死去した宮城まり子の思い出――ヒット曲「ガード下の靴磨き」
日本初の肢体不自由児童養護施設「ねむの木学園」の設立から半世紀
宮城まり子が逝った(享年93)が、彼女が「ねむの木学園」 (掛川市にある肢体不自由児童のための養護施設)の運営者だということを知っている人はたくさんいるだろうが、元歌手・元女優だったことを知る人は少ないだろう。
彼女は、女優吉行和子の義姉にあたる。宮城まり子は、入籍していたかどうかは知らないが、故吉行淳之介(作家)と同居していたことでも知られる。
私がラジオから流れる彼女のヒット曲「毒消しゃいらんかね」とか「ガード下の靴磨き」を耳にしたのは小学3、4年の頃だった。昭和30年代の前半、西暦にすると1950年代後半だ。「毒消しゃいらんかね」より「ガード下の靴磨き」の方がヒットした。
終戦後、都会ではたくさんの戦災孤児がガード下で靴磨きをしていたので、その少年を歌ったもので、調べてみると、「ガード下の靴磨き」は1955(昭和30)年8月にビクターから発売されていたということなので、私が初めて聞いたのはその頃ということになる。
私は団塊世代の一つ上(昭和21年生まれ)だが、団塊世代の人たちにも似たような体験があるのではないか。
「もはや戦後ではない」という有名な文言を「経済白書」が記したのは、「ガード下の靴磨き」発売の翌年(終戦から10年後)になるが、そんな言葉とは縁遠い暮らしをしていた孤児らが依然としていたのである。
映画の本編か予告編だったかよく覚えてはいないが、「ガード下の靴磨き」は少年時代に映画館でも聞いた記憶がある。
その後、何度も聞いたし、10年くらい前にはCDに収録されているものをくり返し聞き、聞くたびに少年時代の記憶がよみがえってきた。
この曲を聞くたびに、太平洋戦争に従軍して手足が不自由になった白装束姿の傷痍(しょうい)軍人が、駅前や公園の入り口などでアコーディオンなどを弾きながら募金(物乞い)をしている姿と重なった。
傷痍軍人のそのような姿は、私の出身地の三重県四日市市では、小学校(中部西小学校)や中学校(中部中学校)への通学路だった近鉄四日市駅前とか諏訪公園あたりでよく見かけた。
駅前通りでは、傷痍軍人と並んで、ぼろ布を全身にかぶって座っている、ハンセン氏病と思われる老婆の姿もあった。
大学入学後の東京では、昭和40(1965)年代まで渋谷駅前のハチ公像のそばでも、繰り返し目撃している。
宮城まり子が日本初の「ねむの木学園」を設立したのは、昭和43(1968)年だった。その頃、暇をもてあましたノー天気な大学生たちはゲバ棒を振り回したり火炎瓶を投げたりしていたが、私はそういう連中に向かって「貴様ら、10年後、20年後も今の思想を貫けるのか」と毒づいていた。
それから半世紀が過ぎた。その間、少しもぶれることなく、障害者教育に命を捧げ続けてきた彼女の半生は、月並みな表現だが、誰にも真似のできることではない。ご冥福をお祈りします。
(城島明彦)
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