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2023/02/07

NHK大河ドラマ は、なぜフィクションで遊びたがるのか?

〝視聴率ばなれ〟を自ら誘引するNHKにブーイング

 

「妻子奪還」を2回もやる不思議

 NHK大河は、6回・7回と連続で「今川の人質」となっている家康の妻子(正室の築山殿〈つきやまどの〉、嫡男竹千代・長女亀姫)の奪回話「瀬名奪還作戦」「続・瀬名奪還作戦」だが、伊賀の忍者部隊を率いる服部半蔵と本多正信が妻子奪還を画策するという逸話は、「虚実入り混じった」というより、6回目などは「ほとんどがフィクション」であり、加えて、「妻子奪還というテーマに2回も費やしていいのか」と歴史好きな視聴者からは苦情の声も出ているようだ。

 たとえば、放送日翌日(2615:30配信)の「FLASH」は、《『どうする家康』の「完全フィクション回」に驚きと賛否 41話で家康の生涯「残り54年描き切れるか」の憂慮》と題して、ウォッチャーの感想として次のような声を伝えていた。

「第5話は、本多正信と服部半蔵が、今川の本拠である駿府に潜入、瀬名を奪還しようとして失敗する、というストーリーでした。しかし、これは明らかなフィクション。正信と半蔵という、これから重要な役柄を担う2人の紹介のために、1話を創作話で丸ごと費やしたといってもいいでしょう。

史実では、今川重臣の子息を捕虜とし、元康の妻子と人質交換したとされ、それが第6話の『続・瀬名奪還作戦』にあたります。家康といえば今後、長篠の戦いや伊賀越え、小牧・長久手の戦い、関東移封、関ヶ原、大坂の陣と、描かなくてはならないエピソードが山ほどある。それにも関わらず、フィクションを交えた妻子の奪還の話だけで2週分も使ってしまって……という視聴者の心配は、もっともでしょう」

 案の定というべきか、後述するように視聴率(関東地区の平均視聴率、ビデオリサーチ調べ)129%と低く、声なき声として「NHK大河は、史実無視のフィクションで遊んでほしくない」と多くの視聴者が思っていることは容易に推測できるのではないか。

 

「人質交換」が実態なのに「妻子奪還」とは?

 家康の人生の大きな節目は、19歳のときにやってくる。

 信長が、「桶狭間の戦い」で、誰も予想しえなかった「今川義元を葬り去る」という大金星をあげ、そのおかげで家康は、6歳のとき以来の「人質」という縛(いまし)めを解かれ、自城の岡崎城へ戻れたのだが、妻子はまだ今川家の人質として駿府にいた。家康を今川家の人質から解放しても、今川を裏切らなることがないように氏真がそうしたのだ。

 家康にとって妻子を人質から解放することは重要な事案ではあるにしても、NHKが2回にわたって「妻子奪還作戦」を描こうとまでする真意が、私には理解できない。 

 結論から言えば、家康が戦いで捕虜にした妻子の奪還は、家康が戦で生け捕った今川氏真の近親者2人との人質交換によるので、「奪還」などという表現はいささか大袈裟すぎるきらいがあるからだ。

 もう少し詳しくいうと、家康は、信長との軍事同盟(清州〈きよす〉同盟)が成立した翌月の1562(永禄5)2月、自ら兵を率いて出陣、名取山に本陣を設け、家臣の松井忠次・久松俊勝の両名に命じて上之郷城に忍び込ませて放火させ、同城を攻略した。その結果、城主の鵜殿長照および長照の弟は討死し、長照の長男氏長・次男氏次を生け捕りにしたのである。

 家康は、今川氏真が従兄弟2人を見殺しにはできず、何とか無事に生還させたがっていると知り、石川数正を駿府へ派遣し、人質交換交渉に当たらせた。こうして妻子は岡崎へ戻ることになったというのが、史実なのである

 

本多正信と服部半蔵

 本多正信についてだが、本多家は、松平(徳川)譜代の家臣で、幼少の頃から家康に近侍していながら、三河で一向一揆が勃発すると、家康を裏切って一揆方につくが、一揆が終息すると、家康は正信を許して家臣として復帰させ、家康の参謀として尽すようになる。

 服部半蔵は伊賀国服部郷の出身だが、父保長の代に伊賀から三河に移り、家康の祖父清康・父広忠、家康の3代にわたって松平家に仕えた。半蔵は、16歳のときに(愛知県蒲郡市にあった)三河宇土城(みかわうとじょう。上之郷城〈かみのごうじょう〉、西郡宇土城〈にしのごおりうとじょう〉とも)の夜討ちで戦功をあげたと『服部半蔵正成譜』(正成は名)に書いてある。

