「寛政太陽伝」の構想を打ち明けたのは「幕末太陽伝」から四年後のことだった、とフランキー堺は『写楽同行』に書いている。文中のK監督が川島雄三で、鮒木栄がはフランキー堺のもじりだ。

 あれは昭和三十六年夏のことであった。

 大映の第三ステージに建てられた街角のセット。キャメラが据えられ、ライティングを仕込んでいる表側の華やかな喧騒にくらべると、セット裏は、大道具の支え棒や、ライトのコード、脚立などで足の踏み場もない乱雑さだ。

 その片隅で、K監督は、共に表側の準備が出来上がるのを待っていた主演俳優の鮒木栄(ふなきさかえ)に語りかけた。

 囁くようなおだやかな声だった。

「フナさん。次の作品はね……写楽です」

「写楽というと……ああ、これですか」

 鮒木は、フッと閃いた写楽の似顔絵の中で、最も印象的な部分を咄嗟にピック・アップしてKに示した。

 

水上勉原作「雁の寺」で若尾文子も演技開眼させる

 川島雄三は、昭和36(1961)年に大映に招かれ、2本の映画を撮っている。「女は二度生まれる」「雁の寺」で、どちらも主演は若尾文子だが、フランキー堺が書いている「第三ステージに建てられた街角のセット」という言葉から、ほとんどがお寺の場面の「雁の寺」ではなく、「女は二度生れる」の撮影時だったと考えるまでもなく、フランキー堺が共演しているのは「女は二度生れる」の方だけである。

 女は二度生まれる [DVD]  (写真:「雁の寺」は高校生のときに観たが、刺激が強い映画だった)

 フランキー堺が「私の顔はあの似顔絵によく似ているといわれるんですよ」といったので、川島雄三は「今、フナさんが演ってみせてくれたのは写楽が描いた大谷鬼次というという歌舞伎役者の顔容(かおかたち)です。(中略)その程度の教養では先が思いやられます。もっと勉強してください」と発破をかけられる。そういうやりとりが続いて、川島雄三はこういったという。

「寛政太陽伝という題の作品になるだろうと思いますが、鮒さん。幕末太陽伝の居残り佐平次のパートⅡだと思ってはいけないのです。〝首が飛んでも見世らあ〟という佐平次のバイタリティの数倍も困難な役が、写楽です。生没年全く不明の謎の人物ですが、私は、いわば、積極的逃避精神……」

 そしてフランキー堺は、こう記している。

「それから二年たって、写楽を主人公とした映画のシナリオい脚本家のY・Mと共にとりかかろうという直前、Kは急死した」

 昭和38611日の朝だった。

 

巨匠内田吐夢も、のめりこんだ「写楽と蔦重」の魔力

 フランキー堺は、のちにこう語る。Uは内田吐夢である。

「先に急死したKは、写楽に、すべてを捨てて自分自身から逃げて行く積極的逃避精神があるように見えてならない、という謎めいた言葉と、死の枕頭に展(ひろ)げてあった江戸商売図絵の一巻を鮒木に遺し、そしてUは、胸のつまるほどの写楽への思慕を羽子板にし託して、逝ってしまった」

 羽子板というのは、小田原の浜辺で拾ったらしい色あせた羽子板に内田吐夢が手を加え、蝦蔵(えびぞう)の顔を写楽風に自ら描いたもの。

 以後、フランキー堺は「鮒木の執念というよりむしろ怨念」で遮二無二写楽研究に没頭する。

「Kの死は、鮒木に写楽を残した。そのときから彼は、なにものかにとりつかれたように写楽と、その時代の研究を始めた」

 

 そんなフランキー堺は、それから数年後に、渋谷のTという飲み屋で、映画「飢餓海峡」などの名画を多数つくった巨匠内田吐夢と偶然出くわす。驚いたことに、内田吐夢も写楽の映画化構想を長年あたためてきたのだという。

  飢餓海峡

 2人は共鳴し合い、一緒に写楽の映画をつくろうという話で盛り上がったが、その内田吐夢も、のちに中村錦之助(のち萬家錦之助に改名)が宮本武蔵に扮した「真剣勝負」(1971〈昭和46〉年2月公開)を東宝撮影所で撮っている途中で急死。

 その映画は、内田の遺志を継いで、助監督だった磯野理(おさむ。故人)が残りのカットを撮影して完成させた。当時、私も東宝で助監督をしていたが、そういう事情があったと知るのは、かなりたってからだった。

 

納骨堂に眠っていた蔦重の遺骨

 「病膏肓(やまいこうこう)に入る」

 としかいいようのないフランキー堺が、「写楽」を映画化するためのプロダクションを設立したのは1965(昭和40)年のこと。

 フランキー堺は、浅草の正法寺の話についても語っている。

 同寺の住職の話では、「関東大震災や東京大空襲などで墓が倒壊するごとに土を掘り起こして、遺骨を収集し、納骨堂に収めてきた。蔦重の遺骨も、そこにあるはず」という。

 フランキー堺は、のちに1億円をはるかに超える私財を投じて写楽の映画をプロデュースし、その撮影の無事を祈願するために、女優岩下志麻の夫で映画監督の篠田正浩を連れて正法寺を訪れている。

