元東宝専務・平尾辰夫さん、受けた恩を返せなかったことをお詫びし、ご冥福をお祈り申し上げます
故・小松雅雄先生のゼミの大先輩&東宝入社時の保証人だった平尾さんの思い出
平尾さんの義父は、木下保(日本のクラシック音楽界の巨匠)。
奥さんは、俳優座養成所出身(10期)・青年座で活躍した元女優木下育子さん。
ネットで平尾さん逝去の記事が報じられたのは4月18日の早朝だった。
「平尾辰夫氏死去 元東宝専務」(共同通信)
「元東宝専務・平尾辰夫さん死去 『レ・ミゼ』『ミス・サイゴン』日本初演に尽力」(オリコン・ニュース)
「東宝元専務・平尾辰夫氏死去 演劇担当として『レ・ミゼラブル』日本初演実現に尽力」(サンスポ)
「名作演劇の礎築く 東宝平尾辰夫さん93歳で死去」(スポーツ報知)
東宝が伝えた訃報をほとんどそのまま各紙が書いた伝えた詳細は、ほぼ同じ内容なので、スポーツ報知の記事を引用する。
【 東宝は17日、同社元専務取締役演劇担当の平尾辰夫さんが13日午後9時23分、脳出血のため死去したと発表した。93歳だった。葬儀は近親者のみで執り行い、妻の育子さんが喪主を務めた。平尾さんは1955年に入社、87年「レ・ミゼラブル」、92、93年「ミス・サイゴン」の日本初演(東宝製作、帝国劇場)実現に向けて尽力。両作品のオリジナル・プロダクションのサー・キャメロン・マッキントッシュと信頼関係を築き、現在に至る長期公演の礎とした。77年演劇部長、83年取締役、88年常務取締役、92年専務取締役と長く演劇畑で活躍した。同社は、「ご生前のご功績を偲び、謹んで哀悼の意を表します」とコメントした。 】
私が平尾さんと初めて会ったのは、早稲田大学の政経学部の学生だったときだった。当時の平尾さんの肩書は、東宝の演劇課長で、部長は横山という人だった。
その頃の東宝の演劇部門のトップは、菊田一夫だった。菊田は、放送時間になると銭湯がガラガラになったといわれているNHKの連続ラジオドラマ「君の名は」(1952~1954年)を書いて一躍その名が全国津々浦々に轟いた超有名人である。
平尾さんが菊田一夫を「うし(大人)」と呼んでおられたことも印象深い。
「このミュージカルは観ときなさい」といって、帝国劇場の入場券を渡された。
帝劇でやっていたミュージカルは、市川染五郎(⇒松本幸四郎⇒白鸚)がドン・キホーテに扮した『ラ・マンチャの男』だった。
上演が開始されて、ほどない頃だったように思う。
ドン・キホーテが「姫」と信じ込む宿屋の娘「アルドンサ」は草笛光子、浜木綿子、西尾恵美子が交代で演じたが、浜木綿子は〝カマキリ先生〟こと香川照之のお母さんだ。
——遠い遠い昔の話。就職するに際し、私は、普通のサラリーマンではなく、「自己表現できる仕事」をしたいと考えていた。
「どこかのテレビ局に入って、ドラマの演出家になりたい」という私の希望を聞いたゼミの先生(「経済政策」の小松雅雄教授)に伝えると、唖然とした顔で「なにをバカなことをいっている。やめなさい」といわれた。
小松ゼミは、当時の早稲田大学政経学部では、伊達邦春教授(伊達政宗の子孫)と並んでトップクラスの成績の者が集まるゼミとして知られており、就職先は基幹産業・都市銀行・商社という暗黙のルールのようなものが出来ていたから、先生が驚くのも当然だった。
しかし私は強情を張り、撤回しなかったので、先生は「報道関係はどうか。私のゼミの先輩で、今、フジテレビの報道部長をしている大和寛君がいるから、彼に相談するするように」といって、ご自身で電話されたらしい。
あとでわかったことだが、先生は、大和さんに芸能部門は断念させるように説得してほしいと頼んでいた。
大和さんに連絡し、「ドラマの演出をやりたい」との希望を伝えると、ドラマの演出をやっていた社員ともう一人、「三匹の侍」で名を上げたフジテレビの演出家で、映画にも進出していたていた五社英雄に会わせてもらえるという話だった。
ところが、フジテレビ(当時、河田町にあった)を訪ねると、五社英雄は現れず、ドラマの演出家としては失敗して、別の部門に異動した人物がやってきて、「演出家なんか目指さない方がよい」と、こんこんと諭したのである。
何のことはない、「演出家になったら失敗する。俺のところの報道局へ来た方がいい」という話だったのだが、その場で人事部の人に引き合わせてもらうと、「今年たくさん採用したので、来年の採用はゼロの予定」といわれた。
そんな経緯があって、私は映画監督志望へと考えを改めた。
小松先生は困り果て、「どうしてもというなら、東宝の平尾君に会って相談するように、私から連絡しておく」といった。
有楽町の芸術座があるビルが東宝の本社で、そこへ平尾さんを訪ねると、2人差し向かいで話せるスペースしかない狭い応接室に招かれ、
「世田谷区の砧(きぬた)にある東宝撮影所の方で、不定期に助監督を3人募集するそうだ。もし受かったら、大学を中退することになるが、それでもいいか」
といわれた。
要するに、中途採用である。確か試験日は6月だったように思うが、間違っているかもしれない。
しかし、私は受験を申し込んだだけで、当日は行かなかった。
その理由は、余人にはおそらく理解できないに違いない。
大学中退というのも、引っかかってはいたが、決定的な理由ではなかった。
試験日が迫ったある日、黒澤明の「七人の侍」をやっている映画館があったので見に行ったところ、その凄い演出力を見て圧倒され、「自分には、こんな演出ができる才能はない。監督など無理だ」と脅えたのである。
