« 「超大型台風だ。ビーチク、ビーチク」とテレビが煽りまくり、スーパーから食品が消えた | トップページ | マラソン開催地変更が暗示する、東京五輪ではなく、東京〝誤〟輪! »

2019/10/13

内容陳腐、意味不明、むやみに長いのありの「ほん怖20周年スペシャル」

祟(たた)る女は「長髪で白いワンピース」ってか――「スペシャル」という割には視聴者をなめたワンパターン

 

 超大型台風直撃で、NHKなどは台風情報一色。「命を守れ」と繰り返す中、フジテレビ系列は台風情報を文字枠にしながら、午後9時から2時間にわたって「ほん怖(ほんとに怖い話)20周年スペシャル」を放送した。

 

 私は、昔からこの手の番組が好きで、よく見てきたが、マンネリ化してきたので「欠かさず観る」ということはなくなっていた。

 ところが、番宣で「20周年スペシャル」などと盛んにやるし、〝史上最大級〟の大型台風襲撃で「終日、台風情報ばかり見続けてきた息抜きにはもってこい」と期待しながら観たが、おおまかな感想をいうと、

「新鮮味に欠ける」

「マンネリを脱しえなかった」

 

 ほん怖2019では、長短あわせて5話からなっていたが、主人公に迫ってくる死者の女の霊は、「髪が長く」「着物と見間違うような白いワンピースを着ている」。

 江戸時代の画家丸山応挙が描いた女の幽霊にに始まった女の幽霊の定番が、

 「うらめし気で恐ろしい目、やせ衰えた顔、ザンバラ髪、両手を体の前へだらりと垂らしている、足が泣く宙に浮いている……」

 となったのと、よく似た設定だ。

 

 ショートカットでカラフルな衣装、明るい顔をして出てきたら、お化けにならないのかもしれないが、いくら何でも、毎度毎度、顔を覆う長い髪、白い衣装は、工夫が足りない

 

 スケルトンに髪だけがこびりついている女

 肉が溶け、眼球がどろりと垂れ下がった遺骸が風に揺れている

 人の格好はしているが、半透明状になっている

 人か獣(けもの)かわからない得体のしれないものが迫ってくる

 ――といったように、見かけだけでもさまざまな恐怖の描き方がある。

 そういう工夫をしたうえで、さらにCGを駆使し、視聴者を

「すごい!」

 と思わせてこそ、20周年記念といえるのではないか。それなのに、CGなんて、どこに使っているの?

 やっていることといえば、チープ予算を言い訳にしてマンネリ化したチープ作品を並べ立ててお茶を濁しているのは情けない

 スポンサーに失礼ではないか

 

 このドラマでは、本編に限らず、まず「ほんとにあった怖い話」というのがインチキである。「こんなことがっ実際にあるくわけがない」という話ばかりだ。もし仮に本当にあった話なら、映像としての見せ方に難があり、嘘っぽく感じされる作り方になっている。視聴者を異次元の世界へとぐいぐい引き込む魅力に欠ける。露骨な言い方をするなら、演出が下手なのだ。

 

 

第1話は「赤い執着(主演は中条あゆみ)

 

 全身赤ずくめの女が主人公に迫ってくるという、ありえない話。

 炎に包まれ、そのなかで焼け焦げ、悶えている女の姿が、ふと見えるときがあるいうような設定にでもするなら、視聴者は「どういうことなのか」と興味を抱き、話の展開に期待するが、全身が赤っぽい女と聞いた時点で視聴者は、「赤鬼じゃあるまいし、そんな女が世の中にいるわけがない」とシラケてしまい、その時点で、この話はアウトだ。

 CMを入れて30分近いドラマに仕立てられていたが、無駄なシーンが多すぎ、間延びしている感を与える結果となった。

 

「赤い執着」は、両親が半年前に事故で他界、幼い妹と2人で古い団地に住んでおり、妹を育てるために昼はクリーニング屋、夜は居酒屋で懸命に働いている健気な女性という設定。