 当時、少年だった現住職は、フランキー堺が好きだったので、「毘沙門堂」で行なわれる安全祈願の祈祷の様子をみれたらどんなにいいだろうと思いながら、先代(父の佐野詮学住職)とフランキー堺が話しているのを眺めていたという。

 そのときのことを、フランキー堺は次のように述べている。

「そう、東洲斎写楽。本人の正体はいまだになぞなのだから、彼の墓がどこにあるかはわからないのだがね。写楽の絵を世に送り出した版元の蔦屋重三郎は、この納骨堂の下あたりに眠っているんだ」

 その納骨堂は1994(平成6)年に今の高層ビル寺院に建て替えるときに壊されたので、今はないが、祈祷の様子は次のようだったらしい。

 

 ――祭壇の正面に観音立像。そして上手(向かって右側)に蔦屋重三郎(通称、蔦重)の法名、幽玄院義山日盛信士・下手(向かって左側)に故東洲斎写楽之霊位と、今日のために特に書かれた位牌が安置されてある。

 まず正法寺佐野住職の読経から、鮒木をはじめ数人の参加者が見守る前で、おごそかに法要が始められた。

 さっきまで小窓からさしこんでいた黄色い西が、急に萎(な)え、焚(た)き続けていた香の煙のせいか堂内はたちまちフィルターをかけたように薄暗くなった」

 

 そのときの住職は、今の佐野詮修(せんしゅう)の父詮学である。

 Kimg20241224_140601659(写真:正法寺の佐野詮修住職と「蔦重家の墓と顕彰碑」/撮影:城島)

 小説では、先代住職の読経の後、女性の霊能者が写楽と蔦重を降霊するという段取りになっているが、降霊が実際に行われたのか、フィクションなのかは、今となってはわからない。

 その前の川島雄三の没後まもなく、故人とゆかりのあった映画関係者が渋谷の円山町の料亭に集まったときに、霊能者を招いて、Kの例を呼び出し、いろいろ心残りのことなどを聞きながら一杯やったと書かれているので、その話の延長として、今度は写楽と蔦重の降霊を試みたんかもしれないが、お寺で降霊を行うというのは嘘っぽいと思う。

 (蛇足)

「昭和の映画人と蔦重」の見果てぬ夢の跡

 フランキー堺は、写楽を「耕書堂蔦屋重三郎子飼いの版下絵職人」と推定していたが、そうではなく、やがて写楽の正体が阿波の役者と判明したことから、映画化するのは難しくなり、平成6年に角川書店から出版された直木賞作家皆川博子の『写楽』を原作とする映画とし、篠田正浩が監督をすることになった。

 だが映画は、川島雄三の「幕末太陽伝」を彷彿させるような名画とはいかず、失敗した。

 川島雄三とのやり取りを記憶と体に叩き込まれたフランキー堺に監督をさせたらよかったのに、と私は思っている。

 

 川島雄三、内田吐夢、フランキー堺という映画人が思い描いた〝見果てぬ昭和のでっかい夢〟は、蔦重が写楽を発掘して大勝負をかけた〝起死回生のべらぼうな夢〟と重なる。

 蔦重の遺骨は、蔦屋の菩提寺である正法寺の納骨堂から現在の「萬霊塔」に移され、そこで今も眠っている。 

(城島明彦)

2025/01/08

「べらぼう」の過去最低の初回視聴率は、「いだてん」の呪いと見た!

「案の定」というべきか? 「意外」というべきか?

 12・6%――1月5日から始まった大河ドラマ「べらぼう」の視聴率が過去最低を記録したと各紙が報道した。

 ビデオリサーチ調べの東京地区の数字だが、筆者は、大河ドラマ便乗本(『江戸の仕掛人 蔦屋重三郎』)を出版していることもあり、過去に例のない〝江戸出版界の寵児〟を主人公にしたNHKのチャレンジングスピリットにひそかに期待していた

 それだけに、「やはりダメなのか」という失望感に捉われてしまった。

 いや、〝悪い予感〟のようなものは、同じく〝NHKを代表する伝統的番組〟昨年大みそか恒例のイベント「紅白歌合戦」が過去2番目の低さだったと知ったときからあった。

 

「いだてん」の呪いか? 「」の語が招く「低視聴率」の悪夢

 悪い予感以前に〝嫌な予感〟がしたのは、1年以上も前である。

 NHKが「2025年の大河ドラマは『べらぼう』」と発表したときで、副題を見て、そう思ったのだった。

 「べらぼう」の副題とは「蔦重栄華乃夢噺」(つたじゅうえいがのゆめばなし)。

 そのどこが気になったのかというと、「ばなし」と読む漢字8文字の最後の「噺」という字である。

 

 「べらぼう~蔦重栄華乃夢~」

 「いだてん~東京オリムピック~」

 

  この2つ、表現が似ていないか。

 【類似点1】 副題の「噺」が共通し、題名も平仮名4文字で似ている。

 【類似点2】 副題に「噺」がついた大河ドラマは、64作中、この2作しかない。

 「いだてん」は東京五輪に照準を合わせて制作されたが、コロナ禍で1年延期はされるは、無観客で強行されるわで、悪夢五輪となってしまったことは誰もの記憶に新しい。早い話が「縁起が悪い」のだ。

 にもかかわらず、まるで

 「悪夢よ、もう一度」

 と願ってでもいるかのような、似たような題名の付け方は、それこそホラーじゃあ~りませんか。

 「そんなのは偶然」というかもしれないが、ちっとは〝ゲンかつぎ〟を意識すべきだったのでは?

