この人を見よ――「近江聖人」中江藤樹(とうじゅ)は11歳から「修身」を心がけた
国会議員は、中江藤樹『翁問答』を熟読して、己を磨け!
失言や暴言で大臣を辞職する国会議員が後を絶たない。
そういう連中は、『大学』を読んだこともないのではないか。
そこには、こんな一文があるのだ。
「修身斉家治国平天下」
(しゅうしん・さいか・ちこく・へいてんか)と読む。
これは、「おさめる順番」を示している。
つまり――
「天下を泰平にするには、まず自分自身の身を修め、続いて家・家庭を治め、それができて初めて国を治めることができ、世の中は天下泰平となる」
といっているのである。
身を修める努力をしているか?
まず心がけねばならないのは、自分自身を厳しく律し、情欲・金銭欲・名誉欲などに負けない「克己」「自律」を培い、人格を磨き、立派な人間になることだ。
修身の基本は、言葉を慎み、行動を慎むことであるから、「失言」をするような大臣は「身を修める」という最初の段階で既につまずいており、そういう者が国を治めるなどというのはおこがましい限りだ。
江戸時代初期の儒者で「日本陽明学の祖」といわれている中江藤樹は、11歳のときに『大学』を読んで以来、先ず修身に励んで、言葉を慎み、行いを慎んで、後に「近江聖人」と讃えられるようになる。
『大学』は、古代中国の四書(論語・孟子・中庸・大学)の一つで、昔は学校で習ったが、戦後は教育から弾き飛ばされた。
10歳で祖父の養子になり四国へ
中江藤樹は、近江国高島郡小川村(現滋賀県高島市)の出身だが、幼い頃に農業をしていた父を亡くし、母一人子一人で暮らしていた。
10歳になったとき、伊予(元愛媛県)の大洲藩の武士をしていた祖父が、藤樹の将来を心配して養子として引き取られ、母と別れた。
そのとき、母が厳しい口調で藤樹を諭した。
「一人前になるまで決して帰って来てはなりません」
そのいいつけを守って、勉学にいそしみ、『大学』を読んでわずか11歳で悟ったのだから、並みの子どもではない。
この母にして、この子あり
母から来た手紙を祖父は読んで聞かせていたが、その中に、水仕事をしてあかぎれになったという一節があった。
あかぎれは痛いということを知った藤樹は、よく効くという薬を買い、母のもとへ届けようとした。
瀬戸内海を船で摂津へと渡り、そこから高島村へと向かったが、冬のさなかである。雪は降る。足も疲れ、日も暮れて行倒れたところを間一髪、助けられ、再び旅を続けて、無事、母のもとへたどり着いた。
だが母が藤樹にいった言葉は、
「何しに帰ってきた。一人前になるまで戻るなと言い聞かせたではないか。すぐに引き返しなさい」
そういうと、伊予まで戻るのに必要な金を手渡したのだった。
藤樹のせめてもの慰めは、母があかぎれの薬は受け取ってくれたことだった。
――このような話が伝わっているのだ。
私が小学生の頃、家に富山の置き薬の一つとして「あかぎれの薬」もあったが、真っ黒な練り薬がハマグリの中に入れてあった。藤樹が母に届けたのも、おそらくそれではなかろうか。昭和30年頃の話だ。
脱藩してまで母親を養った生き方
次に藤樹が郷里の高島村へ帰るのは、25歳のときである。
老いた母に伊予へ来るように話をしにいったのだ。
しかし母は、
「女は越境するものではない」
といって首を縦には振らなかった。
ならば、自分が母の側へいこう、と決心したのはその2年後、27歳のときである。
母親に孝行をしたいからと「休職願い」を家老に出したが、聞き入れられず、思い余って脱藩したのだった。
脱藩は大罪で、藩は追っ手を差し向けるのが普通。
それを恐れて、しばらく京都に隠れ住んでいたが、追ってはこなかった。藩主ができた人で、親孝行したいためという理由を聞いて許したのだ。
それからの藤樹は、書を読み、思索し、門弟に教え、書を表わすことになるが、その基本となったのは「修身」であった。
高島村の自宅の庭には大きな藤の木があり、その下で読書をし、教えていたことから、誰いうともなく「藤樹先生」という呼称が生まれたのである。
藤樹自身もそれを気に入り、号にした。
そんな藤樹の代表作が『翁問答』である。
少し難しい個所もあるが、どう生きるのが人としての正しい道なのかを教えてくれる。
原文は難しいので、5月末発売の拙訳(現代語訳)でどうぞ。
(城島明彦)
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