 何度か目撃後、部屋へ帰るエレベーターが動かなくなり、最上階で止まった後、廊下ににその女がいて追いかけてくる。

 こういうのもワンパターンである。

 しかし、実際に霊が本物の人間の姿をして追いかけてくるというのをも目撃した人はいない。スマホで写真にとれば済む話だ。

 写っているかいないか。写っていれば、その人物を特定することができる。写っていなければ、目の錯覚だったのかということになる。人魂のようなものが写っていれば、そのときこそ「ほん怖」の世界だ。

 

 ストーリーでは、居酒屋で神主の家に生まれたという若い客からもらったお守りで、難を逃れることができたという結末だが、その例に腕を掴まれたとき、手に握りしめていたお守りが赤く焼け焦げていたところを見せる。

 

 世間でよくいわれるのは、「夢の中で出てきた霊に腕を握られ、朝、目を覚ますとその個所に指の跡がついていた」という話だが、医学的に診て、それが人の手であるかどうかまで確かめた人などいない。

悪夢を見て、自分で自分の手を握っていることだってあるのだ。そういう場合でも、指の跡がはっきりわかるほど握るというケースは、まずない。

 要するに、「ほん怖い」は、話を面白くするために誇張を通り越し、でたらめなウソを描いたのだ。「ほんとうにあった」というタイトルがついていなければ、何を描いても許されるが、「ほんとうにあった」を売り物にする以上、こういうインチキは視聴者を愚弄しているとみなされる。

 

 歴史を繙くと、 赤という色は、古代中国や日本では、そもそも「悪魔払いの色」である。痘瘡(天然痘)から身を守るために、赤い色の玩具(ダルマや赤べこのたぐい)やお守りを部屋のなかに置いたり、張ったりした。赤い装束を身にまとい、剣を手に持った鐘馗(しょうき)も、守り神として人形を飾った。 治天皇や父の孝明天皇は痘瘡で死んだが、そのときも部屋中を真っ赤にした。布団も枕も壁紙も赤くしただけでなく、女官らや医師まで着る服は赤にした。 

 そのころまだ子どもだった明治天皇は、おびえて、毎晩、鐘馗が現れ、自分を差しに来るといったことが、当時の日記に記されている。

 こういう歴史的な事実を知っていたら、「赤い服を着た女」が呪ってくるという発想はまず浮かばない。

 悪霊を退散させる服なのだ、赤は!

 つまり、霊に狙われた者が赤ずくしの格好をして魔除け対策とするのならわかるが、「ほん怖」の設定はその逆。となると、話がまるでアベコベ。「ありない、笑止」ということになるわけだ。 

 どうしても赤が使いたいのであれば、「火炎に包まれた女」(たとえば焼身自殺した女)のような設定にすべきだろう。

 

 

第2話は「誰にも言えない(主演は鈴木保奈美)

 

 学校の怪談、教室の怪談という話になっているが、極端に短く、中途半端で意味不明な話。フジテレビの敏腕プロヂューサーで鳴らした役員の昔の女(鈴木保奈美)を出演させるためにつくったのか。

 自分はこの小学校の卒業生と語る女教師がプリントを配ると、風もないのに舞い上がる。「この教室では、自分が子供のころから、こういう不思議なことがよく怒った教室」と話すところから始まり、期待させたが、あとの展開がデタラメ。

 

 掃除道具を収納する教室の後ろのドアが突然開いて、掃除道具が飛び出すなどの出来事が何度か描かれ、最後に窓の外を生首のようなものがさかさまになって落下していくシーンでオシマイ。なんのこっちゃ! 近代的な学校でも、こういうことが起きているといいたいのか。 

 あまりの短さに「マンネリを打破しようとして、今回は極端に短い話をいっぱい集めたのか」と好意的な考え方もしてみたが、極端に短いのはこれのみだった。

 何がいいたいのか、何が怖いのか、よくわからない作品だった。となると、「迷走」という評価になる。

 

 

第3話は「肩の女」(主演は佐々木蔵之介)

 

 肩が凝る、肩が重いのは、悪霊が乗っているからだという話だが、上半身、下半身が別々に現れるという発想は斬新だ。

 