 自信を持つのは悪いことではないが、「弘法も筆のあやまり」というではないか。

 大げさな言い方をすれば、「神経を疑わざるを得ない」ということになる。

 

「光る君へ」の余波も重なり、先行き不安

 2019年放送「いだてん」の初回視聴率は、前年の林真理子原作「西郷どん」より0・1ポイント低かっただけだったが、回を追うにつれてガタガタになり、終わってみれば、(全放送の)平均視聴率で過去最低の8・2%を記録した。

「こんなひどい数字は今後二度と出ないだろう」と思っていたら、さにあらず、昨年の「光る君へ」が平均視聴率107%を記録。歴代ワースト2位となった。

 「光る君へ」の初回視聴率は12・7%で、その前年の「どうする家康」の15・4%より2・7ポイントも低かった

 女性を主人公にしたのは、2017年の「おんな城主直虎」以来で、7年ぶりだったが、平均視聴率比較では「おんな城主直虎」が169%だったのに対し、「光る君へ」は127%と大差をつけられてしまった。

 

 ところが、「べらぼう」の初回視聴率は、その「光る君へ」をも0・1ポイントではあるが下回りドラマが始まったばかりなのに、早くも危険信号がともってしまった。

 

視聴率がコケた原因はコレだ!

 都内文京区に住む筆者の友人で、居住区の図書館が蔵する映画のDVDはすべて借りつくした男が、いみじくもこういった。

「蔦重だけどね。大河ドラマべらぼうの第1回、吉原炎上の冒頭場面は迫力があって素晴らしかったけど、あとがいけない。渡辺謙演じる田沼意次(おきつぐ)と蔦重が面会するべらぼうな場面。意図はべらぼうだからわかるけど、ネットでも散々コケにされていた。ぼくもあれは酷いと思った。ドラマだから何も史実にない場面があってもいいんだけど、許容範囲ってもんがあるな。あれでは一気に損なわれるべらぼうだと思った。視聴者に媚びている

 言い得て妙。筆者も「ここまでやるか」と思った。というのも、

 

 江戸時代を江戸時代たらしめているのは、

 士農工商という身分制度。こいつを無視している。

 商人は、一番下の身分なのだ。

 すれ違いざま、庶民が武士の腰に差した刀の鞘にありでもすれば、「無礼打ち」にされても文句はいえない。

 蔦重のように、田沼意次のような地位の高い武士に直訴すれば、打ち首にされてしまう。

 江戸時代のそういう基本ルールは、きちんと押さえておかないといけない

 それを守らないのは、今なら「高速道路を逆走するようなもの」といったら、言い過ぎか。

 

 ただでさえ暗い話があふれ返っている今の日本をもっと明るくするために、大河ドラマ関係者たちは、男女を問わず、スタッフ・俳優を問わず、悪い流れが続かないように、ここはひとつ、ふんどしを引き締めてもらいたいものだ。

 そこのオカン、「呪い」をなめたらイカンぜよ!

 〽もしもしカメよ カメさんよ

  世界のうちで お前ほど

  歩みののろい ものはない

 の「のろい」じゃないのだぞ。

(城島明彦)

2025/01/06

「吉原は炎上すれば全焼」が常識。そのわけをNHK「べらぼう」(第1回)は説明してほしかった

「吉原と芝居町は、江戸の二大悪所」とされたが、どっこい、この2つを欠いちゃあ、「江戸文化」は成り立たなかった。

 NHK大河ドラマ「べらぼう」の第1回は、のっけから蔦重が生まれ育った〝幕府公認の色町〟吉原の大火でから始めて、視聴者の度肝を抜いた。

 実にうまい設定だった。

 というのも、「火事と喧嘩は江戸の華」などといわれ、江戸をシンボリックに表現するのに、この2つは最適だからだ。

 

 吉原が炎上する場面は迫力があったが、時代劇ではしばしばお目にかかる江戸火災現場の名物の火消しの姿がどこにもなかったことに気づいた視聴率は、どれくらいいたろうか。

 半鐘の音は鳴り響くが、まといを持って、屋根の上で纏(まとい)を振ったり、類焼を防ごうとして燃える家を壊す火消しの姿がどこにもなかった。

 なぜか?

 

「吉原の火事には火消しは出動せず、燃えるに任せて放置する決まりだったからだ」(拙著『江戸の仕掛人 蔦屋重三郎』の「吉原炎上で移転、仮宅営業で大儲け」より)

 NHK大河では、このことをナレーションか、誰かのセリフでいわせてほしかった。

 吉原が火事になったら全焼を覚悟しなければならなかったのだ。この先も吉原の火事は頻繁に起こるので、そこでは一言、説明しておいた方がよい。

 

幕末までに21回炎上。うち19回も全焼した吉原

 吉原炎上は、後年に編まれた史料『新吉原史考』によれば、幕末までに21回もあって、うち19回が全焼。焼け出された女郎屋は、幕府の決めた「仮宅」と呼ぶ江戸の別の町中へ移って、営業した。

 吉原は、周囲を田圃に囲まれた江戸のはずれにあった。

 出入り口は大門(おおもん)と呼ぶどでかい門だけで、色町の周囲は女郎たちの脱走防止のための高い塀〝お歯黒どぶ〟と呼ぶ深い堀に囲まれた〝陸の孤島〟だった。

 

