俳優の故・志垣太郎が寿司をおごってくれた思い出
1972年に千葉県茂原市のロケ先で
志垣太郎が心不全で急死したことは、誰から聞いたのかは忘れたが知っていたので、「長男がブログで3月7日に逝去していたことを発表した」と本日のスポーツ紙などが報じているのを見て、「えっ、未発表だったのか」と驚いた。
志垣太郎が寿司をおごってくれたのは1972(昭和47)年の春から夏にかけての頃だった。
当時私は東宝の映画の助監督をしており、森谷司郎監督の「初めての愛」についていた。ありふれた言い方をすると、「2組の男女の青春の光と影を描いた映画」で1972年9月に公開されたが、当時はまだ無名に近かった「少しは私に愛をください」をはじめとする小椋佳の歌を全編にいくつも使った点に森谷司郎の先見の明があった。
森谷司郎は、私が東宝に入社する際の保証人の1人だった。
「初めての愛」の主演は岡田裕介(のち、映画プロデューサーを経て東映社長・会長)で、準主役が恋人役の島田陽子。
志垣太郎は岡田裕介と同居している親友役の準主役で、志垣の恋人役が、当時文学座の演劇研究所に所属していた服部妙子。
東宝映画(1972年)「初めての愛」ポスター
中央左寄りの男女は岡田裕介と島田陽子。下段左の写真が志垣太郎(後ろの女優は加賀まりこ)
「初めての愛」では、服部妙子が千葉県の茂原に住むおじいちゃんを尋ねるシーンがあり、茂原へ1泊2日のロケがあった。撮影が終わって旅館に入り、スタッフは大広間、島田陽子と服部妙子は同じ別室になった。
私は神経質で寝床が変わると寝付かれないのに加えて、スタッフ連中がマーシャンをするので、うるさくて眠れず、そのうち腹も減ってきたので、「寿司でも食べに行くか」と思って出かけた。志垣太郎と出会ったのは寿司屋へ向かう道だったのか、店の暖簾をくぐると志垣太郎がいたのかは忘れたが、1時間くらい寿司屋にいて、いろいろ話をし、一緒に旅館へ戻った。会計をするとき、5つ年上の私が2人分支払おうとするのをさえぎって、志垣太郎が支払った。
腹が満たされたせいか、旅館に戻ると、すぐに寝つき、翌朝目を覚ますと、周囲の様子が変だった。
何事かときくと、スタッフの誰かが島田陽子と服部妙子が寝ている部屋に忍び込み、足を撫でるという事件が昨晩あったのだという。足を撫でられる被害に遭ったのは、服部妙子の方だという。
スタッフの誰かが、「犯人はパジャマを着ていたというじゃないか」と私に繰り返しいった。
島田陽子と服部妙子は私のことを〝パジャママンさん〟と呼んだが、冗談にしろ、旅館の浴衣に着替えず、持参したパジャマに着替えていたのは私だけだったから、不愉快になった。
そういう事件があったので、出発するロケバスのなかは、重苦しい雰囲気で、誰もしゃべらなかった。
ロケバスの運転手が犯人だとわかったのは、その翌日だった。
それから50年もの歳月が過ぎた。
「初めての愛」が完成し、9月に公開された後、私は、助監督会が発行しているシナリオ同人誌「アンデパンダン」に志垣太郎を主人公にした青春映画のシナリオを2作寄稿した。そのうちの1本がそれで、「白薔薇懺悔録に記された青春譜」といったような青くさいタイトルをつけたが、会社からの反応はなかった。
私が映画界を去ったのはその翌年のことだった。辞めた後、提出してあった別の企画が通って、福田純監督から電話があり、「自分の手で映画化するから脚本を書いてくれないか」といわれ、第2稿まで別の筆名で書いて、あとはその組に着く助監督の手に委ねた。
森谷司郎監督は、1984(昭和59)年12月に逝去し、岡田裕介は2020年11月に71歳で亡くなり、志垣太郎は2022年3月、島田陽子は同年7月に69歳であの世へ行った。
「初めての愛」の主役・準主役で残っているのは、私より3歳若い1949年生まれの服部妙子だけ。
服部妙子は愛知県の出身で、彼女の父と私の叔父は東海銀行(現在の三菱UFJ銀行)の同僚で仲が良かったことから、変わり種どうしの私と彼女を結婚させたかったらしいことが、あとになってわかった。
映画の撮影以前か撮影中に、彼女の父と親しいという話を聞いていたら、個人的な話もしたろうに、もしかしたら、夜、「寿司を食べに行かないか」と誘っていたかも知れず、いや、そこまでいかなくても、旅館でコーヒーでも飲みながら歓談ぐらいできたかもしれない。そうなっていたら、痴漢事件も起きていなかったのではないか、と私は思うのだ。
次の本は、あの事件からちょうど50年後の今年、私が執筆した近著で、400数十年前の家康の青春時代も書いてある。ぜひ、ご一読を!
(城島明彦)
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