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2017/06/16

暑いのう、脳まで暑いぞ、熱い脳!


30度だって!? カンベンしておくれでやんす

 暑くなると、出てきますな。
 お化けじゃない、くるくるパ~プリンってぇ奴。

 ♪ きょうと おおはら さんぜんいん
 ♪ 狂頭 大原さん全員
 ♪ 京都 大腹 産前淫

 路上の何かを探している爺さんがいた。
 そばを通りかかると、
 「暑いですねえ」
 と挨拶してきたので、黙って通り過ぎるのも悪いと思い、
 「何か落としました?」
 と尋ねたら、にやっと笑って、
 「脳天、逆落(さかお)としだっちゅ~の!」
 といって、へらへら笑った。

 前歯が三本抜けていた!

 (こいつ、危ない奴だ)
 と思ったので、目を合わさないようにして、
 「よっこい庄一! ノー散らす、Go!  Yes,ノー散らし寿司! 暑いの、暑いの、飛んでけ~ぇ!」
 と思いっきりでっかい声で叫んでやったら、おびえた目でこっちを見た。
 (こわいのはこっちだってぇの)

(城島明彦)

2017/06/04

内村鑑三『代表的日本人』(5人)に登場する中江藤樹とは、どんな人だったのか!?


日本で唯一「聖人」(近江聖人)と呼ばれた中江藤樹の代表作『翁問答』の現代語訳

 内村鑑三が、日本および日本人を紹介する目的で英語で書いた『代表的日本人』は、その後、日本語に訳され、多くの日本人に読まれることになった。新渡戸稲造の『武士道』と同じである。

 内村鑑三が取り上げた日本人は。次の五人だ。

 西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人

 中江藤樹は「日本陽明学の開祖」であり、西郷隆盛に大きな影響を与えた「言志四録」で知られる佐藤一斎や吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬ら明治維新を成し遂げた偉人たちも読んでいる。
  
 中江藤樹の代表作である『翁問答』の現代語訳は平成初。昭和から数えても2冊目だ。
 教養人を自負する人や自己啓発に熱心な人の必読書である。
 
 内容的には難しいところもあるが、どういうことが書かれているのかということを把握し、陽明学の「知行合一」について考えてみるといいのではなかろうか。

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(会員制月刊誌『致知』7月号表紙とそこに掲載された発売告知広告)

 文字が読みづらいときは、クリックして拡大した画面でお読みください。

(城島明彦)

2017/06/03

〝卓球の天才少年〟張本に特大の「喝!」だ! 雄叫びがうるさい! 


醜い! 勝つたびに雄叫(おたけ)び付きガッツポーズをするな!

 卓球の世界選手権がドイツで行われ、テレビ東京が中継しているが、見ていて不愉快になった。
 天才少年張本智和の雄叫びは異常だ。
 見ている者を不愉快にさせる。
 
 勝てば叫び、負ければ沈黙する。
 負けたとき、なぜ絶叫しないのか。
 そんなスポーツがあっていいものか。
 両親やコーチたちは、なぜ注意しないのか。
 
 相手の気持ちも考えろ。
 卓球は、下品なスポーツなのか。
 スポーツマンシップとは何かをよく考えろ。

 勝てばうれしいに決まっている。
 叫びたくもなろう。
 気持ちはわかるが、それをぐっと噛みしめるのが日本男児だ。
 敗者の健闘をたたえる気持ちを忘れている。
 絶叫しないと勝てないのなら、選手をやめろ!

 将棋の藤井少年を見習え!

(城島明彦)

2017/06/01

この人を見よ――「近江聖人」中江藤樹(とうじゅ)は11歳から「修身」を心がけた


国会議員は、中江藤樹『翁問答』を熟読して、己を磨け!

 失言や暴言で大臣を辞職する国会議員が後を絶たない。
 そういう連中は、『大学』を読んだこともないのではないか。
 そこには、こんな一文があるのだ。
 「修身斉家治国平天下」
 (しゅうしん・さいか・ちこく・へいてんか)と読む。
 
 これは、「おさめる順番」を示している。
 つまり――
 「天下を泰平にするには、まず自分自身の身を修め、続いて家・家庭を治め、それができて初めて国を治めることができ、世の中は天下泰平となる」
 といっているのである。
 

身を修める努力をしているか?