「べらぼう」では、仮宅にまつわる出来事は、おそらく、のちのちの〝おいしいお話〟として取っておいたようで、「1年後に再開した」とナレーションで告げていた。

 今回の「べらぼう」の開き直った演出のうまいところは、この手の〝時間差攻撃の妙〟だと思う。

 ポンポンと場面転換し、日月年転換や時代転換をやっているので、テンポがいい。

 もう少し詳しく知りたいと思う場面もなくはないが、2025年という21世紀の第一四半期の終わりを迎えたスピーディーな今の時代には合っている。

 いってみれば、〝ちゃきちゃきの江戸っ子風のドラマ〟となっている。

 

 吉原炎上の回数には諸説あるが、これが一番信用できる。なんてったって江戸の男たちのアイドルが暮らしていた吉原の地元「東京都台東区役所編」だからだ。

 今なら写真があるが、当時はそんな便利なものはないから、だったら、そのアイドルたちを浮世絵師に描かせて売ってやろうと考えても、何の不思議もない。

 しかし、そう簡単に握手はさせないし、会ってもくれない。お高くとまっている花魁に会うには、複雑で金のかかる手順を踏まねばならない。だから、貧乏人は通えない。

 全国の田舎から売られてきた女郎が、方言でしゃべっては、何をいっているのかわけがわからん、というわけで、

 「わちきは、いやでありんす」というような珍妙な〝吉原標準語〟を山ほどこしらえたのでやんす。

 

吉原は、蔦重が子どもの頃から慣れ親しんだ〝わが家の庭〟も同然

 普通の江戸っ子にとっては陸の孤島の吉原でも、そこで生まれ育った蔦重にとっては〝遊び場〟にした〝わが家の庭〟のようなもの。

 どこの遊郭にどんな器量の女郎がいて、どこの出身であるとか、どういう経緯で吉原に売られてきたとか、健康状態はどうかといったことは、子どもの頃からよく知っていた。

 そこが、他の版元と大きく違う点で、蔦重の強みだった。

 「べらぼう」第1回では、華やかな吉原の奥の方には、安い値段で体を売る女郎がいる一角もあったということを、わざとらしい演出もあったにしろ、うまく表現していた。

 吉原には、そういうがあったからこそ、戯作の主要テーマになりえたという言い方もできるのである。

 

吉原で培われた蔦重の目のつけどころ

 蔦重が最初に手掛けたのは『吉原細見』と呼ぶ「吉原のガイドブック」だったという点も、納得がいくというものだ。

 蔦重が、絵師たちと組んで吉原のアイドルたちを浮世絵にして売る商売へと突き進み、吉原を舞台にした小説(戯作)を手次々と掛ける版元になるのは理の当然、自然の流れといえた。

 江戸の仕掛人 蔦屋重三郎 発売中でありんす

(城島明彦) 

 

2025/01/05

「ドラマなんだから、嘘も方便」と開き直ったか、NHK大河「べらぼう」。「吉」と出るか? 「凶」と出るか?

「まともにやっては視聴率が下がる。だったら、『銭形平次』や『暴れん坊将軍』みたいに痛快無比な筋書きにしてやるまで!」

 と思ったかどうかは知らないが、  一介の吉原の若い商人である蔦重が老中田沼意次に会って物申すなどという場面は現実にはありえないが、堂々とそういう場面を創ったのだから、これはもう立派の一言。

 不思議なもので、そこまで開き直られると、

 「何を馬鹿なことをやっている」

   と文句をいうどころか、

 「やるじゃないか」

   と、かえって、褒めたくなってくるから不思議だ。

 

「べらぼう」は時代劇の「西遊記」で、蔦重は江戸の「孫悟空」を目指す?

 平賀源内と出合う場面も、用を足して公衆便所から出てきた源内と蔦重が鉢合わせして会話するという設定だ。

 蔦重が廓主たちに無断で勝手なことをしたとボコボコにされる場面も同様。

 「バカさ加減もいい加減にしろ」

 と、普通ならあきれ返るところだが、次から次へと堂々と嘘八百を繰り返されると、

 「もっとやれ、もっとやれ、とことんやれ!」

 「豚や河童を妖怪に仕立て上げた『西遊記』の孫悟空に匹敵するくらいに、〝正義の味方〟蔦重のスーパーマンぶりを見せてくれ!」

 と、拍手喝さいを送りたくもなってくる。

 折しも、「暴れん坊将軍」が再開されたが、将軍吉宗が江戸城を抜け出して悪をこらしめるなどということは現実にはありえず、完全なフィクション。

 「これはドラマなんだ。そう割り切って、楽しく観てほしい」

 というのがNHKのメッセージなのだろうか。

  その思いが通じたかどうかは、第10回くらいまでの視聴率の推移が示すことになる。

 

 Wedge ONLINE(ウェッジ・オンライン)の下記の記事(2025年1月5日)もよろしく。

 【「べらぼう」放送開始】横浜流星主演「蔦重」は“大河の新時代”を開けるか?

 (城島明彦)

2025/01/04

小芝風花が扮する花魁「花の井」と蔦重の関係は想像の産物! 橋本愛が扮する蔦重の妻の名は不明だが、NHK大河ドラマでは「おてい」とした理由は?

