江藤淳『南洲残影』の致命的な誤りの謎
西郷さんの主義信条「敬天愛人」とは
『漱石とその時代』などの著書で知られる大作家(評論家)の江藤淳が自死してから6年になる。
江藤は、来年のNHK大河ドラマの主人公「西郷どん」についての著書もある。
『南洲残影』で、晩年の作である。
そのエピローグに、次のような素晴らしい西郷評が書かれている。
「陽明学でもない。『敬天愛人』ですらない、国粋主義でも、排外主義でもない、それらをすべて超えながら、日本人の心情を深く揺り動かして止まない『西郷南洲』という思想。マルクス主義もアナーキズムもそのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、日本人はかつて『西郷南洲』以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった。」
西郷さんの主義信条である「敬天愛人」の敬天は、「天を敬う」という意味だが、もっとわかりやすくえば、「お天道様に恥じるようなことをするな」ということだ。
「人が見ていないから」といって悪いことをしてはいけない。お天道様が空から見ているということだ。難しい言葉でいうと、
「慎独」(しんどく) である。
「まわりに誰もいなくても、自分自身の行いを慎み深くする」
という古くからいわれている教えだ。
「愛人」の方は、書いて字のごとく、
「人を愛する」「平等に人を愛する」 ということだ。
「旧幕臣を一兵も叛軍に走らせなかった」とするのは間違い
拙著『考証・西郷隆盛の正体』は、この11月初旬に発売になるが、その本を今年の五月半ば過ぎから執筆するに際し、明治以降のさまざまな文献に目を通していて、江藤淳の『南洲残影』も参考文献にしようと思って文春文庫を購入したが、冒頭でいきなり史実と違うことが書かれていたので、そこから先を読む気にならなかった。
そうさせたのは、冒頭の7~9行目に書かれた次の一文がひっかかったからだ。
「海舟は結局一度もしなかった。彼は西郷との談判によって江戸無血開城に成功し、その西郷が蹶起(けっき)した西南戦争のときには、旧幕臣を統率して一兵も叛軍に走らせなかった。」(下線は城島)
「あとがき」を読むと、江藤は、30代半ば頃、『海舟余波――わが読史余滴』を文藝春秋発行の純文学誌「文学界」に連載したことがあり、その関係で同誌の新任の編集長の依頼で『南洲残影』の同誌への連載を引き受けたことがわかる。
平成6年10月号から平成10年1月号まで21回にわたる連載で、平成10年3月に文藝春秋が単行本化している。江藤淳が逝去するのは平成11年7月なので、その1年と4カ月前、つまり、単行本化は晩年のことになる。
前置きはこれぐらいにして、本論に入ろう。
私が「おかしい」と感じたのは、勝海舟が「西南戦争のときには、旧幕臣を統率して一兵も叛軍に走らせなかった。」という表現である。
誰にも誤りはあるが、江藤淳ほどの人になると容易に看過できないところがある。
文庫本の奥付を見ると、2001年の発行で、私が買ったものは2012年の3刷りとなっているので、その間にもし編集者が気づいていたとしても、江藤淳ほどの大物になると、勝手になおすわけにはいかないから厄介なのだ。
「(勝海舟が)西南戦争のときには、旧幕臣を統率して一兵も叛軍に走らせなかった」
というのは、歴史的事実に照らし合わせて、100%間違いである。
幕臣とは狭義に解釈すると「旗本御家人」を指し、広義に解釈すれば「諸藩士」も指すことになるが、「一兵も」と強調している文意から、江藤淳は「藩士」まで含めていっていると考えるべきである。
つまり、「旧幕府の諸藩の兵士たちは誰一人として反乱軍に加わらなかった」という意味に解釈できるが、それにしても理解に苦しむ表現だ。
西南戦争では、旧幕臣だった庄内藩士が西郷軍に走り、戦死しているのだ。
伴兼之、榊原政治の両名は、西南戦争で死んだ者たちを集めた鹿児島の西郷墓地に墓がある。