映画の右も左もわからない世間知らずの若造が、世界の黒澤明と才能を比べるなど、見当違いもいいところだが、今思うと、それが若さという者だった。
ところが、である。
日が経つにつれて、困ったことに、またぞろ、映画を演出してみたいという愚かな考えが頭をもたげてきたのだ。
「喉元過ぎれば、熱さ忘れる」ってやつだ。
で、恥も臆面もなく、のこのこと平尾さんに相談に行くと、ふところが深い平尾さんは、文句ひとついうでもなく、ただ笑顔を浮かべて、
「それなら入社試験を受けて本社社員となり、助監督として配属されるようにすればいい」
といわれた。
平尾さんには黒澤映画の一件は黙っていた。
平尾さんが「君は、僕のところ(演劇部)に来て演劇をやる気はないか」「映画をつくるといっても、君は監督になりたいのか、プロデューサーになりたいのか」と尋ねられたので、私は「監督になりたい」と答えた。
今、考えると、私は「どちらかといえば、映画監督向きではなく、いろんな企画を考えたりキャスティングをしたりするプロデューサーとか、脚本家の方が性に合っていた」ように思う。
若い頃は勢いだけで突っ走る傾向がある。私自身を振り返ると、まさにそうだった。
――そんな経緯があって、私は東宝に入社し、首尾よく、映画助監督として撮影所に配属されたのだ。
東宝に入社するには、保証人が求められる。「来なかったのは軍艦だけ」といわれた労働争議に懲りたからで、その労働争議では鎮圧するために戦車までやってきたのだ。
「平尾さんが保証人になってくださった」と私は思っていたのだが、あとでわかったのは、平尾さんと同期入社の映画監督森谷司郎さん、当時の撮影所の製作部長の滝沢昌夫さんにも声をかけてもらっていて、この豪華絢爛たる3人を保証人欄に記入して平尾さんは会社に届け出たのだった。
いつ頃のことかは記憶が薄れてしまっているが、平尾さんから「遊びにおいで」と声を掛けられて、ご自宅を訪ね、奥さんの手料理をごちそうになったことがある。
平尾さんは晩婚(当時41、42歳か)で、結婚して間がない頃のような印象が残っているが、小田急線の鶴川にあった団地に元女優の育子さんと住んでおられた。
それから半世紀も経った今でもはっきり覚えていて思い出すたびに赤面するのは、何か気の利いたことをいわなければと焦った私は、いうに事欠いて、育子さんに、
「幸せですか」
と尋ねてしまったのだ。
私より7つ年上の育子さんは、少し照れたような、ちょっぴりあきれ顔で、何も返事しなかった。「この子、いうに事欠いて何をいうのよ」とでも思ったに違いない。
育子さんは、成城学園で学び、俳優座養成所(俳優座演劇研究所付属養成所/1949~1967年)の10期生となり、その後、青年座の女優となった。俳優座養成所の出身者は、男優では、仲代達矢、宇津井健、平幹二郎、田中邦衛ら、女優では岩崎加根子、河内桃子、市原悦子、渡辺美佐子、栗原小巻ら、演劇に限らず、映画、テレビでも活躍した人を数え挙げればきりがない。
育子さんの旧姓は「木下」。木下保の次女で、長姉の坂上昌子さんは声楽家、妹の三女増山歌子さんはピアニストという〝華麗なる一族〟だが、音楽関係者以外の人は知らないだろうが、父親の木下保は桁外れにすごい。すごすぎる人だった。
育子さんのお父さん木下保(1903〈明治36〉年)6月14日~1962〈昭和57〉年11月11日)は〝音楽界の超巨人〟で、ウィキペディアの文章を引用すると、こんな具合である。
「声楽家(テノール)、音楽教育者、指揮者合唱指揮者、オペラ歌手、音楽評論家、作曲家・編曲家。日本の洋楽の黎明期を代表する音楽家として多大な功績を残した」「1928(昭和3)年3月東京音楽学校(現東京芸大)研究科修了、1933(昭和8)年4月ドイツ国立ベルリン音楽大学(現ベルリン芸術大学)に留学」云々。
東京芸大教授を務めたバリトン歌手の中山悌一(ていいち/1920~2009年)は、木下保に師事しているが、同じ東京芸大で学び、テノール歌手だったソニーの元社長・元会長の大賀典雄(1930~2011年)は中山悌一に師事しているので、大賀は木下保の孫弟子という関係になる。大賀もベルリン音楽大学(現ベルリン芸術大学)へ留学している。
平尾さんは、前述したように、ふところの深い方で、私が東宝をやめてソニーに移るときでも嫌みの一つさえいわれなかった。
助監督をやめたときは、本社の人事に話すと「企画部はどうか」と打診されたが、固辞し、東宝を退社し、ソニーの宣伝部に移ったのだった。
今思うと、平尾さんのいた演劇部に移る手もなくはなかった。遠い昔の「たられば話」である。
その後、平尾さんとは、小松雅雄ゼミ全体の集まりで何回かお会いし、そのつど雑談を交わしたが、いつもニコニコされていたという印象が強い。近い将来、あの世で平尾さんと会って話すことが出来たなら、私はこう申し上げたいと思う。
「映画はつくるよりも観る方が、私には向いています」
「助監督をやめた後は、ソニーに移らず、平尾さんの部下になって演劇部門という新しい可能性にチャレンジするという道もあったかもしれません」
おだやかで、おおらかな才人で、それこそまさに大人(うし)だった平尾辰夫さん、ご冥福をお祈り申し上げます。
(城島明彦)
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