法名は、蔦重が「幽玄院義山日盛信士」で、妻は「鍊心院妙日義信女」

 NHK大河ドラマでは、小芝風花が扮する松葉屋の花魁「花の井」と蔦重が幼なじみという設定にしたが、蔦重が吉原で生まれ育ったから、そういうこともあったかもしれないという想像の産物。

 ドラマでは、主要な登場人物が何らかの形で絡まないと話が面白くならないから、強引にでも絡ませるところがある。

 蔦重の幼少期・少年期、青年期の私生活面でのことは、ほとんど不明。

 7歳のときに両親が離婚したために、生母とも別れて親戚のうちに養子に入ったということがわかっているぐらいなので、どんな風に想像しようが勝手である。

 

 NHK大河ドラマでは、蔦重の妻の名を「おてい」としたが、この名は、蔦重家の菩提寺「正法寺」(しょうぼうじ)の墓碑(平成8年に復元)にある法名「鍊心院妙貞日義信女」の「妙貞」にヒントを得ている。

 貞は 「てい」とも「さだ」とも読めが、さだ」にすると〝呪いのビデオ〟で井戸から出てくる「貞子」を連想しかねないし、時代は違い、字も違うが、稀代の悪女とされた「阿部定」の「さだ」をも連想しかねず、困ってしまう。

 そこで、貞女にもつながる「てい」にしたのではないか。というのが筆者の見方。

 彼女が没したのは文化8(1811)

 蔦重は寛政9(1797)年に48歳の若さで脚気が原因で病没しているので、夫を見送ってから14年長生きした計算になる。

 1735969612256 復元された蔦重家関係の墓碑   Kimg20241224_140455234 ◀佐野詮修住職

 上段の右から5つ目が蔦重の法名「幽玄院義山日盛信士」

   没年「寛政九年五月六日」という没年が刻まれている。

   左隣の「〇〇院妙松日秀信女」は蔦重の実母定らしいと推定されているが、確定ではない。

 下段の最初の法名が蔦重の妻「鍊心院妙日義信女」

  没年「文化八年十月十八日」という没年が刻まれている。

 

 かつての正法寺の境内と蔦重家の墓

 蔦重の墓は、現在、高層ビルとなった浅草1丁目の「正法寺」の外墓地に復元されているが、関東大震災や東京大空襲などで倒壊炎上する以前は、本堂の南側あった墓地域にあったと言い伝えられている。

 下図は、同寺の佐野詮修住職提供の資料に城島が太字を加筆したものだ。太字線で囲った枠内がかつての墓地域だったという。

 Img_new_0001   

 (城島明彦)

2025/01/02

NHK大河ドラマが「べらぼう」なら、こちとらは「弥次喜多の東海道五十三次の都道府県づくし」とくらぁ

赤穂浪士と都道府県は四十七

 

 弥次さん「2025年の新年1月5日(日)からNHK大河ドラマ『べらぼう』が始まるってか?」

 喜多さん「このべらぼう(箆棒)め、おいら、江戸っ子だい! それぐらいのこたァ、とうの昔に知ってらい!」 

 弥次さん「本屋の蔦重こと蔦屋重三郎が主人公ってぇいうぞ」

 喜多さん「べらぼうめ、こちとらは、そんなこと、先刻承知の助だ」

 弥次さん「なら尋ねる。城島明彦の『江戸の仕掛人 蔦屋重三郎』てぇ本は知ってるか、読んでいるのか」

 喜多さん「……」

 弥次さん「どうした、沈黙は金玉か」

 喜多さん「正月早々、下品なことを抜かすでにゃあ」

 弥次さん「読んだのか、読まねえのか、どっちだ。答えてみやがれ」

 喜多さん「(蚊の鳴くような声で)そんな本、知らねぇ。読んでもねぇ」

 天上から突然の声「おいおい」

 弥次さん喜多さん「だ、誰だ?」

 天井の声「この世とあの世を往き来している箆棒之介(べらぼうのすけ)だ! またの名を城島明彦という!

 弥次さん喜多さん「べらぼうめ! 本の宣伝に迷い出たな、この妖怪変態」

 天上の声「そんなこと云わねぇで、頼むから読んでちょうだい! ピアノ売ってちょうだい!」

 弥次さん喜多さん「いい加減にさらしなそば(更級蕎麦)!」

 というわけで、昨年11月に発売された『江戸の仕掛人 蔦屋重三郎』を書いた城島明彦の迎春第2弾の「都道府県づくし」は、蔦重の本屋に居候していたこともある十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にあやかった創作落語風の、題して「都道府県づくし 弥次さん喜多さんの東海道五十三次の巻」をお届けします。

 といっても、平成17年に本ブログで発表したもののリバイバルでございます。

 1都1道2府43県を学ぶのは、小学校何年生のときでしょうか。大人になっても、すらすらと何分で全都道府県をいえますかな。
 北海道 青森 岩手 宮城 秋田 山形 福島 茨城 栃木 群馬 埼玉 千葉 東京 神奈川 新潟 富山 石川 福井 山梨 長野 岐阜 静岡 愛知 三重 滋賀 京都 大阪 兵庫 奈良 和歌山 鳥取 島根 岡山 広島 山口 徳島 香川 愛媛 高知 福岡 佐賀 長崎 熊本 大分 宮崎 鹿児島 沖縄

 では、始まり、始まり~い!

