「少しだけ減らすと苦悩から解放される」と説く教訓あり
コロナ世界大戦は国民力が問われる〝忍耐力競争〟だ!
給料、預金、仕事、交友、余暇……人は増やすことばかり考えがちだが、「ちょっと待て」と警鐘を鳴らしている古典がある。
「人生は、少しだけ減らすようにすると、減らした分だけ苦しみや悩むから逃れることができる」(「人生は一分を減省すれば、便ち一分を超脱す」)
といっている明末の教訓書『菜根譚』だ。
同書は、江戸時代に武士の間で読まれた書物で、人の生き方について述べた本だが、本家の中国ではあまり読まれなかった。日本では今日でも人気があるが、著者の洪自誠(こうじせい)については儒教・仏教・道教に通じた人物であったことなどごく限られたことしか知られていない。
コロナ騒動の渦中にある昨今は、「日常」ではなく、「非日常」というしかない。
そんなときには、ジタバタしたって始まらない。
今は、足を滑らせて水中に落ちたとき、どうすればよいかというようなもの。
大抵の人は、水を飲んでしまって、苦しくなり、冷静さを失ってしまう。
だが達人は、そうではない。水中に落下する瞬間の何秒かの間に、口をぎゅっと閉じ、息を止める。
用心深い人は、片手で鼻をつまんで水中にはまったときに水が鼻に入らないようにする。
しかし、そうすることができるのは、ごくごく限られた人数だ。
ほとんどの人は、一寸先のことなど考えている余裕などなくしている。
したがって、「あっ」とか「わっ」と叫んだりしながら、ざんぶりこと水中に落下する。
運が良ければ、足先や背中や尻から水中に落ちるが、運が悪ければ、頭や顔面から水面に突入してしまう。
そうなると、ますますパニックに陥り、もはや冷静な判断力は完全に失われている。
落ちてからも、ジタバタしない。
急流なのか、深いのか浅いのかなど、自分が置かれた状況をまず把握し、どうすれば身体が浮くかをまず考える。
重くなっている着衣を脱ぎ捨てることも必要かもしれない。
以下は、拙著『武士の家訓』より流用する。現代語訳は拙訳だ。
「人生は、操り人形のようなものだ」(人生は原(もと)是(こ)れ一傀儡(いちかいらい)なり)
傀儡とは、「パペット」「操り人形」のことである。
自分の力だけではどうにもならないのが人生である。あるときは誰かに助けられ、あるときは誰かに邪魔をされる。好いた相手には嫌われ、好きでもない相手に慕われる。
「その根元をわが手でしっかりと握りしめ、人形を動かす糸が乱れないように気を配りながら、巻き上げたり巻き戻したりして人形の動きを自在に操れるかどうかは、すべて自分自身の力量にかかっている。だから、他人に少しも操縦させないようにすれば、抜きんでた立場になれるはずだ」(只根蒂(こんてい)の手に在るを要し、一線乱れず、巻舒(かんじょ)自由にして、行止(こうし)我に在り。一毫(いちごう)も他人の提掇(ていてつ)を受けざれば、便(すなわ)ち此(こ)の場中(じょうちゅう)を超出せん)
給料、預金、仕事、交友、余暇……人は増やすことばかり考えがちだが、「ちょっと待て」と『菜根譚』(一三二)は警鐘を鳴らしている。
交遊関係では、
「友人との付き合いを少しだけ減らせば、その分だけ、煩わしく感じていることからは解放されるし、しゃべる頻度を少なくすれば禍が生じる頻度も減るし、あれこれ考えるのを少なくすれば思考力の消耗を抑えられるし、賢明さを訴える回数を減らせば頭が混乱する回数も減り、いい考えが浮かぶはず。それなのに、減らす努力をしないで増やす努力をするのは、自分で自分を拘束して自由を奪っているようなものだ」(如(も)し交遊減ずれば、便ち、紛擾(ふんじょう)を免れ、言語減ずれば、便ち愆尤(けんゆう)寡く、思慮減ずれば則ち精神耗せず、聡明減ずれば則ち混沌完うすべし。彼の日に減ずるを求めずして日に増すを求むる者は、真に此の生を桎梏するかな)
目標を目指すときの「焦り」を諫める箴言が『菜根譚』(一五二)に記されている。
「物事にはどんなに急いでも明白にならないことがある。焦ることなく、じっくりとやれば、自ずと明らかになってくることもあるのだ」(事はこれを急にして白(あき)らかならざるものあり。これを寛にせば或は自から明らかならん)
(城島明彦)
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