 昔、ソニーに勤めていた頃、

 私が「最近、肩が凝る」というと、霊を信じているちょっと変わった女子社員が、

 「霊が乗っている。除霊した方がいいわよ」

 といって、「手かざし」(頭の上に彼女が手を置き、念を送ること)してくれたことがある。

 そんなことで治れば何の苦労もないが、ものは試しとやってもらったことがある。

 第3話はそれに似たような話だ。中華料理店を営む主人公の肩が重くなる。鏡を見ると、髪の毛の長い女の上半身がしがみつくようにして肩に乗っている。

 この女の服装は、白いワンピースではなく、下半身は短いスカートをはいた腰から下なので斬新な感じはしたが、話そのものが荒唐無形でバカバカしい。荒唐無稽でぶっ飛んでいれば面白いが、中途半端なのはダメだ。

 

 主人公が営む店には客が寄り付かず、閑古鳥が鳴いているが、その霊がわるさをしているせいだと思い、パソコンで除霊方法を調べ、自分で塩など調合する。そして、それを肩の霊に投げつけると、途端に店が繁盛しだした。だが、店主の肩を離れた霊は消滅したのではなく、店員の肩に移ったと知って、そのままにしておくという展開だ。

 この話も、なんのこっちゃという感想になる。

 

「ほんこわ」でやるべき話

 

 第3話は「肩の女」を見た視聴者は、上半身と下半身がスパッときれいにに分割されているのは何なのかということに興味も持つだろうが、ドラマではそちらは追及していないが、そちらの方こそ面白いのではないか。

 私が高校生だった夏、ラジオの番組で、実話に基づくという怪談の朗読があった。

 細かい内容は忘れたが、踏切のところで列車(当時は汽車)にひかれた男の首のない死体が、立ち上がって、こちらへ2、3歩、歩いてきたのだという。爬虫類や魚が頭を切断されても動くのはごく普通だが、人がそうなるというのは驚きであり恐ろしくもある。

 

 踏み切りで死んだ人は、自殺ではなく、誤って引かれたとすれば、生きることへの執念を感じさせるし、自殺した人だとすれば誰かに祟ってやろうという死後への執念ともとれ、すさまじい話だと思い、その朗読を聞いてから50年以上たった今も、記憶に強く刻まれている。

 「ほんこわ」に期待するのは、そういう話だ。

 

 こんな話もある。過日亡くなった私の友人の映画監督(ゴジラ映画も撮ったことがある)から直接聞いた話によると、飼い猫がベランダから隣のベランダへ侵入し、そこの雌の飼い猫をはらませ、その後、その雌に遭いに行ったところ、飼い主のババアに捕まり、マンションの高層階から地面に放り落とされたということだった。

 気づいた監督が地面に行き、猫のそばに近寄って声をかけると、動かなかった猫が一声「ギャーッ」と泣き叫んで息絶えたそうである。

 それ以上のことは云わなかったし、私も聞かなかったし、その後、その監督があの世へ行ってしまったので詳細については確かめようがないが、その後、そのババアの周辺でどんなことが起こったかを知りたいと思うことがよくある。

「ほんこわ」で取り上げてほしいのは、こういうリアリティが感じられながら、どこか不気味で恐ろし気な話である。

 

 

第4話は「机と海」(主演は松本穂香)

 題名が奇抜で、興味を引いた。一人暮らしを始めた若い女が、アンティークな机を買った。その引き出しが夜中にゴー、ゴーという奇妙な音を出す。髪の長い女の霊が出てきて、足首を掴まれる。翌朝見ると、くっきりと指の跡がついていた。

 「午前3時に九十九里浜で燃やすといい」といわれ、車に乗せてそうするという話で、話しかけられても振り向くな、その声の主と視線を合わすな、という制約付き。話の展開が大げさすぎて、訳が分からず、リアリティに欠けるという印象。

 

