「べらぼう」番外編 「蔦重と写楽」の幻の映画「寛政太陽伝」とは?
〝あゝ昭和夢物語〟ってか? 「幕末太陽伝」の監督川島雄三、主演フランキー堺
フランキーというと、平成生まれの人たちは、リリー・フランキーを想起するかもしれないが、昭和生まれの人が思い浮かべる映画俳優はフランキー堺である。
フランキー堺は、本名が堺正俊なので、下手をすると、堺正章(グループサウンズの出で司会などもやって今でも現役)と似ているので、「正章の兄弟?」とか「(正章の父で名脇役の)堺駿二の親戚筋に当たるのか」などと思われかねなかったから、フランキー堺としたのかもしれないが、そのあたりの詳しい事情は知らない。
フランキー堺は、もともとはジャズのドラマーで、慶応大学法学部在籍中からジャズバンドマンとして活躍していたが、しゃくれた顔立ち、おかしな動き、どこか妙な話し方が受けて、1950年代から日活の喜劇映画に次々と出演するようになり、映画全盛期の1960年代には、森繁久彌、三木のり平、小林桂樹、加藤大介ら芸達者な俳優たちにまじって、東宝の看板番組の1つだった「社長シリーズ」や「駅前シリーズ」にも出演したが、単なるドタバタの喜劇役者ではなかった。
ブルーリボン主演男優賞
デビュー作は、1955(昭和30)年の新東宝映画「青春ジャズ娘」(監督は松林宗恵。フランキー堺は、ドラマー役で出た。
(写真:フィルマークより) 左が江利チエミ、右が新倉美子(美人ジャズシンガー)
ミュージカルコメディとしゃれこんだ1957(昭和32)年公開の日活映画「ジャズ娘誕生」にも出演。主演は江利チエミ(故人。高倉健の元妻)。石原裕次郎が共演していた。
(写真:Amazon Prime Video)
「ジャズ娘誕生」の主演江利チエミは、当時、「家へおいでよ」(カモナマイハウス/Come On-A My House)や「テネシーワルツ」などのアメリカンポップスのヒット曲を歌って、美空ひばり、雪村いずみとともに「三人娘」と呼ばれ、人気があった歌手だが、どうひいき目にみてもB級映画で、春原政久という監督の作品。
この映画は当時主流の白黒ではなくカラーで、私は何年か前にアマゾンのプライムビデオで見た。フランキー堺は、彼女に絡む準主役どころだった。
その後のフランキー堺は、日活のドタバタ物に何本か主演していて、何本かを見たが、軽妙な持ち味を発揮していた。強みは憎めない顔だった。
これらは全部見たが、あまり面白くない。
そんなフランキー堺の映画代表作は、1957(昭和32)年7月に封切られた「幕末太陽伝」。落語の「居残り佐平次」を素材にした川島雄三監督作品だ。
(写真:Amazon Prime Video/中央がフランキー堺の佐平次、右が高杉晋作の石原裕次郎)
時代は幕末。仲間を引きつれて、品川の宿の「相模屋」という女郎屋が舞台で、そこへ客として上がって、連日連夜ドンチャン騒ぎをしたあげく、それが無銭飲食だったことから、代金を弁済するためにそのまま居残って、住みついて、さまざまな出来事や事件にかかわるという、おもしろおかしい話だが、私など、長い間、日本映画の最高傑作は、黒澤明の「七人の侍」や「用心棒」ではなく、川島雄三の「幕末太陽伝」ではないかと考えていたくらい、実によくできた映画で、フランキー堺はブルーリボン男優主演賞を取った。
「幕末太陽伝」は、私が東宝の助監督になるのに影響を与えた1本だった。もっとも、私が東宝の助監督として働いたのは3年間に過ぎなかったが。
この映画で、フランキー堺は演技開眼したのだから、役者の素質があったのだろう。
川島雄三は、その前年に時代は違うが、遊郭が登場する「洲崎パラダイス赤信号」という傑作をつくっている。
「寛政太陽伝」に賭けたフランキー堺の執念
フランキー堺は、無茶な要求をして演技開眼させた川島雄三にすっかり惚れ込んでしまった。
川島雄三もフランキー堺に喜劇俳優としての類まれな演技力が大いに気に入り、
「次は『寛政太陽伝』をやろう」
といったという。
この一言がフランキー堺を「写楽」と「蔦重」にのめり込ませることになる。
川島が考えた主役は、蔦屋重三郎ではなく、写楽だった。
当時は、「写楽が誰であるか」はまだ特定されておらず、その謎を解くストーリーを考えていたらしい。
