短編小説『春の日の花と輝く ~わが初恋は、ラベンダーピンクに揺れて~』
昭和30年代の終わり頃のわが母校「三重県立四日市高校」にセピア色の郷愁と愛を込めて
世のなかには、「不思議なめぐりあわせ」というものがあります。
わたくしの場合、親友が交通事故死し、形見としてもらったアンティークな英国製の机との出合いがそれでした。
かなり痛んでいたので、修理に出したところ、引き出しの奥が二枚張りになっていて、そこに挟んであった分厚い封筒が見つかったのです。
親友の日記かもしれないと思いながら封を切りましたが、なかに折り畳まれて入っていた原稿用紙の筆跡は親友のものではありませんでした。
親友の手に移る前の所有者が書き残したらしい。そう察しがつきました。
いつ書かれたのはよくわかりませんが、『春の日の花と輝く ~わが初恋は、ラベンダーピンクに揺れて~』という題名から察して、短編小説のような内容です。
登場人物を調べてみましたが、仮名のようで、壁に突き当たりました。
捨てるのも忍びなく、全文を公開して心当たりの方からの連絡を待つことにし、お渡ししたいと考るに至ったのです。
その短編小説は、次のような内容です。
この拙文を、今は亡き淡路美海(あわじ みう)さんに捧げます。
私、北原由紀の運命を変える電話がかかってきたのは三月下旬、土曜の夜のことでした。
「『文藝クラブ』の編集長をしている栗田と申します。あなたが応募された小説『初恋――ラベンダーピンクに揺れて』が、第七十二回の『文藝クラブ新人賞』に決定しましたので、お知らせします。おめでとうございます」
初めて書いて応募する小説ということもあり、当初は二次選考に残れたらそれで十分と思っていたのですが、最終候補5作に残ったという通知を受け取った時点で、ここまで来たら当選したいという欲が出て、次第に神に祈るような気持ちが強くなっていましたので、電話を切ると涙がにじんできました。
その涙は大きな粒となって、何度も読み返していた夕刊の上にこぼれ落ちました。
紙面を見なくても、その見出しを私が忘れるはずがありません。
〈イタリア在住のオペラ歌手 淡路美海さん(29)、白血病で死去〉
何という運命のいたずらなのでしょう。
私に小説を書くように勧め、人を恋する歓びと切なさ、そして苦しさを教えてくださった方が、私が作家としてデビューすることを知らずに逝ってしまわれるなんて……。
――あれは、十二年前の秋。私が高校一年生で、美海さんが二年生のときのことでした。
指でめくりもしないのに、読んでいたスタンダールの『パルムの僧院』の本のページが、勝手にペラペラとめくれました。
誰かが窓を一つ、開け放ったようです。
初秋の心地よい微風に乗って、きれいな歌声が放課後の図書室に流れ込んできました。
♪春の日の 花と輝く
麗(うるわ)しき姿の いつしかに
あせて移ろう 世の冬は来るとも
わが心は 変わる日なく
私の大好きな、アイルランド民謡「春の日の花と輝く」でした。
♪愛はなお みどり色濃く
わが胸に 生くべし
歌声の主が誰なのかは、考えるまでもありません。
清らかに澄んだ美しいソプラノで歌える生徒は、この聖ジョバンニ女学院にはたった一人しかいません。
淡路美海さんです。
百七十センチの長身で、ハーフのように彫りが深く、気品のある顔立ち。
ボーイッシュなショートヘア。
それだけでも人目をひくのに、誰もがうっとりとする美声です。それも、ただの美声ではないのです。
礼拝堂で美海さんの歌う賛美歌を聞いて、どれだけ多くの在校生や卒業生が涙をこぼしたことでしょう。
美海さんの歌声には、人の心の穢(けが)れを洗い清めるような気高い響きがありました。
天は二物も三物も与え給うたのです。
噂では、美海さんは、宝塚歌劇団を一番で受かったのに、大学教授をしているお父さまが反対されたために、入学を断念し、この聖ジョバンニ女学院に入学したとのことです。
美海さんは、お父さまの言いつけを守って、来春、音大の声楽科に進学する予定で、毎週末には上京してその音大の先生に個人レッスンを受けているということでした。
私がいる図書室は三階にあり、美海さんが歌っている音楽室は隣接する校舎の二階の角にあったのですが、そこの窓も開いていたので手に取るように歌声が聞こえてきたのです。
