ビートたけしも頭が上がらなかった昭和の芸人由利徹の「いい話」
北海道の地名「おしゃまんべ」と「いわない」について
何日か前に、従弟からいい話を聞いた。
20数年前の話だという。
大阪へ出張してシティホテルに泊まったときのこと。
風邪をひいていてかなり熱があったので、ルームサービスを頼んで夕食をとった後、それを食器類を部屋の外に出したとき、ドアが閉まってしまった。
普通ならその足でフロントへ行けばすむ話だが、困ったことに。従弟はそのとき、パンツとシャツだけ。
しばらく廊下をうろうろしてたが、怪しまれるといけないと思い、どこかの部屋の電話を借りてフロントに電話をして、開けてもらおうと考えた。
しかし、どの部屋に入室しているかはわからない。
次々とノックするのもはばかられ、どうしようかと思いながら廊下を歩いていくと、ある部屋のドアの奥からテレビの音声が聞こえてきた。
そこで、思い切ってそのドアをノックしたのである。
すると、なかから出てきたのは、1999年に亡くなった死んだ昭和のお笑い芸人由利徹(ゆりとおる)だった。
従弟が事情を話すと、由利徹は快く室内に招じ入れてくれ、そのおかげで電話でフロントに話をしてカギを開けてもらうことができた。
とても紳士で優しげな印象を受けたという。
由利徹は昭和初期からの芸人で、昭和31(1956)年には南利明、八波(はっぱ)むと志と「脱線トリオ」を組んで活躍し、映画やテレビにも出演していたから、ビートたけしも頭が上がらない存在だった。南は「ハヤシもあるでよ」のCMがよく知られている。八波は交通事故で死んだ。
由利徹のギャグで有名なのは「チンチロリンのカックン」と「おしゃまんべ」で、どことなく下ネタっぽい感じが受けた。「カックン超特急」という主演映画もある。
トリオ結成から3年後の昭和34(1959)年公開で、監督は新東宝の社長(大蔵貢)の弟近江敏郎(歌手としての方が有名)で、共演が高島忠夫、大空真弓、池内淳子、藤村有弘らだった。
当時、中学一年生だった私は、学校帰りに看板ポスターなどで目にした記憶がある。
おしゃまんべは、アイヌ語とされている北海道の地名「長万部」だが、そのまま読んでもどことなくおかしいのに、由利徹は股を開き、「おしゃ」で切ってから「まんべ」とやったので、観客がどっと笑った。のちのビートたけしの「コマネチ」につながるような動きだった。
もっと欲張るなら、「おしゃまんべ」だけでなく「女満別」(めまんべつ)も付け加えた方がよかったかもしれない。
その後、由利徹の晩年の芸でよく知られているのは、歌謡曲「花街の母」の歌をBGMにして裁縫をするおばさんのパントマイムだ。これも傑作だ。
今の時代は、ものが豊かなので、衣服が破れても繕って直してまた着るようなことはせず、棄ててしまうが、昭和の時代(1960年代の終わり/昭和44年頃まで)には、家で祖母や母親が繕い物をするのが当たり前で誰もが見知ったしぐさだったから、それを由利徹がおもしろおかしく演じると、どっと笑いをとった。
長万部が出たついでに、もう一つ、漫談のネタにされた北海道の地名に触れておこう。をネタにした芸があった、
ウクレレ漫談の牧伸二の師匠の牧野周一の漫談で使われた「岩内」だ。
こちらはアイヌ語とは関係のない地名で、牧野は国鉄の岩内線の駅名としてこれを使った。
車掌が駅名を、
「次は、いわない」
とアナウンスするので、客が、
「そんなこといわずに教えてくれ」
と頼んでも、「いわない」と繰り返すばかり、というギャグだったように記憶している。
岩内線の駅は、小沢ー国富ー幌似―前田―岩内で(のちに西前田駅が新設)、牧野周一は、車掌にこれらの駅名をアナウンスさせ、最後に「岩内」といったのではなかったか。
岩内線は、昭和38(1963)年に廃線となった。
その頃のギャグには「「いまゆうぞう」(今雄三)「いまいったろう」(今井太郎)「こんどうゆうぞう」(近藤雄三)のような名前にちなんだものもあった。
漫才の南都雄二も、「これ、何という字」とよく相方のミヤコ蝶々に聞くところから命名したとされている)。
(城島明彦)
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