 

都道府県づくし「弥次さん・喜多さんの東海道五十三次の巻」

 時は元禄15年12月14日、世間じゃ赤穂浪士47人の討ち入りの日として知られるその日の昼間のことでございました。
 喜多さんこと喜多八の住む長屋をちょいと覗いた弥次さんこと弥次郎兵衛、いつものように勝手に留守宅に上がり込んで、帰りを待っておりますてぇと、ドスンと戸にぶつかる大きな音。
 「あっ、来た! 帰ってきた」(秋田
 と、弥次さんが叫んだ途端、
 「いててっ」
 あわて者の喜多さん、戸に手を挟んでしまいましたな。
 「おお、痛かったが、まあ、よいわ、手は無事じゃ」(大分岩手
 と、昼間から深酔いして、ふらふらの喜多さんを見て、弥次さんは
 「めでたい奴だ」
 天を仰ぎ、ふんと鼻でせせら笑ったケセラセラ。(岐阜
 「誰かと思えば、弥次さんじゃねえか。驚かすなよ」
 「うひょう、ごめんごめん」(兵庫
 「ごめんですむなら、奉行所いらぬ」
 と喜多さん、偉そうにいって、土間へ上がろうとして、つんのめり、バタンと倒れましたな。
 「大丈夫か」
 と駆け寄る弥次さんに、喜多さん、にっこり笑って、
 「見たか。若、やまい(病)に倒れるの図だ」(和歌山
 「誰が若だ、若様だ。馬鹿面(づら)しやがって。何だい、着ている呉服、おかしいぞ」(福岡
 どういうわけか、喜多さん、改まった裃(かみしも)姿でございます。
 「なに抜かす。新調したてだ。披露しま装束、この呉服、いくらだと思ってやがる。この紋所が目に入らぬか」(広島福井
 「知る紋か」
 と弥次さんが駄洒落で返すと、喜多さん、ひょいと裾をまくって、
 「おひけえなすって。こちとら、名は喜多八、姓は鼻水。おお、逆さまだ。名が先になっちまった。して、弥次殿のご要件は?」(大阪長崎
 「疲れる野郎だ。ふたり仲良くんで、東海道を都まで旅しようって誘ったのは、てめえの方じゃねえか」(奈良
 「さあ、どうかいのう」
 「駄洒落とばしてる場合じゃねぇ。東海道は五十三次。品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原、箱根、三島、沼津、原、吉原、蒲原(かんばら)、由比、興津、江尻、府中、鞠子(まりこ)、岡部、藤枝、島田、金谷、日坂(にっさか)、掛川とくらぁ。これで二十六宿。まだ半分だ。そこから先は、袋井、見付、浜松、舞坂、新居、白須賀、二川、吉田、御油(ごゆ)、赤坂、藤川、岡崎、池鯉鮒 (ちりふ)、鳴海、宮 (熱田)と来て、七里の渡しで桑名へ渡り、四日市、石薬師、庄野、亀山、関、坂ノ下、土山、水口、石部、草津、大津。これで五十三の宿、そして京都着だ」
 と右京、左京を巡る旅へと喜多さんを急(せ)かしたのですな。
 ところが、喜多さん、ちっとも聞いちゃいませんで、トロンとした目で、わけのわからないことを口走りましたな。
 「その指図(さしず)、おかしいぞ。熊もっと探せだと? おととい来きやがれ」(静岡熊本
 「おっとっと、利口じゃねえな、おめえって奴は、底抜けの間抜けだ」(鳥取
 「べらぼうめ。旅の安全祈願のついでに、イチかわバチかの大勝負と、おみくじを引いたのさ」(石川
 「それがどうした」
 「聞いて驚け、見て驚け。遠山の金さんなら『背中の桜吹雪が見えねえか』と啖呵をきる場面だ」(富山
 といいつつ、喜多さん、手に握りしめたおみくじを見せましたな。
 「ふん、いつも貧乏くじばっかり引いているてめえなんぞ、どうせ凶と決まってる」
 「なに抜かす。これを見やがれ、大吉だ。この際、たまたま運に恵まれ、得しましたとさ、チャンチャン」(埼玉徳島
 「だったら、ケチがつかねえように、ふところの奥深くにしまっておけ。さあ、荷物を肩にかついだら、出発だ」
 「やけに重いな。あ、重(おも)りでも入れやがったか」(青森
 ――そんな珍妙なやり取りがあって、弥次さん・喜多さんの凸凹コンビは、あいにくの雨の中、日本橋を振り出しに今日という日の旅立ちと相成ったのでございます。(京都
 ところが、大磯を過ぎたあたりで喜多さんの足がつり、駕籠(かご)に乗る羽目になったものの、小田原で何とか 元に戻って、また歩き始めたのはよかったが、しばらく行くと、今度は大騒ぎでございます。
 「大吉のおみくじがない。さっきの駕籠だ、駕籠、しまった、置き忘れた」(鹿児島
 箱根にさしかかるあたりで、茶屋の娘が美しい声で呼び込みをしております。
 「そこの色男のお二人さん。幸先の良い福シューマイ、おひとつどうです」(福島
 喜多さん、大喜びだ。
 「色男だってよ。雨は一向に止まなし、腹もすいたぞ」(山梨
 「しかたねえ。ここらでちょいと一休みするか」(滋賀
 食事が運ばれてくるのを待つ間、弥次さん、ご自慢の南蛮渡来の望遠鏡を取り出しますてぇと、喜多さんに勧めましたな。
 「よく見えるだろう」(三重
 「市場(いちば)があるぞ。温泉まんじゅうを売っている」(千葉
 「見るのは、そっちじゃない、こっちだ」(高知
 「山がたくさんあるな」(山形
 「よくして見ィ、山羊(やぎ)がおるだろう」(佐賀宮城
 「山羊はいねえが、山羊ヒゲを生やした人相の悪い奴らがこっちへやってくる。相撲取りのようなでかい腹、気になる。かお、加山雄三に似ている奴もいるぞ」(茨城岡山
 弥次さんは、気もそぞろ。
 「あのゴロツキどもに目をつけられたと、大変だ。望遠鏡をしまわねえか。さっさと、ほかへ移動しようじゃねえか。」(島根北海道
 三島に参りますてぇと、宿場には脂粉(しふん)の匂いが漂い、あっちの宿、こっちの宿から客引きの声。
 ご機嫌いかが、わら(笑)う女郎衆の甘い誘いの声がする。(香川
 弥次さんも喜多さんも、鼻の下が伸びっぱなしでございます。
 「おや、間口が広い店だな。見や、咲き誇っているじゃないか。いずれがアヤメ、カキツバタ。あの姐さん、器量ばつぐん、まいった、まいった。あいつに決めた」(山口宮崎群馬愛知
 と弥次さんが相好を崩せば、喜多さんも負けじとばかりに、
 「おいらは、あっちの娘だ。いながの生まれにしちゃあ、上等だ。知恵、秘めた笑顔がとても美しい。アイラブユーと、ちぎり交わしてぇ」(長野愛媛栃木
 「目は確かか。あれはどうかな、蛾は蝶ではないぞ。醜女(しこめ)だ」(神奈川
 結局、三島は素通りし、それから幾十里。喜多さん、柄にもなく、芭蕉の家を見ようと言い出して、東海道を外れて寄り道し、明くる日に伊賀、発(た)ったとか。(新潟
 「おい。起きろ! いつまで寝てんだ。そろそろ起きな、わら(笑)えば福もやってくる」(沖縄
 喜多さん、体を揺さぶられて、はっと目を覚まし、
 「なんだ、夢か。てぇことは、おみくじも夢だったのか」
 「寝ぼけ面しやがって。さあ、もうすぐ出発だ!」
 というわけで、野次さん・喜多さんは、東海道五十三次の旅に出たのでありました。めでたし、めでたし。
 おあとがよろしいようで、これにておしまいでございます。