周囲を見渡すと、勉強の手を休めて、美海さんの歌声に聞き入っている生徒がいます。
窓から身を乗り出すようにして、音楽室の方をうっとりと眺めている生徒もいます。その子が窓を開けたに違いありません。
私は本を閉じて、そっと目をつむり、美海さんの憂いを帯びた大きな瞳を思い浮かべながら、耳を澄ませました。
♪若き日の頬は 清らに
患(わずら)いの 影なく
わが心は 変わる日なく
御身(おんみ)をば 慕いて
心にしみいるような美海さんの美しい歌声は、私を切なくさせ、胸の鼓動を高鳴らせました。
美海さんは、一か月後に迫った学院祭の一環として開催される「音楽祭」で独唱する曲を練習しているのです。
美海さんが入学してきたときは、学校中が大騒ぎになったそうです。
通学路で美海さんを見て、声をかけたり、ラブレターを手渡したりする他校の男子生徒はその頃も今もたくさんいると聞いていますが、彼女の心を動かした相手が現れたという話は一度も耳にしたことはありません。
映画会社や有名な芸能プロダクションが何社も声をかけたらしいですが、すべて退けられということです。
そうしたエピソードの数々が、美海さんの神秘性をさらに深めました。
美海さんは、名前が示すように夏生まれで、そのとき十七歳でした。
夏の陽光のようにまぶしく輝く美海さんに憧れている下級生や上級生は、数えきれないほどいました。
私も、そのなかの一人でした。
父の急な転勤で、一年生の二学期からこの学校に編入することになった私が、美海さんを知ったのは、初登校の日でした。
美海さんは、私の乗る三つ先の駅を利用していました。
ドアのそばに立っていた私は、電車がスピードを落として駅に入っていくときに、偶然、ホームにいる美海さんを見つけたのです。
一瞬、目があったように思いましたが、それは私の勝手な思い込みにすぎなかったのかもしれません。
同じ車両でしたが、美海さんが乗り込んだのは後方のドアからでしたから、間近に美海さんを見ることはできませんでした。
けれど、彼女がいるあたりだけが、ぽっと明るく輝いていました。
いま思うと、そのときすでに私は、美海さんに魅せられていたのかもしれません。
学校に着くと、朝礼があり、私は担任の先生の指示で、クラスの最後列に並びました。
学院長のお話に続いて、生徒会長が壇上に登りました。美海さんでした。
美海さんの声が抜きん出て美しいことは、そのとき知りました。
美海さんは、夏休みに開いた生徒会で話し合ったことを簡潔明瞭に報告しました。
私は、彼女の話し方に感心してしまいました。まったくといっていいほど無駄な言葉がなかったからです。
自分でいうのはいささか抵抗がありますが、良家の美しい子女が集まっていると評判の聖ジョバンニ女学院のなかでも、美海さんは特別な存在なのだと、そのとき感じました。
二年生が生徒会長を務めることや、生徒会長の条件は「人格高潔にして成績優秀」であることを、私に教えてくれたのは、隣の席の栗本さやかでした。
さやかから美海さんの話を聞かされて、ますます美海さんに関心をいだいてしまいましたが、通学時や校内ですれ違ったりすると、思わず目を伏せてしまう私でした。
美海さんには、どこか近寄りがたい気高さとまぶしい威圧感のようなものがあるのです。
人は、それを「オーラ」と呼ぶのかもしれません。
文化祭が終わると、クラス対抗の「全校読書コンクール」が行なわれます。
各クラスから代表者が二人選ばれ、それぞれが「共通課題」と「自由課題」の本を読んで、感想文を書くのです。
どういうわけか、私がクラス代表の一人に選ばれました。昼休みとか放課後に図書館にいることが多いので、本好きと思われたのかもしれません。
もう一人のクラス代表は、栗本さやかでした。
その日の午後、さやかは、数学の先生が教室の前のドアから入ってくるのと同時に、うしろのドアから飛び込んできて、息を切らせながら私に報告しました。
「職員室の前の廊下に全校の出場メンバーが張り出されたわよ」
「美海さんは?」
「もちろん、入っているわ。でも、彼女、作文はあまり得意じゃないみたい。一年のときは圏外だったらしい」
「圏外?」
「そう。六位までしか発表されないわけだから、美海さんはそれより下位だったということになるわけ」
「採点ミスだったかも」
