コロナ、何するものぞ! 百歳まで生きるための「日々の心がけ」
江戸時代に85歳まで生きた貝原益軒『養生訓』の教えに学ぼう!
貝原益軒の『養生訓』でよく知られているのは「腹八分目」と「接して漏らさず」である。今日の言葉でいう「健康書」である同書に書かれていることは、何も特別なことではなく、ごく当たり前のことが多いのだが、人はそれを守れないから心身を病むのである。同書に書かれたことを拾ってみる。
一、健康な人は、早朝に起床し、夜半には就寝する。
一、自分の体の強いことを過信し、若さを過信し、病気が少し治ってよくなったことを過信する。それらは皆、禍のもとなのだ。
一、家にいるときは、時折でかまわないから、体にきつくない程度の運動をすること。たったり座ったりの動作をめんどうがらず、室内の用事を人にいいつけてばかりいないで、時々は自分で立って体を動かさないといけない。体をよく動かすと、自分の思いどおりにスピーディーに事が運び、人を使う際の気苦労(気づかい)もない。その結果、心が清々しくなり、仕事の流れを簡略化するという効果も得られる。
一、心の中は楽しくあるべきで、苦しいと感じるのはよくない。体は動かすべきで、休ませすぎるのはよくない。自分の体を慈しみすぎてもいけないのだ。
一、飲食や色欲をむさぼれば、初めのうちは心地よく感じるかもしれないが、のちになって必ず健康を損ね、長患いすることになる」
一、古い諺に『忍(しのぶ)は身の宝なり』というのがある。我慢すれば災いは訪れず、我慢できないと災いに見舞われる。『忍ぶ』とは、こらえることである。欲を抑えることをいう。怒りと欲は耐え忍ばないといけない」
一、熱い湯で口をすすいではいけない。歯に悪い。
一、下痢および食滞・腹痛の場合、温かい湯につかって体を温めると、気の循環が活発になって病気が治る。温浴には、そういう顕著な効果がある。病気にかかり始めの頃は、薬を飲むよりも効き目がある。
一、飲食は、空腹感を満たし、喉の渇きを潤すためであるから、当初の飢渇感が消えたら、それ以上むさぼらないようにすべきである。食事の量を「控えめ」にして日々を過ごすと、栄養不足で痩せ衰える、と俗にいうが、それは、養生の何たるかを知らない者のいうことだ。人はうまれつき欲深くできているので、日々控えるようにして過ごすと、ちょうどよい塩梅になるのである。
一、夕食は朝食に比べて滞りやすく、消化に時間がかかる。夕食は少ない方がよい。軽くて淡白な味のものが向いている。副食の品数を多くするのはよくない。副食は、たくさん食べてはいけないのだ。
一、空腹時に入浴してはいけない。満腹時に髪を洗ってもいけない。
『養生訓』の教え
『養生訓』には、前述した日常生活に密着した教えと、もう少し抽象的でアカデミックな感じのする教えもある。
一、内欲・外欲を取り除け――「養生の術」でまずやるべきことは、体に危害を及ぼすものを取り除くことだ。「内欲」(体内から湧き上がる欲望)と「外邪」(体外から体内へと忍び込む病邪)である。内欲とは、飲食欲、性欲、睡眠欲、しゃべりまくりたい欲(〝話欲〟とも呼ぶべき欲) 、そして喜・怒・憂(ゆう)・思(し)・悲・恐・驚の「七情の欲」をいう。一方、外邪とは、自然界を支配する「四つの気」で、風・寒・暑・湿をいう。内欲を少なくし、外邪は警戒して防ぐのだ。そうすれば、「元気」(万物の根源となる精気)がなくなることはなく、病気にもならず、天寿をまっとうできるようになるはずだ。
一、気を一か所に停滞させるな――気は、体全体にまんべんなく行きわたらせることだ。胸のあたりにだけ集めてはならない。怒り、悲しみ、憂い、思念があると、胸の一か所に気が集まってきて、そこに停滞する。「七情」が過度に変化して滞ってしまうと、病気の原因になる。
一、養生の士、かくあるべし――心は静謐(せいひつ)にして波風を立てず、悠揚として迫らず、気持ちは和やかに荒らげず、言葉数は少なく、声高に話すこともなく、大声で笑わず、心にはいつも喜びがあふれ、むやみに怒らず、悲しみを少なくし、過ぎたことは悔やまず、過ちを犯したときは、一度は自分を責めても二度と後悔することはせず、ただ粛々と天命に従い、無用な心配はしない。これが、「心気を養う道」である。養生の士は、かくありたい。
一、元気を害するものに注意――他人の前で、強い「喜」「楽」の感情をあらわにすると、体内の気が解放されすぎて減ってしまう。自分独りで、心配ごとや悲しみの種を多く抱えすぎても、気がわだかまり、ふさがる。気が減ったり、ふさがったりすると、元気は消耗するのだ。
一、完璧を求めるな――あらゆる場面で完璧さを追及すると、心の負担となって楽しくない。禍は、そんな心の状態から生まれる。他人が自分に対して完璧に接してくれることを求めるあまり、他人に足りない部分を怒ったり、咎め立てたりすればm心の病気になる。少しでも良ければ、それで十分ではないか。完全無欠を望んではいけない。
一、欲望のままに生きるのは自殺行為――生まれつき短命な人はまれ。長命に生まれついても、「養生の術」を知らず、術を実践しなければ、天寿をまっとうできない。
一、過信は禁物――「養生の道」は、過信することを厳しく戒めている。自分の体の強いことを過信し、若さをも過信し、病気が少し治ってよくなったことを過信する。それらは皆、禍のもとなのだ。
一、養生の四寡――邪念を少なくして「神気」(精神)を養う。欲を少なくして「静」を養う。飲食を少なくして「胃」を養う。言葉数を少なくして「気」を養う。以上を「養生の四寡」という。
一、養生の四大要――「内欲」を少なくし、「外邪」の侵入を防ぎ、時々は「体」を動かし、「睡眠時間」は少なくする。この四つが「養生の大要」である。
一、気を養う法――気は穏やかなのがよく、荒ぶらせてはならない。気は静かなのがよく、むやみに動かしてはならない。気は緩やかなのがよく、急かしてはならない。言葉を少なくして、気が動かないようにしなければならない。気は臍下の丹田のあたりにおさまるようにし、胸の方へのぼってこないようにしなければならない。これが、「気を養う法」である。
一、分相応に生きよ――どんなことでも、自分の「実力」というものを考えないといけない。実力が及ばないのに、強引にそのわざを行えば、気が減って病気になるのがオチだ。分不相応な努力は、するだけ無駄である。
一、養生術の効果――やるべきことをすべてやるように努力すれば、成果は必ず得られる。植物に例えていうなら、春に種をまき、夏場によく育つように栄養を与えると、秋になれば豊かな実りが得られるようなものだ。「養生の術」を学ぶ努力を継続して行えば、体が丈夫になって病気にならなくなり、天寿が保たれて長生きすることができ、人生を楽しく過ごせる必然的な結果が訪れるはずだ。この因果関係に疑問をさしはさむ余地などない。
(既刊の拙訳『貝原益軒「養生訓」と最新の拙著『武士の家訓』)
(城島明彦)
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