〝栃若時代〟の映画『土俵の鬼 若ノ花物語』(1956年12月公開)を観た
子どもの頃、観たくても見られなかった映画『若ノ花物語』をアマゾンのプライムビデオで観た
劇中、若ノ花の実際の取り組みが出てきた。
横綱の吉葉山、鏡里、大関の朝潮、松登、大内山をはじめ、安念山、成山、鶴ヶ峰、宮錦といった懐かしい力士との対戦が見られ、面白かった。
その取り組みのなかには、かの有名な大技「呼び戻し」もあって、「おお、これこれ」と思ったものだ。
映画を見て、もう一つ思い出したのは、若ノ花自転車で花籠部屋と自宅を往復していたこと。こういうことも、当時の相撲大好き少年はよく知っていた。
すっかり忘れていたのは、若の花と栃錦が水入り2回の大相撲になったが、最初の水入りの際、栃若が相手の健闘を讃えるかのように互いに微笑んでいたことと、次の取り組みの後で、再開したということ。
日活映画では、若い頃の若ノ花は青山恭二、花籠親方は坂東好太郎だが、若ノ花という四股名(しこな)は親方が大ノ海を名乗る前の四股名だったということも劇中で語られる。
映画では、奥さん役が北原三枝、いわずと知れた〝昭和の大スター〟石原裕次郎の奥さんだ。
当時の相撲少年は、皆、若ノ花の長男勝男くんが、ちゃんこ鍋をひっくり返して大やけどを負い、死んでしまったが、それでも出場し、土俵に上がる前まで首に数珠をかけていたといったエピソードなどは、漫画雑誌の記事を通じて、よく知っていた。
昭和30年代の少年たちが夢中になったのは、相撲、野球、プロレスで、当時、「怒涛の男 力道山物語」(1955年東映)、「鉄腕投手 稲尾物語」(1959年東宝)などの〝スポ根(こん)〟映画は結構つくられ、いっぱいあった漫画誌は競って人気力士や選手の物語を別冊付録につけたものだった。
力道山の映画は少年の頃、夏休みに商店街の空き地で無料上映されたときに観た。そして、それから半世紀以上も経った2年ほど前にプライムビデオで改めて観たが、いくつかのシーンを間違いなく記憶していたことがわかって、郷愁にひたった。
力道山は、セリフ回しもうまかったが、日頃から無口な若ノ花はうまくなく、その点を考慮したのか、せりふはすくなかった。
私は、小学生時代、相撲が強かったこともあって、化粧まわしをつけた力士のブロマイドを集めていて、ある日、学校へもって行って友だちに見せびらかしていたところ、先生に取り上げられ、返してもらえずなかった。小学1年生から4年生までコツコツと集めたので、100枚は越えていたのではないか。
その先生のことは好きだったが、プロマイドを返してくれなかったそのことだけはいまだに不満に思っている。
他人から見れば、どうということのない出来事も、当人にとっては、生涯、忘れられない重大な出来事なのだ。
思い出とは、そういうものなのではないだろうか。
(城島明彦)
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