美海さんは、私のなかでオール・マイティな存在になっていたのです。
その年の共通課題は、三島由紀夫の『金閣寺』でした。私もさやかも、中学三年の夏休みに読んでいたので、それほど難しいとは思いませんでした。
問題は、自由課題にどんな本を選ぶかです。私とさやかは相談して、同じ作家の違う作品を選びました。
作家は、オスカー・ワイルド。私が選んだのは戯曲『サロメ』で、さやかは童話『幸福な王子』でした。
オスカー・ワイルドは、イギリスではシェイクスピアと並ぶ二大作家ですが、日本での評価はイマイチなところに注目したのです。
『幸福な王子』は、子どもの頃に絵本とか童話で読んだ人が多く、よく知られています。
簡単にいうと、こんなストーリーです。
幸福な王子は、死んで像にされて初めて人々の暮らしの貧しさを知り、ツバメに頼んで、自分の装身具や金箔だけでなく、目のルビーまで彼らに施します。
その結果、王子は失明し、像そのものも崩壊してしまうというストーリーです。
さやかが選んだ『サロメ』は、あまり知られていません。王さまに舞いを所望された美しい女性サロメが、その褒美として自分の愛を受け入れない男性の首を求めたという恐ろしい話です。
担任の先生に伝えると、「うーん」とうなって、しばらく頭をかかえていましたが、
「まあ、いいでしょう。あなたたちの自主性を尊重しましょう」
と苦笑しながらOKを出してくれました。
読書コンクールは、共通課題・自由課題とも、「一位10点、二位7点、三位5点、四位3点、五位2点、六位1点」として評価されます。採点するのは国語の先生たちで、その合計点を全クラスで競うルールなのです。
クラス別の成績だけでなく、個人別のランキングも発表されます。
クラス代表は、十日間で二冊の本を読破し、コンクールの日にその本を持って図書室に集合し、そこで三時間以内に感想文を二つ書くのです。
クラス代表が選んだ自由課題が職員室の前に張り出されたというので、私とさやかは一緒に見にいきました。
人だかりができていて、よく見えないので背伸びをしようとしたら、誰かに肩を叩かれました。
ふりむくと、美海さんが微笑んでいました。
「北原さん、あなたは『サロメ』を選んだのね」
美海さんがどうして私のことを知っているのか不思議でしたが、声をかけられたことで舞い上がってしまい、私は、
「は、はい」
と、うわずった声をあげるのが精一杯でした。
こっちへ、というように美海さんは手招きすると、私にくるりと背を向け、大きなストライドで校庭の方へ歩いていきました。
私は、あわててあとを追いました。
美海さんは、校庭の端にあったベンチに腰をかけると、
「あなたは、そっち」
道路を挟んだ反対側のベンチに座るようにといいました。
私の心臓はドキドキし、膝がふるえていました。
「私も『サロメ』を選ぼうとしたのよ。いえ、一度は選んだの。でも、担任の先生から、一年の北原由紀さんと同じだから変えるようにとアドバイスされたの」
すみませんでした、と私は思わず頭を下げ、こう付け加えていました。
「まだ間に合うようでしたら、別の本に変えます」、
「文句がいいたくてここまで来てもらったわけじゃないのよ。どうして『サロメ』を選んだのか、その理由を知りたかったの」
美海さんは立ち上がり、私の隣に移ってきました。
私は、どきどきしながら口を開きました。
「『幸福な王子』に関心があって、作者のオスカー・ワイルドを調べていて『サロメ』という戯曲の存在を知ったのです。一緒にやる栗本さやかと相談して決めたのですが、童話と官能的な戯曲とでは落差が激しすぎるから、かえって面白いのではないかと思って選んだのです」
「そこまで考えたなんて、すごいじゃない。優勝できるチャンスだから、がんばるのよ」
そういって、美海さんは私の肩を軽く叩きました。
そのとき私は、実際にはありえないことなのですが、モスグリーンのブレザーを通して美海さんの手のぬくもりを感じたように思いました。
「そういえば、あなた、いつも私と同じ車両に乗っているわね」
「はい」
「明日から私のところに移動してこない?」
「そんなことしていいのですか」
「いいも悪いもないでしょう。面白い子ね。明日から、そうしなさいね」
私が「はい」といった直後に始業を告げるチャイムが流れ、美海さんは二年生の校舎の方へ去っていきました。