 江戸の仕掛人 蔦屋重三郎

(城島明彦)

2025/01/01

新年を寿ぎ、NHK大河ドラマ「べらぼう」の主人公蔦重のお話

日本全国47都道府県、津々浦々まで、新年明けましておめでとうございます!

北海道 青森県 岩手県 宮城県 秋田県 山形県 福島県 茨城県 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県 新潟県 富山県 石川県 福井県 山梨県 長野県 岐阜県 静岡県 愛知県 三重県 滋賀県 京都府 大阪府 兵庫県 奈良県 和歌山県 鳥取県 島根県 岡山県 広島県 山口県 徳島県 香川県 愛媛県 高知県 福岡県 佐賀県 長崎県 熊本県 大分県 宮崎県 鹿児島県 沖縄県 

 永のご無沙汰でありました。

 一年半近くも本ブログを更新せずに放置してきたやつがれは、いつ死んでもおかしくない歴とした高齢者。

 御年78歳の城島明彦でございます。

 されど、この年ながら、まだまだ現役の作家でありますれば、

 恥も臆面もなく、(べら)棒之介(ぼうのすけ)こと城島明彦」と名乗り、

 2024年11月にはNHK大河ドラマ「べらぼう」の便乗本をば上梓させていただいたのでございます。

 感謝、感激、雨、あられもない姿をさらす手づくりサラサラに、

 題して『江戸の仕掛人 蔦屋重三郎』

 版元は、リニア新幹線を手掛けているJR東海の子会社「ウェッジ」でございます。

 江戸の仕掛人 蔦屋重三郎  お値段1980円は、ちと高めだが、損はさせませんぞ! ぜひご一読くだされ!

 

 類書とは一味も二味も違っていると、蔦重の菩提寺の住職

 驚き、桃の木、山椒の木ではござませんが、「べらぼう」の便乗本が驚くほど出ておりますなァ。

 もっと驚くのは、どの本もしたようなことを書いていることであります。

 そんな中で、蔦重がプロデュースした江戸文学のハイライトシーンを原文・現代語訳でわかりやすく紹介しているのは、拙著のみ。

 主要戯作者(作家)は、恋川春町、山東京伝、十返舎一九、式亭三馬、曲亭馬琴、唐来参和らであります。

 そのほか、蔦重の嫁はどこの誰だったのかを推理してもおりますぞ。

 こういうのを「自画自賛」というのでありますが、競争激烈なゆえ、お許しくだされ。

 

