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2023/07/21

「どうする家康」が、築山殿(瀬名姫)を通説の〝底意地の悪い女〟として描かなかった理由は「有村架純ありき!」 NHKはドラマの名を借りた〝歴史捏造常習犯〟か?

ドラマだから何をやってもいいのか? 歴史を捻じ曲げる傲慢・暴走するNHK

 本ブログ記事は1か月以上前に書いたが、NHK大河ドラマの展開に違和感を覚えることが多く、また(例年のことであるが)梅雨入り頃から鬱状態が重くなったことなどもあり、発表する気がなくなって、今日まで放置してきた。

 しかし、鬱状態が少し軽くなってきたし、せっかく書いたのだし、明後日にはウェッジ・オンラインで拙稿の「本能寺の変」が発信されるということもあり、発表しておこうという気になった。

 NHK大河ドラマの暴走は、「ドラマなのだから何をやってもいいのか?」という疑問を視聴者に突きつけ、歴史好きな人たちを不快な思いにさせているのが、今年の大河ドラマ「どうする家康」である。

 一度や二度というのではなく、これでもかこれでもかと異説を取り入れてストーリーを展開するのは、NHK大河ドラマ半の〝専売特許〟なのか。そこに思い上がりはないのか。

 時代考証を担当する学者は、何のためにいるのかといった問題もある。

 改めて考え見る時期に来ているのではないか。

 

過去の通説が、なぜ築山殿を「悪女呼ばわり」してきたか

 たとえば、『曳馬(ひきうま)拾遺』という古典には、築山殿(瀬名姫)には、

「無頼、悪質嫉妬に深き婦人なり」

 という残酷な評があったと書かれている。

『曳馬拾遺』は、「世間では彼女が嫉妬深かったというが、家康が彼女を冷遇したことはいわない」とも書いており、どちらかの肩を持っているわけではなく、いっていることを信用してよいのではないか。

▼築山殿を斬殺死へと追いやった原因は、大きく分けると「夫婦間の亀裂」「嫁姑の確執」の2点である。

①夫婦間の亀裂

 築山殿n生来の「嫉妬深さ」が災いして夫家康に疎まれ、別居を強要させられ、しかも家康が自分の侍女に手を出し、子まで生ませたことで逆上、「死んだら呪ってやる」と書いた手紙をだしたが、その手の手紙は何度もだしたとされている。

②嫁姑の確執

 嫡男信康の嫁徳姫(信長の長女)が男の子を生まないといって、いびりまくっただけではすまず、岡崎城下にいた武田勝頼の家臣の妾が産んだ娘を側室として信康にあてがうなどしたため、頭にきた徳姫が父信長に「姑築山殿と夫信康が武田勝頼と通じている」などと訴える12箇条の手紙で泣きついた。

 

 しかしNHKは、通説となっている以下の説を完全に無視した。すなわち、

「築山殿は美人だが悪女。勝ち気で強情、底意地の悪い女」

 という過去の築山殿評をそのまま踏襲せず、歴史を捻じ曲げて、築山殿を「悪女」ではない風に描いた。

  そのような悪女に設定すると、有村架純という好感度の高い大物女優が視聴者から反発を食らうと考えたからだろうが、有村架純という女優は演技力があるのだから、「人としての善女」と「悪女にならざるを得なかった築山殿の心の葛藤」を見事に演じさせることもできたはず。だが、そうすることなく、いかにも中途半端で安っぽい筋書きにしてしまった。

 

視聴者が喜ぶような筋書きに

 NHKは、「江戸時代に書かれた史料だから、神君家康の肩を持った書き方をする」「ドラマなのだから、何をやっても構わない」として、歴史的な事実を軽視ないし無視し、視聴者が喜ぶような筋書きにしたのである。

 その結果、NHKは、視聴者が有村架純が演じる築山殿から受けた印象は、概して「美人で、おっとりした賢そうな、話せばわかる、やさしいイメージの女」となった。

 信長は徳姫から「信康の蛮行の数々」を知らされ、徳川家の家老の酒井忠次がそれを肯定したことから「信康には人の上に立つ資質はない。殺せ」といったが、武田勝頼と通じたとする築山殿に対する罰則は口にしなかった。