背筋をピンと伸ばして歩く美海さんのうしろ姿は、とても美しく、私は美海さんの姿が校舎の角を曲がるまでずっと見つめていました。
教室に戻ると、クラスメイトが私を取り囲んできました。
「いいわね、美海さんに声かけられて」
「どんな話をしたの?」
などと、口々にうらやましそうにいうので、私はうっとうしくなり、つい嘘をついてしまいました。
「私は知らなかったのだけれど、美海さんの家とうちは遠い親戚にあたるらしいの」
場が一瞬、シンと静まり返った後、
「えっ、うそーっ!? ほんと?」
という声がいっせいにあがりました。
明日から美海さんと同じ車両に乗ることになったと話すと、ブーイングが起きました。
親戚だという嘘の効果はてきめんでした。
私が美海さんと一緒にいても、誰ひとりとして不思議に思わなくなったのですから――。
けれど、それまでにはなかった厄介な問題も起きてきました。
美海さんに会わせてほしいとか、手紙を渡してほしいなどと頼んでくる人が後を絶たなくなったのです。
最初のうちは適当にあしらっていましたが、その数が一向に減らないので、また私は嘘をつきました。
「中継するのをやめるようにと美海さんにきつくいわれたの」
美海さんに嫌われたくないと思ったのか、以後、私に頼んでくる人はいなくなりました。
数日後のことでした。通学電車のなかで、美海さんが私にいうのです。
「おめでとう。あなたが個人部門の優勝者よ。私は、またダメだったわ」
読書コンクールの成績が発表される当日の朝のことだったので、私は驚いてしまいました。
駅から学校へ向かう道々、美海さんから聞いた話では、学院長は美海さんのお父さまの教え子だそうで、そういう情報を早めに教えてくれたということでした。
優勝したことを私はさやかには黙っていました。そうとは知らない彼女は、職員室の前に貼りだされるとすぐに飛んでいき、Vサインしながら戻ってきて、クラスメイトに報告しました。
「由紀が優勝で、私は四位! このクラスが総合優勝よ」
わあっという歓声があがり、「おめでとう」「やったね」という声が私を包み込みました。
私は、転校生だったことで、胸のどこかに異邦人のような感覚をクラスメイトに対していだいていたのですが、そのとき初めてみんなに溶け込めたと思いました。
私の感想文は、学校新聞の冬休み号に掲載され、全国紙の地域版にも紹介されました。
その新聞には、学院長の談話と「この人には文学的才能が感じられ、将来が楽しみ」という生徒会長の美海さんのコメントも添えられていました。
私は、美海さんと一緒に記事になったことがうれしくて、うきうきした気分になりました。
しかもその日は、美海さんと帰りの電車が一緒でした。
「あなたには文才があるわ。読ませる文章が書けるから、作家をめざしたら」
そんなことをいわれたことも考えたこともなかったので、私は驚きました。
「あなたなら、絶対、作家になれる。いい小説をいっぱい読んで、いい音楽をいっぱい聞いて、それから、いいお芝居をいっぱい見て、感性を磨くのよ」
「はい」
「いいわね、約束よ」
美海さんは、右手の小指を突き出しました。
私は、細くて長くて白い美海さんの小指に、私の小指を絡ませました。
「指きり げんまん 嘘ついたら 針千本 飲~ます!」
子どものようにはしゃぎながら、私と美海さんは指切りをしました。
指をほどきながら、美海さんが尋ねました。
「お芝居に興味ある?」
「ええ。でも、まだ一度も生で見たことはありません」
「それなら、ちょうどよかったわ。小劇団に属している私の知り合いが、東京で『サロメ』をやるの。関心ある?」
「はい」
「じゃあ、これ、あげる。私は別の予定が入って行けなくなったの」
チケットを渡されました。一万円もするS席のチケットでした。
「こんな高いものをいただいてもいいんですか」
「東京までの交通費がかかるけど、それは自分で払ってね」
私の住んでいる町から東京までは新幹線で一時間近くかかりますが、そんなことも交通費のことも問題ではありませんでした。
この一件で、私は、美海さんが前々から『サロメ』に並々ならぬ関心を持っていたことを知り、感想文に『サロメ』を選んだことを後悔しました。
「ごめんなさい」
私が頭を下げると、美海さんは私の謝罪の意味がわからず、小首をかしげました。
