宝塚市長に問いたい! 土俵の女人禁制に文句をいうなら、オカマは宝塚に入学できるのか?
神社の「巫女」はどうだ? 名称も差別ではないのか?
女の宝塚市長が土俵上で挨拶せてもらえなかったのは「男女差別」といったニュースが流れたとき、私が思ったのは、
「なら、宝塚に男も入学を許可されるのか」
ということだった。
いや、少し譲って、「宝塚音楽学校は、性同一障害の男を生徒として受け容れるのか」と問いたい。
宝塚市長なら、まず足元のその問題を改革してから、いえ!
日本で一番偉い神様は天照大神だが、このお方は女神である。
「なぜ女が偉いのか」
と文句をいう人は誰もいないが、明治になって、平塚らいてうという女性活動家が、
「元始、女性は太陽であった」といい、しかし、今は月で、太陽(男)に照らされていると女性差別、女の自立を訴えた。
確かに日本では、邪馬台国の統治者卑弥呼も女王だったが、この人は神と交信できる「巫女」だったということになっている。
卑弥呼が神と交信する部屋は「男子禁制」だったとされているが、このことに異を唱える人はいない。歴史だからである。
しかし、天照大神も卑弥呼も、月経(生理)になると、「穢れ」ているという理由で政務は行わず、人にも会わなかった。
生理期間中の女性は、肉体的・精神的にきつかったりするので、戦後、「生理休暇」が設けられたが、上司に報告しづらいのと「好奇の目で見られる」といった理由から、休暇を取る人はほとんどいない。
ギリシャ神話では、男神アポロンが一番偉いが、なぜ男なのかと文句をいう人もいない。
アポロンは太陽神だが、天照大神も太陽神だ。
「大相撲の土俵が「女人禁制」になっているのことに目くじらを立てるのは、日本神話やギリシャ神話に文句をつけるのと同じようなものだ」
と私は考えてきた。
宝塚市長よ!大相撲の土俵の「女人禁制」にいちゃもんをつけるなら、「女性の生理」についても言及しないと話にならないことを知れ!
女相撲=ゲテモノ視の歴史がある
「女相撲」もあったが、歴史的に見れば〝ゲテモノ的な興行〟の側面が強かった。
大相撲は、まわし以外は身にまとわないが、女はそうはいかない。
男と違って胸を露出できないという制約や、まわしが股間に食い込むなどと体の構造的差異を嘲笑する声も強かったせいである。
「女は入山禁止」としてきた山が存在するのは、「月経血は汚らわしい」「生理中の女を忌む」という昔の人々の感覚に基づいており、そうした考えは今は時代錯誤なものとなったが、そういう感覚に基づいて禁忌とされてきた行事やしきたりも「日本民族の伝統」なのである。
茶道や華道を見ても、一般的な感覚で判断すると、「おかしい」と思える点は多々あるが、それは「昔から脈々と継承されてきた伝統」なのであって、時代錯誤ではないのだ。
大相撲は、『日本書紀』にある野見宿祢禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)に端を発する神事としての体裁を整え、今日に至っている。
「男女同権なのに女はなぜ土俵に上がれない!?」
とする見方は、一見、正論に思えるが、長い歴史と伝統を考えると、みそくそを一緒にした極めて軽薄で論拠に乏しい言い分であることがわかる。
今の時代感覚では、承服できなかったり、理解できなかったりするからこそ「古いしきたり」であり「日本古来の伝統文化」なのである。
単なる男女同権で「女人禁制」を語るな!
伝統と礼儀は重なるところがある。
たとえば、古来、人の礼儀として「畳」の縁(へり)は踏むなといわれてきたが、今の時代、それを守っている人は少ない。だが、縁は踏まないのが礼儀なのだ。
明治以後、洋風文化が雪崩を打って流入した結果、日本人が次第に洋服を着るようになったが、着方は男は右前なのに対し、女は左前である。
しかし、日本の着物は、男女ともに右前に着る。
着方に限っていえば、日本の方が性差がない。
女しか入れない修道院や寺院もあれば、男しか入れない修道院や寺院もある。
しかし、それを男女差別という非難する人はいない。
女も土俵に上がれる相撲にしたければ、極論をいうなら、今の相撲とは異なる流派の大相撲をこしらえればいいのだ。
単なる男女同権のみを掲げて、土俵の女人禁制という差別撤廃を叫ぶのは、当たらない。
(城島明彦)
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