〝ひっつき草〟と「水雷艦長」、そして「われもこう」
血のにじむ努力をしないと人は大きく成長できない
昭和の半ば頃、つまり昭和30年代に子ども時代を送った人は、都会暮らしでも、あちこちに空き地がいっぱいあって、公園など利用しなくても、そういう場所で自由に遊べた。
雑草が生えた広い空き地には、何本もの土管が無造作に転がっていたり、砂利の山ができるなどしていて、遊び場所には困らなかったし、河原や河川敷も子どもの格好の遊び場だった。
子どもたちは、学校から帰ると、ランドセルを放り出して、駄菓子屋へ向かった後、ういう場所に群れ集って、あたりが暗くなるまで夢中で遊びまくったものだった。
▼三すくみゲーム「水雷艦長」
枯れた雑草があちこちに残る秋や冬に男の子が好んでやった遊びに、敵味方に分かれて野球帽のひさし(つば)の向きで勝ち負けを決める「水雷艦長」というのがあった。
つばを「前」向きにかぶった者は「横」向きに勝ち、「横」向きにかぶった者は「後ろ」向きに勝ち、「後ろ」向きは「前」向きに勝つという、〝三すくみ戦争ごっこ〟で、艦長は前、駆逐艦は横、水雷は後ろ向きにかぶったのだ。
離れた場所に敵と味方の陣地を設け、その陣地を離れるときに帽子の向きを決めて、敵の捕獲に出かける。帽子の向きを変えたいときは、陣地に戻らないといけないルールだが、誰も見ていないところで、こっそり変えたりすることもあったが、ばれたらアウト。捕虜になる。
捕虜は敵陣に連れていかれ、2人3人と増えると、手をつないで、味方の助けを待つ。
敵の目をかすめて捕虜が伸ばす手にタッチしたら、救助となるというきわめて単純な遊びだが、逃げたり追いかけたり、陣地に何人残るか、連携して敵をどうやって捕まえるかなど少しは頭も使いながら、かなりの運動量になり、遊びながら自然と足腰が鍛えられた。
▼わが懐かしの〝糞尿譚〟(ふんにょうたん)
その遊びで、私には忘れられない苦い思い出がある。
その日も神社の境内に陣地をつくり、その周辺を逃げ回っていたが、追われて八幡神社の背後の川堤へと駆け上がった。
足に自信のあった私は、そこから河川敷へと逃げ伸びたまではよかったが、そこに広がる畑へ足を入れた途端、ずぶずぶと、めり込んだ。
いつもと違う感触に「あれっ?」と思ったが、後の祭りだった。
畑に大量の肥(こえ)が撒いてあったのだ。
おかげで私の運動靴はおろか、ズボンまで撒きたてのクソまみれとなり、逃げるどころではなくなった。
川に入って懸命に洗った。
しかし、冬場で水量は少なく、水は冷たいし、洗っても洗ってもそう簡単に臭いが落ちるはずもなく、半べそ状態だった。
後にも先にも、肥を撒きたての畑に足を踏み入れたのは、そのときしかなく、記憶に鮮烈に刻まれることになった。
前日には肥など撒いていなかったから、まったく警戒心がなく、「陸戦で地雷を踏んだようなもの」と、大人になってから思ったものだ。
▼ 我亦紅(われもこう)
遊び疲れて家に帰ると、服にトゲトゲの付いた実がいくつもくっついていることがよくあった。
「ひっつき草」と呼ばれている雑草の実で、セーターには特によくくっつき、学校でくっつけ合いをして遊んだこともしばしばだった。
この正月に突拍子もなく思い出した雑草に、「ひっつき草」の実とよく似た果実をつける「われもこう」がある。
花実の色は暗い紫色をしており、形状は「つくし」に似ているが、もっとひょろっとしていて人の背丈くらいに伸びる茎もあった。
一度聴いたら忘れない不思議な名前で、根は昔から漢方の薬(止血剤)として使われていた。
当て字は「我亦紅」とか「我木香」「我木瓜」などいくつもあるが、匂いはしない。
一番ポピュラーなのは、「我亦紅」で、「も」の当て字「亦」は「また」と読むから、そのまま解釈すれば、「我も紅い」で、「朱に交われば赤くなる」のような意味ではないかということになる。
「われもこう」に想うこと
「我もこうありたい」という解釈は、現代の人間のいうことで、昔なら「我もかくありたし」だから、解釈には無理がある。
古文を当てはめるなら「我も乞う」あたりか。
「我亦紅」の学名(ラテン語)には、「血」が入っている。果実の色に由来するのか、止血剤に使われたのと関係があるのかは知らないが、血を意味する「sanguis」である。別称は英語の「sorb」の語源である「sorbeo」で、こちらは「吸う」という意味だ。
もうおわかりだろう。「血を吸う」から連想できるのは、「吸血鬼ドラキュラ」だ。
「我亦紅」とは、西欧では「ドラキュラ伝説」につながっている、というのが新春の私の発想である。
私は昨年末まで『葉隠』の現代語訳の仕事をしており、1月26日に発売される。
『葉隠』というと「武士道とは死ぬことと見つけたり」を思い浮かべる人が多いが、同書は人としての生き方を教える教訓書でもある。
だが全編に「血」のにおいが立ち込めている。
人は、血のにじむような努力をしないと大きく成長できない。
「我亦紅」をそういう風に解釈すれば、とてもいい名称だと思えてくるのではないか。
(城島明彦)
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