だが、「進行性筋委縮症」を患っていた川島は、「寛政太陽伝」を撮ることなく、45歳の若さで、この世を去ってしまった。1963(昭和38)年6月のことである。
川島雄三の映画の助監督だったのが、「にっぽん昆虫記」「神々の深き欲望」などの秀作をつくった今村昌平であり、「キューポラのある町」「非行少女」などを撮った浦山桐郎だ。
今村昌平は、佐藤春夫の詩の一節を引用した『さよならだけが人生だ』と題した川島の回顧録を書いている。
川島雄三が死んでも「寛政太陽伝」のことを諦められないフランキー堺は、写楽を調べまくり、とうとう写楽を主人公にした小説『写楽道行』(400字詰め原稿用紙で170枚)を執筆、文芸春秋の大衆娯楽雑誌「オール読物」(1985〈昭和60〉年発行)に掲載された。
私が同誌の新人賞(オール読物新人賞)を受賞した2年後だったので、編集者が毎月送ってくれていた同誌8月号で「写楽同行」に目を通したが、「俳優なのに、筆が立つ」と感心した。
翌年3月には単行本化され、さらにその3年後には文庫化された。フランキー堺は、のちに大阪芸大教授も務めるインテリでもあった。
川島雄三がフランキー堺に「寛政太陽伝」の構想を打ち明けたのは「幕末太陽伝」から四年後のことだった、とフランキー堺は『写楽同行』に書いている。文中のK監督が川島雄三で、鮒木栄がはフランキー堺のもじりだ。
あれは昭和三十六年夏のことであった。
大映の第三ステージに建てられた街角のセット。キャメラが据えられ、ライティングを仕込んでいる表側の華やかな喧騒にくらべると、セット裏は、大道具の支え棒や、ライトのコード、脚立などで足の踏み場もない乱雑さだ。
その片隅で、K監督は、共に表側の準備が出来上がるのを待っていた主演俳優の鮒木栄(ふなきさかえ)に語りかけた。
囁くようなおだやかな声だった。
「フナさん。次の作品はね……写楽です」
「写楽というと……ああ、これですか」
鮒木は、フッと閃いた写楽の似顔絵の中で、最も印象的な部分を咄嗟にピック・アップしてKに示した。
水上勉原作「雁の寺」で若尾文子も演技開眼させる
川島雄三は、昭和36(1961)年に大映に招かれ、2本の映画を撮っている。「女は二度生まれる」「雁の寺」で、どちらも主演は若尾文子だが、フランキー堺が書いている「第三ステージに建てられた街角のセット」という言葉から、ほとんどがお寺の場面の「雁の寺」ではなく、「女は二度生れる」の撮影時だったと考えるまでもなく、フランキー堺が共演しているのは「女は二度生れる」の方だけである。
(写真:「雁の寺」は高校生のときに観たが、刺激が強い映画だった)
フランキー堺が「私の顔はあの似顔絵によく似ているといわれるんですよ」といったので、川島雄三は「今、フナさんが演ってみせてくれたのは写楽が描いた大谷鬼次というという歌舞伎役者の顔容(かおかたち)です。(中略)その程度の教養では先が思いやられます。もっと勉強してください」と発破をかけられる。そういうやりとりが続いて、川島雄三はこういったという。
「寛政太陽伝という題の作品になるだろうと思いますが、鮒さん。幕末太陽伝の居残り佐平次のパートⅡだと思ってはいけないのです。〝首が飛んでも見世らあ〟という佐平次のバイタリティの数倍も困難な役が、写楽です。生没年全く不明の謎の人物ですが、私は、いわば、積極的逃避精神……」
そしてフランキー堺は、こう記している。
「それから二年たって、写楽を主人公とした映画のシナリオい脚本家のY・Mと共にとりかかろうという直前、Kは急死した」
昭和38年6月11日の朝だった。
巨匠内田吐夢も、のめりこんだ「写楽と蔦重」の魔力
フランキー堺は、のちにこう語る。Uは内田吐夢である。
「先に急死したKは、写楽に、すべてを捨てて自分自身から逃げて行く積極的逃避精神があるように見えてならない、という謎めいた言葉と、死の枕頭に展(ひろ)げてあった江戸商売図絵の一巻を鮒木に遺し、そしてUは、胸のつまるほどの写楽への思慕を羽子板にし託して、逝ってしまった」
羽子板というのは、小田原の浜辺で拾ったらしい色あせた羽子板に内田吐夢が手を加え、蝦蔵(えびぞう)の顔を写楽風に自ら描いたもの。
以後、フランキー堺は「鮒木の執念というよりむしろ怨念」で遮二無二写楽研究に没頭する。
「Kの死は、鮒木に写楽を残した。そのときから彼は、なにものかにとりつかれたように写楽と、その時代の研究を始めた」