「西郡宇土城(にしのこおりのうとじょう)夜討の時、正成十六歳にして伊賀の忍(しのび)の者六、七十人を率いて城中に忍び入り、戦功をはげます。これを称せられて、家康より持槍(長さ七寸八分、両鎬(りょうしのぎ)を賜ふ」

 

「じり貧」の視聴率が意味するもの

 まだ放送が始まって2ヵ月目とはいえ、回を追うごとに「じり貧」の視聴率の推移がそのことを如実に物語っている。

  154%→153%→148%→139%→129

 歴史的に不明な出来事は、安易にフィクションに走らず、史実をとことん追いかけることで、「こうだったのではないか」という描き方をしてこそ、〝NHK大河の本領発揮〟といえるのではないか。私は、ずっとそう思ってきた。

 しかしNHKは、視聴率が下がろうが、叩かれようが、フィクション路線を変えようとはしない。

 

三河武士気質

 家康の人質暮らしは、足かけ13(織田家2年、今川家11年)にも及び、その間に初陣も済ませ、義元の姪を妻にもらい、子(一男一女。竹千代・亀姫)までもうけていたので、いつしか、そういう〝隷属的な暮らしが板についた〟としてもおかしくなかったが、家康はそうではなく、いつか岡崎城へ帰るという望みを捨てていなかった。

 その理由は何かといえば、極端なまでに「耐え忍ぶ」という、他に類を見ない〝三河武士気質〟ではないか。

 何に堪えるのか。刻苦であり、貧困であり、境遇などである。

 家康の父も祖父も20代なかばで不慮の死を遂げていたことも、「自分が松平家を再建する」という思いを強くさせた。

 譜代の家臣たちは、日頃は農業に精を出しながら、戦(いくさ)に備えていた。

 その一方で家康は、文武両面での教育に力を注いでくれていた〝烏帽子親〟(えぼしおや)である義元には「恩義」も感じていた。

 のちに家康は、「武士道」に代表される「人としての生き方の規範」として「儒教」を政治にとり入れるが、そうした背景には人質生活を通じて身につけた考え方があったのだ。

 そこが、何の苦労もなく育ち、蹴鞠や謡などに明け暮れていた義元の嫡男氏真(うじざね)と大きく異なる点だ。

 義元は、親バカにはならず、「家康を氏真の指南役にしたい」という強い思惑があって、人質であっても家康に文武両面での教育を受けさせたと推察でき、そのことは家康にも伝わっていた考えてよいのではないか。

 その反面、義元には人質に対する冷酷な一面も当然あって、普通は〝ご祝儀〟の意味合いで安全な「初陣」(ういじん)も、17歳のときの家康の場合の初陣「寺部城攻め」は、そうではなく、厳しい戦をあてがわれた。

 その年の家康は、寺部城だけではなく、広瀬城、挙母城、梅が坪城、伊保城なども攻めた。

 人質だから冷酷非情な扱いをしたという面以外に、義元は、家康に「〝武将としての非凡な才〟を見出していた」とも考えられるだろう。

 義元の武将らが「危険だから」という理由で引く受けなかった桶狭間の戦いの前哨戦「大高城への兵糧入れ」という至難の任務を、義元が家康に命じたのも、「人質だから」という理由に加えて「家康ならやり遂げる」という思いも義元にはあったはずだ。

 

(おまけ)伯父水野信元との石ヶ瀬の戦いについて

 家康は、今川から織田に転んだ伯父(家康の生母お大の方の異母兄)の水野信元(緒川城の城主)と石ヶ瀬で三度も戦っている。

  17歳(永禄元年6月) 石ヶ瀬川(愛知県大府市)を挟んで、緒川城(愛知県刈谷市)の軍勢と戦闘。

  19(永禄3年6月) 「桶狭間の戦い」(5月19日)後の6月中旬、石ヶ瀬から刈谷城外へと攻め入る。

  20歳(永禄4年2月) 三度めの戦い(家康は、横根(大府市)や石ヶ瀬で戦い、広瀬城や伊保城を攻めた)

  21歳(永禄5年正月) 信長・家康の軍事同盟「清州同盟」成立

    (永禄5年2月) 家康、名取山に本陣。甲賀・伊賀の忍者活躍。長照・長忠の兄弟は討ち死にし、2子(氏長、氏次)を生け捕る

 家康は19歳のときに大高城へ兵糧入れを果たし、城に留まっていたとき、信元は「今川義元が信長に討たれたから、そこにいると危ない。逃げろ」と知らせてくれたが、家康は自分で確かめるまで大高城を動かなかった。

 信元は、今川方から織田方に転び、家康が21歳になった1月には、信長の意をくんで家康との同盟交渉をになった人物だが、家康からは信用されていなかったのだ。信元は、のちに(長篠の戦い後)、「武田に内通した」と信長に疑われ、家康に殺されることになる。

 ▼拙著・拙訳書

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 (城島明彦)

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