そのしぐさをとても美しいと思いながら、私が事情を詳しく話すと、
「気にしない、気にしない」
美海さんは微笑んで、幼児でもあやすように私の頭を何回か撫でました。
胸がつまって私が涙を流すと、美海さんはハンカチで私の涙をぬぐってくれました。
公演は十日後の土曜日でした。
私は新幹線に乗って上京し、「劇団ミモザ」のある六本木に向かいました。
開場まで三十分以上あったので、劇団の入っているビルの向かいにあった小さなカフェで時間をつぶすことにしました。
窓辺の席でミルクティーを飲みながらチケットを眺めていると、隣の席にいた若い男性が、チケットを覗き込みました。
髪の毛がボサボサで、にきびだらけの顔をし、目が異様に血走っていました。
不気味に思って、視線を合わせないようにしていると、その人は、
「ちょっと失礼」
といって、私の手からチケットをさっと奪い取りました。
そして、座席の番号を確かめるように指先でなぞりながら声に出して読むと、
「北原由紀さんだね」
と尋ねました。
いきなり名前をいわれて、とまどっている私に、その人は妙なことをいいました。
「これは、ぼくが淡路美海に売りつけたチケットだ」
突然、美海さんの名前が出てきたので、私がぽかんとしていると、その人は笑顔を浮かべました。
その笑顔が善良そうに思えたので、私は警戒心を少し解きました。
「ぼくは、中二まで君が住んでいる街にいたんだよ。美海ちゃんの家のハス向かいに住んでいた。幼なじみってわけだ」
事情がわかって私はほっとし、その人の自己紹介に耳を傾けました。
「ぼくは、劇団ミモザで演出助手をしている佐伯宇宙といいます。年齢は二十歳で大学生だけど、芝居に夢中になって休学中。美海ちゃんから連絡があって、君がきたら案内してあげてと頼まれている」
宇宙さんは、私がおなかをすかしているように見えたのか、スパゲティをごちそうしてくれました。
「君は文学少女なんだってね。大学は文学部に進むんだろう?」
「そのつもりでいます」
「東京の大学へ入ったら、うちの劇団へアルバイトしにおいでよ。小説家になりたいなら、いっぱい苦労した方がいいから」
肝心の「サロメ」のお芝居の方は、前衛的すぎて、私には今一つピンときませんでした。
宇宙さんは優しい人で、芝居が終わった後、都内を案内してあげるといってくれましたが、疲れていたので、そのまま帰りました。
翌朝、美海さんにお礼をいおうと思って、いつもの車両に乗ったのですが、美海さんはホームにいませんでした。
そういうことはそれまでなかったので、気になりました。
その日、美海さんは学校を休みました。
次の日も、その次の日も休みでした。
心配になり、昼休みに、美海さんと同じクラスにお姉さんがいる同級生に頼んで、様子を聞いてきてもらいました。
「美海さんは、高熱が出て休んでいるようよ」
と教えられた私は、学校の帰りに美海さんの家へお見舞いにいきました。
お母さまが出てこられ、美海さんが眠っていることを告げられましたが、
「お目覚めになるまで、待たせてください」
とお願いしたら、二階の美海さんの部屋へ案内されました。
部屋に入ると、さわやかな匂いがしました。
窓辺の鉢植えに咲いている、季節はずれのラベンダーピンクの花が放つ香りでした。
初めて見る美海さんの部屋は、ダークグリーンをベースにしたシックな色調でまとまられていて、まるで深い森の奥にいるかのような落ち着いた感じがしました。
グランドピアノのそばの本箱には、音楽関係のたくさんの原書が並んでいました。
美海さんの英語の得意なことは全校的に有名でしたが、ドイツ語、フランス語、それにイタリア語の本まで読んでいることを知って尊敬する気持ちがいっそう強くなりました。
私は、ベッドサイドに用意された椅子に座って、美海さんが目を覚ますのを待っていました。
ところが、いつのまにか、うつらうつらしてしまいました。
はっと目をあけると、すぐ近くに半身を起こした美海さんの微笑む顔がありました。
「心配してくれて、ありがとう。おかげさまで、もう峠は越したみたい」
熱のせいか、美海さんの目は潤んでいて、電車のなかや学校で私を見る目の感じとは、ちょっと違っていました。
私は、どきどきしながら、美海さんを見つめ返しました。