横浜流星がドラマのヒット祈願に訪れた菩提寺「正法寺」

 まずは、「べらぼう」の主人公蔦屋重三郎が眠る浅草の正法寺(しょうぼうじ)の碑と蔦重家の墓と住職の佐野詮修さんをご紹介。

 写真に向かって左側が碑で、右側が蔦重家の墓でありますが、もともとの墓や碑は関東大震災で倒壊し、平成6年に先代住職が再建したものであります。

 「べらぼう」の主人公横浜流星も、撮影の無事とヒット祈願のために、この碑と墓にお参りした

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 右の写真の端に見える骨塔に蔦重の遺骨の破片が多くの没した信者の遺骨の破片と一緒に収納されている

  佐野詮修住職とは4時間余も話をし、盛り上がった。

  たびたびの江戸の大火、安政の大地震、関東大震災、東京大空襲などで、正法寺の信者の墓は倒壊し、遺骨もバラバラになった。

  そのつど、同寺の歴代住職が遺骨の破片を拾い集めて、かつてあった大きな納骨堂に収めてあったが、平成6年に寺院を建て替えた関係で、その納骨堂は取り壊され、現在の小さな納骨塔に収められた。

  納骨塔に収められている遺骨の破片は、何千とも何万にもなり、誰のものかを特定することは難しいが、片っ端からDNA鑑定すれば、もしかすると蔦重の遺骨を特定できるかもしれない。

  蔦重の遺骨の破片が納骨塔に眠っていることを記したのは、城島が初であることも強調しておきたい。(このことは拙著には記してない)

 

とざい、東西! 「日本列島都道府県づくし」の始まり始まり~ィ

 本日は、新年を寿ぎまして、2017年元旦に本ブログで発表した創作「日本全国・都道府県・股旅づくし」のリバイバル発信と参ります。

 馥郁(ふくいく福井)とした春風に誘われて、消えた親分探(佐賀)すため、長の(長野)旅に出たあっしは、しが(滋賀)ねえ渡り鳥取でござんす。
 願かけにお参りするのは寺が先か神社が先か?
 決まってるじゃねえか、お宮先(宮崎)だ。買えるものなら、福を買(福岡)いてえ。
 今日も今日と(京都)て、見栄(三重)張って、寄付(岐阜)はしたいが、田畑なしの山なし(山梨)で、金などあろうはずがねえ。

 あっという間に夏になり、文句いいたいのは山々、愚痴(山口)も出る。
 と、そこへやくざ風情の見知らぬ若者が、
 「そこ行く兄(あに)い、ガタ(新潟)が来てるぜ、足がふらふら。疲労しま(広島)すぜ、長旅は」
 「おおきな(沖縄)お世話だ」
 目が血走(千葉)って、相すまね(島根)え。
 いかがわ(香川)しいように見えるあっしでも、昔はお大尽(だいじん)だ。
 それが、おお、坂(大阪)道を転がるように、このざまなのさ。

 いつしか季節は秋になっていた。
 豪華な衣装の駕籠(かご)の姉妹(鹿児島)、男言葉で声をそろえて勧めるではないか。
 「旅は股づれ、余は情けない。弁当のホッキ貝、どう(北海道)かい?」
 てっきり頭狂(東京)と思ったが、武家というではないか。
 「エッ!? 姫(愛媛)!? そいつは、驚き、桃の木、山椒の木だ」
 思わずあっしが声を上げると、
 「それをいうなら(奈良)、驚き、桃の木、三種の神器であろう」
 と、いばる気(茨城)満々の姉妹の様子に、つい、
 「あっしも、すっかり老いた(大分)わい」
 と、ぼやきつつ、足元みると、財布じゃないか!?
 得した(徳島)、得した。ずっしり重いと疾(やま富山)しい気持ちにもなるが、
 「この金で、旅の無事を祝って(岩手)、雑煮食うなら菜が先(長崎)だ。今は秋たけなわ(秋田)で肌寒い。泡盛(青森)飲んで、景気づけといくか」
 と、馬鹿、山(和歌山)に登って店探しだ。
 あっち(愛知)の海方(うみかた)、開店中。こっち(高知)の山方(山形)も、開店中。どっち(栃木)がいいか、天神様のいう通り。
 親分探しをすっかり忘れ、静やか(静岡)な湖畔の森蔭で、食いも食ったり、飲みも飲んだり。
 どういう風の吹き回しか、「秋の七草、咲く間(ま)もっと(熊本)長かれ」と呟いたが、
 「なんだ、造花か。道理で花が咲いたまま(埼玉)だ」。
 そこへ便りがひょっこり(兵庫)届くが、くずし字の仮名がわ(神奈川)からねえ。やっと読めたと思ったら、
 「服しま(福島)い込む最中に、おっ母(かあ)、病(やまい岡山)になって床に伏せった。医師、かわ(石川)いそうにと呟いた」
とあるではないか。
 おっ母の無事を祈ったその晩、軍馬(群馬)いななく夢を見た。

 季節は巡り、冬が来た。
 親分探しは諦めて、あっしは郷里(くに)へ帰ることにしたのでござんす。みやげ(宮城)は何がよいのやら。

 

   ◆城島明彦の本(古典関係のみ) これらも、よろしくお願い申し上げまする

  Photo_20241231233801 吉田松陰『留魂録』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ) Photo_20241231233701

   Photo_20241231233702 

  家康の決断 天下取りに隠された7つの布石  武士の家訓 生き抜くために、戦国武将が遺した究極の教え

      Photo_20250101014501       (城島明彦)

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