 彼女を殺すようにいったのは家康である。だが家康は、彼女を佐鳴湖で斬り殺したとの報告を受けると、「もっと別のやり方があったろう」と斬殺に関わった3人の武将に話したという。

 別のやり方とは、築山殿は殺すことなく、尼にして尼寺に蟄居させることである。

 

歴史を無視したいなら考証は不要! 髪形も衣装の好きにすればいい

 家康には「信康を助けたい」という思いと同時に、「この騒ぎを利用して築山殿を遠ざけたい」という思いもあったと推測されるが、そのあたりの葛藤に深く立ち入ってトコトン描こうとNHKはなぜ考えないのか。

 男社会だった戦国時代の武将の妻が、どう生きようとし、どう生きるしかなかったのかといったことをNHKなら描けたはずだが、そうしなかった。

 そこにNHK大河ドラマの致命的ともいうべきマンネリ化と限界があるように思うのは、私だけだろうか……。

 過去の大河ドラマでNHKが盛んに行なってきたのは、話を面白くするために、時代考証をする歴史学者の意見を無視して暴走し、史実を平然と捻じ曲げることである。

 その最たる例が、家康の「伊賀越え」に江姫が同伴したというSFまがいの筋書きだった。NHKのご都合主義がそうしたというわけだ。

 そういうことをやりたいなら、空想劇「NHK大河ドラマ」とでもするしかない。

 今に始まったことではないが、NHKが傲慢といおうか、視聴者も小馬鹿にしているのは、視聴率を上げようとして、歴史を軽視どころか、歴史を捏造しまくることである。

 

たとえば「どうする家康」では、25回目の放送も

 築山殿が武田勝頼に開通した廉(かど)で、佐鳴湖畔で殺傷されるとき、家康が船に乗ってやってきて「死ぬな」といったという話は、どの史料にも載っていないし、こんなありえない演出を思いつくのはNHKぐらいのものだろう。

「低視聴率に悩むNHKが〝お涙ちょうだい〟で視聴率を稼ごうとした」

 と勘繰られても弁解できない創作である。

 昨今は、昔と違って歴史に詳しい人も多く、NHKが歴史的事実をどう曲げ、どのように操作したのかはすぐに知れるので、彼らを落胆させている。

 しかし、そういう人たちを除いた一般の視聴者は、史実がどうであったかを知らず、NHK大河ドラマは史実に基づいてドラマチックに描かれた真実だと思ってしまっている。

 そこに、大河ドラマの制作陣の思い上がりがあるといわれたら、NHKはどう弁解するのか。

 

徳姫が父信長にチクった「夫と姑の悪口12箇条」

 信康の正室徳姫が、実家の父信長に義母築山殿と夫信康の悪口を12箇条にわたって記した手紙を送り、それを家康の重臣が信長の前で「すべて事実」と肯定したことから、信長は「信康を殺せ」と命じたのだが、築山殿まで殺せとは命じていなかった

 徳姫が信長に送ったとされる12箇条の第1条は、築山殿が夫と自分の仲を裂くためにあることないことを家康や夫に告げ口して不和にしたことである。

 12箇条のうち、なぜか8箇条のみが今日まで言い伝えられている。『三河後風土記によれば、その第1条の文面は以下のようだったという。

一、築山殿悪人にて三郎殿(=信康)と吾身(わがみ)の中(=仲)をさまざま讒(ざん)して不和にし給ふ事。

 これが書かれている項目の見出しは「築山殿凶桿附信康君猛烈の事」となっている。

 凶桿は「きょうかん」と読み、「残忍」とか「酷薄」といった意味である。そこには、

「北方凶桿にて物嫉(ものねた)みの深くましましければ、いつしか御なからひも疎々しくならせ給えぬ」(正室の築山殿には残忍で嫉妬心が強かったことから、夫婦仲がだんだん悪くなっていった)