そんなフランキー堺は、それから数年後に、渋谷のTという飲み屋で、映画「飢餓海峡」などの名画を多数つくった巨匠内田吐夢と偶然出くわす。驚いたことに、内田吐夢も写楽の映画化構想を長年あたためてきたのだという。
2人は共鳴し合い、一緒に写楽の映画をつくろうという話で盛り上がったが、その内田吐夢も、のちに中村錦之助(のち萬家錦之助に改名)が宮本武蔵に扮した「真剣勝負」(1971〈昭和46〉年2月公開)を東宝撮影所で撮っている途中で急死。
その映画は、内田の遺志を継いで、助監督だった磯野理(おさむ。故人)が残りのカットを撮影して完成させた。当時、私も東宝で助監督をしていたが、そういう事情があったと知るのは、かなりたってからだった。
納骨堂に眠っていた蔦重の遺骨
「病膏肓(やまいこうこう)に入る」
としかいいようのないフランキー堺が、「写楽」を映画化するためのプロダクションを設立したのは1965(昭和40)年のこと。
フランキー堺は、浅草の正法寺の話についても語っている。
同寺の住職の話では、「関東大震災や東京大空襲などで墓が倒壊するごとに土を掘り起こして、遺骨を収集し、納骨堂に収めてきた。蔦重の遺骨も、そこにあるはず」という。
フランキー堺は、のちに1億円をはるかに超える私財を投じて写楽の映画をプロデュースし、その撮影の無事を祈願するために、女優岩下志麻の夫で映画監督の篠田正浩を連れて正法寺を訪れている。
当時、少年だった現住職は、フランキー堺が好きだったので、「毘沙門堂」で行なわれる安全祈願の祈祷の様子をみれたらどんなにいいだろうと思いながら、先代(父の佐野詮学住職)とフランキー堺が話しているのを眺めていたという。
そのときのことを、フランキー堺は次のように述べている。
「そう、東洲斎写楽。本人の正体はいまだになぞなのだから、彼の墓がどこにあるかはわからないのだがね。写楽の絵を世に送り出した版元の蔦屋重三郎は、この納骨堂の下あたりに眠っているんだ」
その納骨堂は1994(平成6)年に今の高層ビル寺院に建て替えるときに壊されたので、今はないが、祈祷の様子は次のようだったらしい。
――祭壇の正面に観音立像。そして上手(向かって右側)に蔦屋重三郎(通称、蔦重)の法名、幽玄院義山日盛信士・下手(向かって左側)に故東洲斎写楽之霊位と、今日のために特に書かれた位牌が安置されてある。
まず正法寺佐野住職の読経から、鮒木をはじめ数人の参加者が見守る前で、おごそかに法要が始められた。
さっきまで小窓からさしこんでいた黄色い西日が、急に萎(な)え、焚(た)き続けていた香の煙のせいか堂内はたちまちフィルターをかけたように薄暗くなった」
そのときの住職は、今の佐野詮修(せんしゅう)の父詮学である。
(写真:正法寺の佐野詮修住職と「蔦重家の墓と顕彰碑」/撮影:城島)
小説では、先代住職の読経の後、女性の霊能者が写楽と蔦重を降霊するという段取りになっているが、降霊が実際に行われたのか、フィクションなのかは、今となってはわからない。
その前の川島雄三の没後まもなく、故人とゆかりのあった映画関係者が渋谷の円山町の料亭に集まったときに、霊能者を招いて、Kの例を呼び出し、いろいろ心残りのことなどを聞きながら一杯やったと書かれているので、その話の延長として、今度は写楽と蔦重の降霊を試みたんかもしれないが、お寺で降霊を行うというのは嘘っぽいと思う。
(蛇足)
「昭和の映画人と蔦重」の見果てぬ夢の跡
フランキー堺は、写楽を「耕書堂蔦屋重三郎子飼いの版下絵職人」と推定していたが、そうではなく、やがて写楽の正体が阿波の役者と判明したことから、映画化するのは難しくなり、平成6年に角川書店から出版された直木賞作家皆川博子の『写楽』を原作とする映画とし、篠田正浩が監督をすることになった。
だが映画は、川島雄三の「幕末太陽伝」を彷彿させるような名画とはいかず、失敗した。
川島雄三とのやり取りを記憶と体に叩き込まれたフランキー堺に監督をさせたらよかったのに、と私は思っている。
川島雄三、内田吐夢、フランキー堺という映画人が思い描いた〝見果てぬ昭和のでっかい夢〟は、蔦重が写楽を発掘して大勝負をかけた〝起死回生のべらぼうな夢〟と重なる。
蔦重の遺骨は、蔦屋の菩提寺である正法寺の納骨堂から現在の「萬霊塔」に移され、そこで今も眠っている。
(城島明彦)