部屋は静かで、時計が秒を刻む音だけが響いていました。
沈黙が苦しくて、私が東京でのことを話そうとすると、美海さんが唇に右手の人差し指を立てました。
その手がゆっくりと伸びてきて、私の髪を優しく撫でました。
私が体をこわばらせ、されるままになっていると、美海さんの顔がゆっくりと近づいてきました。
私は目をつむり、どきどきしながらその瞬間を待ちました。
私の唇に美海さんの柔らかい唇が触れました。
私にとって、それが初めてのくちづけでした。
時間にすると、ほんの十秒か十五秒くらいだったはずですが、私には十分にも二十分にも思えました。
そっと唇を重ねただけのキスでしたが、そうしている間、私の全身は小刻みに震え続けていました。
美海さんの唇が離れると、恥ずかしさがこみ上げてきて、
「これ、あなたにあげる」
という美海さんの声がするまで、私はずっと目をつむったままでした。
それから先、私が美海さんとどんな会話をしたのか、どう行動したのか、まったく覚えていません。
覚えているのは、帰り際に美海さんにいわれた言葉だけです。
「これ、私の歌。録音スタジオで働いている宇宙君のお友だちがつくってくれたの」
そういって、美海さんは、ベッド脇の棚に並んでいたCDを私にプレゼントしてくれたのです。
私は、美海さんの写真が入ったCDを、天にも登る気持ちで眺めてから、ハンカチにくるみ、そっとバッグにしまいました。
その日から私は、そのCDをBGMとして流しながら勉強するようになりました。
美海さんは、「菩提樹」「故郷を離れる歌」「ローレライ」の三曲をドイツ語で歌い、「サンタルチア」と「帰れ、ソレントへ」をイタリア語で、そして「庭の千草」「オールド・ブラック・ジョー」を英語で歌っていました。
私の大好きな「春の日の花と輝く」は、ラストにおさめられ、英語と日本語で歌われていました。
美海さんの美しい歌声を聞いていると、くちづけをした日のことが思いだされ、私の心は揺れました。
美海さんの唇が私の唇に触れることは、あの日以来、一度もなかったからです。
(あれは、たわむれだったのかもしれない)
そう思うにつけ、考えてはいけないことを考えるようになりました。
(また、美海さんが病気になってほしい。そうすれば……)
それが現実のものになったのは、冬休みが近づいたある日のことでした。
一緒に帰る電車のなかで、美海さんが「気持ちが悪くなった」といいだしたのです。
途中下車して駅のベンチで休むことをすすめると、美海さんは聞き入れました。
けれど、そんな場所に長く座っていては人目につくので、改札口を出て少し先にあるカフェにいきました。
「ごめんなさいね。迷惑をかけて」
美海さんはすまなそうにいって、鞄のなかから取り出した薬を服用しました。
三十分ぐらいたつと効き目があらわれ、美海さんの頬に血の気が戻りました。
ところが、立ち上がったとたん、美海さんは意識を失って、私の胸に倒れ込んできました。
美海さんは、救急車で病院に運ばれました。
幸いなことに意識はすぐに戻りましたが、原因不明ということで、しばらく入院して精密検査を受けることになりました。
(あんなことを願ったからだわ)
私は自責の念に駆られ、美海さんの目をまともに見ることができませんでした。
美海さんのことが心配で心配で、私は、勉強に身が入らなくなってしまいました。
学校が終わると、その足で病室に駆けつけるのが私の日課になったのは自然な流れでした。
治療薬の影響でしょうか、美海さんは眠っていることが多くなり、私はベッドのそばの椅子に座って教科書やノートを広げながら、美海さんの目覚めを待ちました。
美海さんのそばにいると気持ちが落ち着きましたが、勉強をする気にはなれませんでした。
美海さんの気高く、清く、美しい寝顔をじっと眺めていると、胸苦しくなってきました。
私は、その苦しさに、とうとうある晩、負けてしまいました。眠っている美海さんの唇を奪ってしまったのです。
一度そうすると歯止めがきかなくなり、美海さんが気づかないのをいいことに、私は、幾度も幾度も、美海さんの唇に自分の唇をそっと重ねました。
そうしていると、心の奥で、また悪魔の声が響きました。
(いつまでも、眠ったままでいてほしい)
けれど、美海さんは病院を退院しました。