 とあり、自己主張の激しい女だったことがよくわかる。これが、彼女に対する歴史的な通説だ。

 それをひっくり返すには、彼女がドラマに登場したときから、陰ひなたのある複雑な性格である演技をしてこなければならない。そうすれば、視聴者は、「この危ういバランスはいつ壊れてしまうのだろう」と思いながら観るだろう。

 有村架純という女優は、そういう演技ができる人だと私は思う。そこまでの演技をNHKは彼女に求めなかったために、築山殿という女性の心の奥深くの悩みと苦しみ、怒りなどを表現できなかったのではないか。  

 

築山殿が家康に文句をいった手紙の内容

 築山殿が手紙で家康に文句をいったのは、以下のようなことだった。

 ①自分は正室である

 ②自分は徳川家の嫡男信康の母である。

 ③自分の父は家康のために(今川氏真に)殺された。

 ④嫡男を産んだ正室なのに、なぜこんなひどい扱いを受けねばならないのか。

 これらのことから感じられるのは、足利将軍家を後継できる家柄である「今川義元の姪」というプライドの高さ、家康の正室として跡継ぎの男子を生んだという自負心で、これが仇(あだ)となった。

 ただ『三河後風土記』には、想像力がふくらみ過ぎて、「見てきたような嘘を書き」といった点も見られる。次の一文はそれだろう。

「一念の悪鬼となり、やがて思ひ知らせまいらすべし」

 私が死んだら呪い殺してやるというような恐ろしげな怨念を彼女が家康に抱くようになったのには、それなりの理由がある。

 

別居から離縁への道を模索していた家康

 家康と築山殿が別居するようになったのは、家康が居城を岡崎城から浜松城に移した1570(元亀元)年正月からだ。

 そのとき29歳だった家康は、正室の築山殿を連れていかず、岡崎城の新城主にした嫡男の信康のところに留め置いたのである。

 形式的には「別居」だったが、実質的な「離縁」と何ら変わるところはなかった。

 家康は、ときどき岡崎城へ足を運んでいたが、築山殿の目を盗んで、彼女の侍女お万に手を出し、妊娠させてしまう。

 築山殿は怒り狂って、お万を激しく折檻したといわれており、おなかの子を堕胎させようとする狙いがあったと思われ、そういうところからも「築山殿は嫉妬心が強かった」という評判につながったのだろう。

 お万は百姓の娘だったが、神社の神主の養子にして身分を高くして築山殿の侍女におさまっていたが、ある夜、家康が風呂に入る世話(湯女(ゆな))をしてお手がつき、やがて妊娠したという経緯があった。

 お万を演じているのは広瀬アリスで、素の彼女がどことなくバカっぽい感じがするところが適役かもしれない。

 お万は、百姓の娘だけあって体が強かったのだろう、築山殿のいじめに堪えて出産したのが男子だったから、築山殿の怒りはさらに激しくなった。

 

真実か、でっち上げか

 築山殿が唐人医師を装った武田勝頼の間者(減敬〈めっけい〉にかどわかされて、勝頼と通じたとされている。

 そのことがどうして発覚したかというと、築山殿の侍女が、こっそり築山殿の手箱の底に隠してあった文筥(ふばこ)を盗み見ると、そこに武田勝頼の血判が押された誓紙があったことが発端とされている。

 これが真実か否かは、その誓紙の実物が残っていないから何ともいえない

 謀略かもしれないし、事実だったかもしれない。そういうしかないのだ。

 だが、その侍女の姉が信長の娘徳姫の結髪係をしていた関係で、そのことが徳姫の耳に入り、話が大きくなったという。

 徳姫は娘2人を産んだが、姑の築山殿から「男を産め」といびられただけでなく、武田につながる娘を側室として信康にあてがわれることまでされたことで、頭に血が上り、築山殿と信康の悪口を書いて信長に手紙で訴えた嫁姑戦争の勃発だった。

 

 信康・築山殿の事件について書くべきことは、まだまだたくさんあるが、このあたりでやめておこう。

 なお、12箇条の詳細などを知りたい向きは、拙著『家康の決断』をお読みください。

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(城島明彦)

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