日暮れて道遠し
今の私の心境はこれだ
「日暮れて道遠し」という格言に初めて接したのは、大学受験生の頃だった。
通信添削指導を受けていたZ会の国語の長文問題の中に出ていた。
出典のことが書いてあったかどうかまでは覚えていないが、
「いい言葉だ」
と思い、以来、格言として頭に染みついたが、実感がなかった。。
当時思い浮かべたのは、小学生の頃の情景だった。
遠くまで遊びに行っての帰り道で、周囲には畑や田んぼが広がっていて、そこが夕陽に染まるが、次第に陽が落ち、あたりがほの暗くなっていく。
それにつれて、寂しさと不安が増していったことを今も覚えている。
日暮れて道遠し。
この言葉は『史記』の中に出てくる。
今、現代語訳している中江藤樹の『翁問答』の中に、
「人衆(おお)き者は天に勝ち、天定まって亦(また)能(よ)く人に勝つ」
という『史記』(伍子胥(ごししょ)伝)の中の言葉が引用されているので、その個所を原典で読み返すと、この言葉のすぐ後に、
「日暮れて道遠し」
が出ており、受験時代を思い出した。
「日暮れて途遠し」には、二つ意味があって、一つは、
「年をとったが、やるべきことがまだいっぱい残っていて途方に暮れている」
という意味だ。
もう一つは、
「締め切りが迫っているのに、予定通りことが進まず、まだ未完成で焦っている」
という意味である。
今の私の心境は、両方だ。
伍子胥(ごししょ)は、父親を殺した楚の王の墓を暴いて、王の屍を引きずり出し、300回ムチを打った人物。
「屍にムチ打つ」
という格言は、「日暮れて途遠し」の少し前に出てくる。
わずかの行数の間に3つも格言が出てくるところなど、〝『史書』は格言の宝石箱や〟。
(城島明彦)
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