 アンティークには、いつの時代に、どこの誰が使い、どういう理由で誰から誰の手に渡り、どういうエピソードがあったかという、知られざる幾多の物語を秘めている。

 そういう素材を選んだのだから、もっと恐ろし気な話はいくらでもあるだろうし、いくらでも作れる。そう考えると、本作品は、あまりにもチャチイといわざるを得ない。

 

 

第5話は「汲怨(きゅうえん)のまなざし」(主演は佐藤健)

 

「汲」を「きゅう」と読ませるのは音読で、訓読では「く(む)」だ、

 昭和世代の私の時代では、汲むといえば「井戸水」を連想したり、昔のポットン便所の「汲み取り口」を連想したりするが、題名に「汲」という字を使って「汲怨」としたのは斬新で、「どういう話なのか」と興味をいだかせる点では成功している。

 しかし、よく考えると、「怨みを汲み取る」とはどういう意味なのかとの疑問も浮かぶが、今の子たちは「ポットン便所って何」という世代なのかもしれない。

 

 余計な話だが、私が学んだ地方都市の三重県四日市市立の中部中学という学校では、昭和30年代前半に、外に簡易式浄化槽があったがすでに水洗便所だったし、県立四日市高校でも3年時の校舎は水洗便所だった。かなり進んでいたのだ。

 小学5年頃から学校帰りに立ち寄る四日市駅前のジャスコ(現イオン発祥の地の店)の水洗便所で用をすまし、ときには近鉄百貨店の水洗便所を使っていた。

 しかし、そういうきれいな〝ウンコ環境〟になじんでしまったのがよくなかった。家ではずっとポットン便所(大小別々)だし、友だちのうちも同様、親戚の家も同じだったが、そういうポットン系へは行くのが次第に行くのが嫌になり、家では夜中などは外に出て用を足した。大の方はさすがに無理だったが、小の方は隣近所に見つからないように、こっそりと家の前の溝や近くの畑にしていた。

 大学進学で上京後も、友人が住んでいた西武新宿線沿線の下宿に遊びに行くと、ポットン便所で驚いたが、東京でも東京五輪が開かれることになり、ポットン便所では世界にみっともないというので、山手線の内側だけを水洗にしたという話を大学入学後に知った。

 

 余計な話が長くなったが、ここから本題に入る。

 幼稚園児がいる夫が主人公。子どもがバスに乗る停留所に女の霊が現れたり、身近に出現するようになるが、その女のことが記憶には刻まれておらず、正体がわからずにいた。

 だが実は昔の知り合いで、女に片思いされており、女が死後、ストーカーのように現れたという、これまた「ありそうでない、なさげ」な、あるいは「なさそうで、ありげ」なインパクトに欠ける話で、見終わった後、「ああ、そうですか」と思うレベルの作品。

 視聴率稼ぎの目的で若い女性に人気がある佐藤武を起用したことで、必要事情に話を長引かせたと勘ぐらせる点が失敗だ。 

 

 

誰を主な視聴者と設定しているのか

 

 全体の構成では、話の幕間に稲垣吾郎が進行役となって、幼児を相手に「こわかったね」と話すのが定番となっており、このスペシャルでもそうしていたが、ちょっと待て!

 放送時間は午後9時~11時だ。この時間帯は、番組に出ている幼児は既にネンネしているぞ。

 なのに、そんなガキンチョをひっぱりだして、「怖い、怖かった」といわせてどうする!

 観ているのは大人だけじゃないのか

 おまけに、ドラマの話に信ぴょう性を持たせるために、霊能家の下(しも)ヨシ子に「これこれこういうわけで、霊が憑依したんだよ」と説明させている。ドラマの後の説明など不要だ。ドラマのなかで、一言二言、誰かのセリフで語らせればすむ話じゃないか

 

 ――というのが、私の感想と意見。あれこれと毒づき、何のかんのいいながら、それでもしっかり見ているのだから困ったものだよね、私も。

(城島明彦)

« 「超大型台風だ。ビーチク、ビーチク」とテレビが煽りまくり、スーパーから食品が消えた | トップページ | マラソン開催地変更が暗示する、東京五輪ではなく、東京〝誤〟輪! »