病気が癒えたのではありません。東京の大きな病院に転院したのです。
お父さまの義兄に当たる方が経営する病院ということでした。
(美海さんが直らなかったら、どうしよう。私が、あんなことを願ったから……)
またしても激しい自責の念が私を襲いました。
会えなくなって、どれだけ美海さんを慕っていたかを知りました。
美海さんからもらったCDを毎日聞いていたら、がまんが限界に達し、冬休みを利用して上京しました。
私は、美海さんの驚く顔が見たくて、事前に連絡しないで病室を訪ねました。
美海さんはとても驚き、
「遠いところを、よくきてくださったわね。ありがとう」
と笑顔で迎えてくれました。
一週間ぶりに会う美海さんは、以前より顔色もよく、元気を回復したように見えました。
「髪を三つ編みにしたいのだけど、手伝ってくれない?」
美海さんにいわれて、私の気持ちはうきうきしました。
美海さんはベッドの端に腰をかけ、私はベッドに上がって彼女の背後に回り、膝をついて髪を編みました。
美海さんは、自分の体調のことをずっと話していましたが、三分の二くらい編み上がったあたりで突然、話題を変えました。
「私、知っていたのよ」
意味がわからず、「えっ」と私が聞き返すと、
「私が眠っているとき――」
といって、美海さんは微笑しました。
眠っていた美海さんの唇を盗んだことをいわれていると気づいて、私は穴があったら入りたい心境になり、消え入りそうな声で詫びました。
「ごめんなさい。美海さんの寝顔があまりにきれいだったので……」
「謝らなくてもいいのよ。そうされることを私も望んでいたのだから」
意外な言葉に驚いて、私は美海さんを見ました。
美海さんは、潤んだ大きな瞳で私をじっと見返すと、ゆっくりと顔を近づけてきました。
私は目をつむり、美海さんの唇を待ちました。
唇が重なったとたん、私は体が揺れているような感覚に襲われ、美海さんの体にしがみついていました。
「こわくないから」
といって美海さんは私の体を抱きしめ、上着を脱がせました。
そして、ブラウスのボタンをゆっくりとはずし、ブラジャーの上から左右の乳房に触れました。
気がつくと、私も美海さんも全裸になっていました。
私たちは抱き合って何度も長いキスをし、ちょっぴりはしゃぎながら、互いの乳房を手で愛撫し合いました。
「あなたのおっぱいは、豊かで弾力があるわね」
と私にいう美海さんの乳房は、西洋絵画の妖精のようなとても美しい形をしていました。
大きくも小さくもなく、マシュマロのように柔らかで、私の手のひらにすっぽりと納まりました。
美海さんの細くて長い指が、私の胸からおなかへと動き、そして若草の丘へとすべっていって、秘密の花園にたどり着きました。
美海さんは、私の敏感なところに指先を押し当てて、繊細なトレモロを奏でました。
それだけで私の体はしびれてしまい、恥ずかしい声を押し殺すことができませんでした。
私も、教えられるままに、指や唇で美海さんを愛しました。
「こっちへ」
美海さんにいわれて、私たちは体勢を変えました。
向かい合ってベッドに座り、キスしながら、指で互いの花園を愛し合ったのです。
快感の波が全身を浸すのを感じながら、私は、
(このまま、永遠に時間が止まればいい)
と願い続けていました。
頭の奥では、図書室で聞いた美海さんの「春の日の花と輝く」のラストフレーズが、くりかえし、響いていました。
♪わが心の 変わる日なく
御身をば 慕いて
ひまわりの 日をば恋うごと
永遠(とわ)に 思わん
満ち足りた静けさが訪れると、美海さんは、
「ありがとう」
といって微笑みました。
きらきらと濡れて光っている美海さんの黒い瞳をじっと見つめていたら、なぜか涙があふれてきて、止まりませんでした。
その涙を美海さんは唇ですくい取ってくれました。
美海さんの病状は急速に快方へと向かい、一か月後には退院しました。
けれど、美海さんが再び聖ジョバンニ女学院へ戻ってくることはありませんでした。
美海さんは、イタリアへいってしまったのです。ミラノ音楽学校に留学したのです。
私がそのことを知ったのは、三学期末の試験の最中でした。美海さんから航空便が届いたのです。
お父さまがミラノにある大学に客員教授として招かれたのを機に、そうすることを決意したと書いてありましたが、事前に知らされていなかったこともあって、にわかには信じられませんでした。
