NHK朝ドラ「エール」のモデル古関裕而は、すごい作曲家だった
古関作曲の早稲田の応援歌「紺碧の空」の合唱を早く聞きたい!
今年のNHKの朝ドラ「エール」は昭和の大作曲家古関裕而の話で、ここ数日は古関が早慶戦で歌う早稲田の応援歌「紺碧の空」を作曲するくだりだ。
「紺碧の空」の合唱が聞きたくてテレビをつけるが、NHKはせこい。やたら話を引っぱりまくって、昨日は早慶戦まで「あと三日」なのに「書けない、書けない」といわせている。
しかし、フィクションだらけのドラマなので、「ま、いっか。かたいことはいいっこなし」という感じで、気楽に見られるのがいい。
日本人で古関裕而の作曲した曲を一つも聞いたことがないという人は、まずいないのではないか。映画「モスラ」のなかでザ・ピーナッツが歌う「モスラの歌」は、平成生まれの子どもでも知っている。
東宝映画「モスラ」は1961(昭和36)年封切だ。そのときオイラは15歳、中学3年生だったが、見に行ったがな。四日市市の弥生館や。それから来年で60年。ということは、60年間、子どもたちに親しまれてきたということだ。すごい! すごすぎる! 古関裕而はすごすぎる。
オイラは早稲田を出て、若気の至りで東宝に入り、映画の助監督を3年ばかりしていた時代があったが、「モスラの歌」が古関裕而作曲とは知らなかった。
オイラなど、小学生低学年の頃に家にあった手回し式の蓄音機で、音丸(おとまる)という芸者上がりの歌手が歌うSPレコード「船頭可愛(かわい)や」を何度も聞き、歌詞を覚えてしまったが、その曲を作ったのが、かの「東京五輪」の開会式の入場行進曲を作った古関裕而作品であったとは、つい最近まで知らなかった。
昭和30年代前半の頃(西暦では1955年頃)の話で、そのレコードはまだ妹の嫁ぎ先にある。今なら、結構いい値が付くと思うけど、売ったらアカンよ。
小学5年、6年になると、美空ひばりやら江利チエミやら、春日八郎やら三波春夫やらが登場し、ラジオでヒット曲を流すようになったので、いろいろな曲を覚えたが、そのきっけとなったのが「船頭可愛や」だったのだ。
「船頭可愛や」は古関が26歳のときに放った初のヒット曲で、「紺碧の空」から4年後の1935(昭和6)年だ。その翌年が「六甲おろし」や。
「船頭可愛や」を作詞家した高橋鞠太郎という名前は子ども心にも覚えやすかったが、古関裕而の方は漢字が難しくて覚えられなかった。
「船頭可愛や」はオイラにボキャブラリーを豊かにするきっかけを与えてくれた曲だが、今じゃ〝ボケブラリー〟になってしまったってか。
「とんがり帽子」は、おいらが生まれた翌年の1947(昭和22)年に放送されたNHKラジオの連続ドラマ「鐘の鳴る丘」のテーマソング「とんがり帽子」だったが、おいらの子ども時代にはまだ歌われていたから、歌詞をしっかり覚えた。
〽緑の丘の 青い屋根
とんがり帽子の 時計台
鐘が鳴ります きんこんかん(「とんがり帽子」)
オイラも73歳のジジイになった今じゃ、ときたま、機嫌のいいときには、「とんがりコーン」をつまみながら「とんがり帽子の時計台ィ」と口ずさむこともあるんである。
(この「あるんである」は、「紺碧の空」の早稲田をつくった大隈重信の口癖なんであるんである)
今、オイラは福沢諭吉や渋沢栄一のことを書いているので、大隈重信も出てくる。本が出たら、読んでね!
古関裕而は、戦争中には軍歌もいっぱい作っていた。あんたかて知ってるやろ、ワシかて知ってるんや、「若鷲の歌」。
〽若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨 (「若鷲の歌」)
〽ああ、あの顔で あの声で
手柄頼むと 妻や子が (「暁に祈る」)
「船頭可愛や」を作詞家した高橋鞠太郎という名前は子ども心にも覚えやすかったが、古関裕而の方は漢字が難しく覚えられなかった。
おいらのボキャブラリーを豊かにするきっかけを作ってくれた曲だが、今じゃ〝ボケブラリー〟になってしもうた。、
そうなんだ、オイラのような「団塊世代」などは、古関裕而の作品をそれこそ山のように知っているんである。
白黒テレビがまだそんなに普及していなかった頃、NHKテレビの野球中継が始まるときに流れたマーチ「スポーツ・ショー行進曲」は、今でも使われているのだから、古関作品は息が長い名曲であるんである。
それよりなにより、甲子園の高校野球大会で流れるマーチ「栄光は君に輝く」なんかは、世代を問わず、知っている。1948(昭和23)年作曲だから、これも息が長い。
オイラは、中学時代に古関裕而が作曲した歌謡曲をずいぶん覚えた。
戦時歌謡といわれる「愛国の花」とか「君の名は」「長崎の鐘」「あこがれの郵便馬車」「高原列車はゆく」といった戦後の古い曲やなどはナツメロ番組で覚えたし、「黒百合の歌」や「イヨマンテの夜」などは中学時代に聞いたラジオの歌謡曲ヒット番組で覚えた。
今でも鮮明に記憶に刻まれてのは、大学時代に音大にいっている友人が「古関裕而」という名を口にしたときの、何ともいえない敬愛の表情をした顔だ。
決して偉ぶらないところも、古関裕而の凄いところだったのではないか。
(城島明彦)
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