伴は明治10年3月20日、榊原は5月10日に死んだことがわかっている。
享年は伴が20歳、榊原が18歳で、両名は西郷さんが創った私学校の生徒だった。
特に伴の方は、兄弟が西郷軍と政府軍に分かれて参戦し、ともに戦死したことから、「戦争の悲劇」を語る上でもよく知られた存在である。
「一兵も」と江藤は強調しているから、数の多寡は問題ではない。一人でもいたら、勝海舟の統率力が完璧だったという表現は成り立たなくなるのである。
正確を期すには、
「西郷と特殊な関係にあった庄内藩士二名という例外はあるものの」
といったような文言を付け加えないといけない。
先に引用した「一兵も叛軍に走らせなかった」とする江藤淳の問題個所の後には、次のようなことが書いてある。
「西郷、桐野、村田、池上、別府、辺見ら三十九名の遺体は旧浄光寺に、七十六名が旧不断光寺、十九名が草牟田、七名が新照寺、十八名が城山に仮葬された。それが今日の南洲墓地に改装されたのは、明治十六年(一八八三)に出獄した河野主一郎、野村忍介らの尽力によるものである。ここに眠る士は二千二十三柱、墓碑は七百四十基を数える。」
ここまで詳しく書いていながら、西郷軍に走った庄内藩士2人に言及しないのは、なぜなのか。
戊辰戦争や西郷を語る上で、庄内藩士との逸話は極めて重要
私がいいたいのは、次の2点は無視できないということだ。
第1点。庄内藩は旧幕府軍で、戊辰戦争は庄内藩士が江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした事件がきっかけで勃発し、戦争では会津藩が降伏してもまだ降伏せず、最後の最後まで徹底抗戦し続けた「幕府軍にとことん忠誠を尽くした藩」だったということだ。
第2点。戊辰戦争で重要な役割を果たした庄内藩に属していた2名が、西郷さんの人となりに触れて心酔し、西郷さんが設立した鹿児島の私学校でさまざまなことくを学び、西南戦争が起こると、「国へ帰るように」と強く説得されたにもかかわらず、反乱軍に加わり、戦死を遂げているということだ。
西郷さんが征韓論争に敗れて明治6(1873)年に下野して以降、あちこちで不平士族の反乱がおきると、大久保利通は、自らの出身藩である旧薩摩藩の動きに目を光らせ、
「庄内藩の動きからも目を離すな」
と部下に命じているのだ。
なぜ山形の庄内藩が西郷さんを信奉するようになったのかといえば、戊辰戦争で敗北した庄内藩は、厳しい処分を予想したが、官軍のリーダーだった西郷さんが下した処分が、思いもよらない寛大なものだったからである。
「昨日の敵は今日の友」
こういう考え方も、「敬天愛人」の思想に含まれている。
キリスト教に近いといわれるゆえんだ。
西郷さんの大きな心を知って感激した庄内藩は、藩主以下、鹿児島まで足を運んで直接、西郷さんに教えを請うたのだ。
藩士らは、そのときの講義録を国へ帰ってから小冊子にまとめ、手分けして全国へ配布したのである。
それが今日まで残っている『南洲翁遺訓』である。
こういう深いつながりがある西郷さんと旧庄内藩士をないがしろにして、
「一兵も叛軍に走らせなかった」
と冒頭に書くことは許されない、そういう「史観」で綴られた本は読む必要はない。
私は、そう私は思ったのである。
南洲墓地の隣にある南洲神社が調査し、1982(昭和57)年に発表した「西南の役戦没者名簿」に記された数は、西郷墓地に埋葬されている人数の3倍(6765名)に達していた。伴と榊原の名も、当然ながらその中に入っている。
それだけ多くの若者たちを死なせたにもかかわらず、西郷さんは遺族たちに恨まれなかった。
そこに、西郷さんの魅力を解くカギがある。
書店には西郷さんの本が早くもあふれかえっているが、拙著『考証・西郷隆盛』は、「なぜ西郷さんが誰からも愛されるのか」というテーマで書いた本だ。ぜひ、読んでほしい。
(城島明彦)
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