私は、自転車に乗って美海さんの家までいってみました。
門は閉ざされ、人の気配がまったく感じられないことを知って、私の胸は悲しみで張り裂けそうになりました。
美海さんとは手紙のやりとりをしましたが、美海さんの勉学が忙しくなるにつれて、返事の来る回数が減っていきました。
そして、私が三年生になった春過ぎから、とうとう返事が来なくなってしまいました。
それでも私は、せっせと手紙を送り続けていました。文面に目を通してもらえるだけでうれしかったのです。
けれど、あるとき、ふとこんな考えにとらわれてしまいました。
(もしかしたら、迷惑なのかもしれない)
私は、手紙を出すのをやめたのです。
たとえ会えなくても、手紙がこなくても、美海さんを慕う私の気持ちに変わりはなく、イタリア語科のある東京の国立大学を受験しました。
けれど失敗し、関西にある私大の文学部に進むことになりました。
大学を終えた私は、東京に本社がある出版社に就職し、舞台演出家と結婚しました。佐伯宇宙です。
宇宙とは、就職後、観劇にいった帝国劇場のロビーで偶然再会したのが縁でした。
しかし、仕事柄、すれ違いが多く、一緒に暮らしている意味がなくなり、二年足らずで別れました。
美海さんの消息を知ったのは、その後でした。イタリアを中心にヨーロッパ各国でオペラ歌手としての実績を着々と積んでいるという短い記事を外電で知ったのです。
そして三年前の春、美海さんは、プッチーニの「蝶々夫人」を演じる新進のオペラ歌手として故郷に錦を飾りました。
私は、雑誌記者として、国際芸術劇場の楽屋へ美海さんを訪ねました。
美海さんは、咲き誇る大輪のバラのような艶(あで)やかな笑顔を浮かべて、私を迎えてくれました。
十年ぶりに見る美海さんは、まばゆく輝いていて、私はめまいを起こしそうでした。
「おひさしぶり。元気だった?」
艶やかさを増した美海さんの声は、私の胸をときめかせました。
取材陣がたくさん押しかけていたので、四十分しか会えなかったことが不満でした。
私も美海さんも、時間を気にしながら、少しでも多くのことを話そうとしてずいぶん早口になっていました。
別れ際に、美海さんは、私に釘を刺しました。
「小説、書くのよ」
小説家をめざしていながら、仕事の忙しさのせいにして書こうとしなかった私は、
「はい」
と小さな声で返事しました。
「約束よ」
美海さんは、小指を出しました。
私は、その指に自分の小指を絡ませました。
「指きり げんまん 嘘ついたら 針千本 飲~ます!」
絡んだ指を無邪気に振っていると、遠い日々の思い出が蘇ってきて、涙が頬を伝いました。
美海さんは、遠くを見るような目をして、呟くようにいいました。
「あの日のあなたの涙、忘れていないわ」
そして美海さんは、私の頭を胸に抱くようにして髪をやさしく撫で、
「小説、書くのよ。絶対に書くのよ。わたしのために書いて」
と付け加えました。
私は、涙をぬぐい、
「はい」
と大きな声で返事をして楽屋をあとにしました。
ウィーン歌劇団による「蝶々夫人」の日本公演は大成功を納め、蝶々さんを演じた美海さんの名前はあまねく知れわたりました。
それなのに、美海さんは帰る飛行機のなかで体調を崩し、イタリアに着くとそのまま病院に入院してしまいました。
白血病であることが判明したのは、そのときだったそうです。
うかつにも私は、そのことをずっと知りませんでした。
――そっと目をつむると、秋の始まりの頃に学校の図書室で耳にした美海さんの美しい歌声が、いまも聞えてきます。
♪春の日の 花と輝く
麗しき姿の いつしかに
あせて 移ろう
世の冬は 来るとも
私は、とめどなく涙を流しながら、いつしか耳の奥で響く美海さんの声に和して小さな声で「春の日の花と輝く」を口ずさんでいました。
♪わが心は 変わる日なく
御身をば 慕いて
愛はなお みどり色濃く
わが胸に 生くべし
(おわり)
〈付記〉 わが四日市高校時代の1学年上の美しい女性をイメージし、それと秋に行われていた合唱コンクールや読書コンクールを重ねて7、8年前に書いた短編小説であります。
(城島明彦)
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