「進化」と「深化」、どちらを選ぶかについて考えた
「身化」か「心化」かという問題もある
江戸時代初期の儒者で〝日本陽明学の始祖〟である中江藤樹の代表作『翁問答』を現代語訳する過程で、いろいろなことを考え、学んだ。
その癖がついたからか、さきほどシャワーを浴びていたら、
「〈しんか〉の違い」
ということが頭をかすめた。
「進化と深化でいうと、自分は進化を追い求めてきた」
と思った。
「〈深化〉は学者の生き方。一つの専門域をとことん追求し、学問として深めていく生き方だ。しかし、自分の場合は、『あれもやりたい、これもやりたい』と次々と新しいものを求め、そのために努力を重ねる〈進化〉という生き方を好んでやって来た。だから学者のように深くはないが、浅くもない」
そう思ったのだ。
進化と深化に共通するのは「新化」であり「真化」だ。
その過程で常に考えなければならないのは、その「進化」や「深化」は、「身化」のレベルなのか、「心化」のレベルにまで到達できているか、という問題だ。
そういうことも考えた。
単なる言葉あそび・語呂あわせというでない。
天皇の「皇」という字は、「大(おお)いなる」という意味である。漢字を分解すると「日の王」。まさに太陽の如く、君臨する偉大な存在である。
神(かみ)は音読みすると「しん」と読める。「しん」は「伸」。「伸ばす」という意味で、「神測不可」という表現があるが、「神は人が測ることができない霊妙な存在」という意味だ。
「神」は、「信」「心」にも通じる。
――てなことを、シャワーを浴びながら考えたのである。
(たまには、ええこというやろ? こういうのを昔は「自画自賛」といい、今は「痔が爺惨(じさん)」というわけないか)
(城島明彦)
« AKB48選抜総選挙2017、近し! 〝中古〟指原、「莉乃ベーション」を起せるか!? | トップページ | 「愛用のシャープペン」を洗濯してしまったの巻 »