 まず心がけねばならないのは、自分自身を厳しく律し、情欲・金銭欲・名誉欲などに負けない「克己」「自律」を培い、人格を磨き、立派な人間になることだ。
 修身の基本は、言葉を慎み、行動を慎むことであるから、「失言」をするような大臣は「身を修める」という最初の段階で既につまずいており、そういう者が国を治めるなどというのはおこがましい限りだ。

 江戸時代初期の儒者で「日本陽明学の祖」といわれている中江藤樹は、11歳のときに『大学』を読んで以来、先ず修身に励んで、言葉を慎み、行いを慎んで、後に「近江聖人」と讃えられるようになる。
 
 『大学』は、古代中国の四書(論語・孟子・中庸・大学)の一つで、昔は学校で習ったが、戦後は教育から弾き飛ばされた。


10歳で祖父の養子になり四国へ

 中江藤樹は、近江国高島郡小川村(現滋賀県高島市)の出身だが、幼い頃に農業をしていた父を亡くし、母一人子一人で暮らしていた。

 10歳になったとき、伊予(元愛媛県)の大洲藩の武士をしていた祖父が、藤樹の将来を心配して養子として引き取られ、母と別れた。
 そのとき、母が厳しい口調で藤樹を諭した。
 「一人前になるまで決して帰って来てはなりません」
 そのいいつけを守って、勉学にいそしみ、『大学』を読んでわずか11歳で悟ったのだから、並みの子どもではない。


この母にして、この子あり

 母から来た手紙を祖父は読んで聞かせていたが、その中に、水仕事をしてあかぎれになったという一節があった。
 あかぎれは痛いということを知った藤樹は、よく効くという薬を買い、母のもとへ届けようとした。
 瀬戸内海を船で摂津へと渡り、そこから高島村へと向かったが、冬のさなかである。雪は降る。足も疲れ、日も暮れて行倒れたところを間一髪、助けられ、再び旅を続けて、無事、母のもとへたどり着いた。
 
 だが母が藤樹にいった言葉は、
「何しに帰ってきた。一人前になるまで戻るなと言い聞かせたではないか。すぐに引き返しなさい」
そういうと、伊予まで戻るのに必要な金を手渡したのだった。
 藤樹のせめてもの慰めは、母があかぎれの薬は受け取ってくれたことだった。
 
 ――このような話が伝わっているのだ。
 
 私が小学生の頃、家に富山の置き薬の一つとして「あかぎれの薬」もあったが、真っ黒な練り薬がハマグリの中に入れてあった。藤樹が母に届けたのも、おそらくそれではなかろうか。昭和30年頃の話だ。


脱藩してまで母親を養った生き方

 次に藤樹が郷里の高島村へ帰るのは、25歳のときである。
 老いた母に伊予へ来るように話をしにいったのだ。
 しかし母は、
「女は越境するものではない」
といって首を縦には振らなかった。
 
 ならば、自分が母の側へいこう、と決心したのはその2年後、27歳のときである。
 母親に孝行をしたいからと「休職願い」を家老に出したが、聞き入れられず、思い余って脱藩したのだった。
 脱藩は大罪で、藩は追っ手を差し向けるのが普通。
 それを恐れて、しばらく京都に隠れ住んでいたが、追ってはこなかった。藩主ができた人で、親孝行したいためという理由を聞いて許したのだ。

 それからの藤樹は、書を読み、思索し、門弟に教え、書を表わすことになるが、その基本となったのは「修身」であった。
 高島村の自宅の庭には大きな藤の木があり、その下で読書をし、教えていたことから、誰いうともなく「藤樹先生」という呼称が生まれたのである。
 藤樹自身もそれを気に入り、号にした。
 そんな藤樹の代表作が『翁問答』である。
 少し難しい個所もあるが、どう生きるのが人としての正しい道なのかを教えてくれる。
 原文は難しいので、5月末発売の拙訳(現代語訳)でどうぞ。

 Photo ※写真をクリックすると、ばかでかくなります。

(城島明彦)

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