「松下幸之助翁が石田梅岩の影響を受けていない」という説は誤り
「幸之助翁は石田梅岩『都鄙問答』をひそかに座右の書として愛読していた」が正しい
ネット上に「松下幸之助が石田梅岩に傾倒した”という噂はウソだった!」というという見出しのブログがあったので、クリックすると、そのタイトルではなく、『研究報告「”松下幸之助が石田梅岩に傾倒した”」という噂は果たして本当だろうか?』というトーンダウンしたタイトルになっていた。
そのブログを書いたのは、昔(1989年~1999年)、松下電器(現パナソニック)の経営コンサルタントをしていたという人で、松下経営塾でも学んだということだ。
1989年といえば、松下幸之助翁が亡くなった年であり、直接薫陶は受けていない。
そのブログが書かれた日付は2015年6月15日となっており、私が現代語訳した『石田梅岩「都鄙問答」』が発売される1年3か月ほど前になる。
この人は、ネットに「あの松下幸之助も人生の師として尊敬していた」「事業に困ったら梅岩を読みなはれと松下幸之助がいった」「松下幸之助も石田梅岩に傾倒していた」などと書かれているのを見て、自分はそういうことは聞いたことがないといって、「PHP研究所総合理念研究本部」および「松下資料館」に依頼して過去のデータを調べてもらったが、どこにもそんなことは書かれていないというのだ。
だが、その「松下資料館」は、2011年2月5日に「石田梅岩に学ぶ商人道の原点」と題した講演会を開催し、その告知文を前年11月に館長名でネットに公開したが、その中に次のような文章がある。
《弊資料館は、設立当初より、日本的経営を歴史的な観点から研究するとともに、ますます進展する今日のグローバル経済の中で、これからの経営のあるべき姿を考えてまいりましたが、今回、その活動の一環として、標記の「石田梅岩に学ぶ商人道の原点」と題した講演会を、平成23年2月5日(土曜日)に開催致します。》
《石田梅岩は、1685年、亀岡に生まれ、京都の商家で奉公の後、1729年、45歳の時、同地で塾を開き、開講しました。そしてその教えは当時台頭しつつあった多くの町人、庶民に支持され、又、手島堵庵、柴田鳩翁等、優れた多くの弟子達によって、「石門心学」として、日本全国に広がっていきました。
三方よしの精神で真の商人道を実践し、日本各地で成功した近江商人も、大きな影響を受けたことは、言うまでもありません。
人間の本質、心を追求し、商人の正しい営利活動を積極的に認め、商いにおける倫理感の大切さを説いた石田梅岩の教えは、松下幸之助の経営道・商人道にも受け継がれていると考えられます。
今日の混迷する社会で、石田梅岩が遺してくれた素晴らしい教えの中から、経営、ビジネス、そして人生を生きるヒントを見出して頂けるものと確信致します。》(下線は、城島)
松下資料館のこの引用からだけでも、「松下幸之助と石田梅岩の関係を否定するのは誤り」だとわかる。
ソフトバンクの孫正義氏の片腕といわれてきたSBIホールディングスのCEO北尾吉孝氏の『仕事の迷いにはすべて「論語」が答えてくれる』(朝日新聞出版 2012年)にも、
《松下幸之助は江戸時代の思想家、石田梅岩の「都鄙問答」を読み、彼のところに助けを求めてくる人たちには「梅岩を読みなはれ」と勧めていたと言います》
と書かれている。
なぜそのことを素直に認めようとしないのか。不思議だ。
否定している経営コンサルタントは1960年代後半の生まれで、そういう話を耳にしたことがないだけなのではないか。
こういう短絡的な発想をしたブログは、経営コンサルタントとしての資質を問われるから、削除した方がいい。
パーティなどで、マンツーマンでいったこととか、広報などがいない場所で記者から質問されて答えたこととか、記録として残されていないものはいっぱいあるのだ。
何もかも杓子定規ではかろうとすると、間違いを起こす。PHP研究所は、いってみれば身内であり、〝一種の大本営発表〟的な部分もある。そういったことも考慮する必要があるということだ。
梅岩の影響を受けたといっても、幸之助翁への評価は上がりこそすれ、下がることはない
松下幸之助翁が、石田梅岩の影響を受け、「石門心学」と呼ばれる思想を世の中に広めるために、誰でも自由に聴講でき、質問できる私塾をつくったのにならって、PHP研究所をつくったという話は、昔から有名な話である。
梅岩との関係性を否定している経営コンサルは、松下幸之助翁が雑誌のインタビューで石田梅岩について聞かれたとき、「バイガン? 誰」といったという記事を引っ張り出してきて、その証左としているが、その頃の人は、ほとんど誰も真に受けてはいなかったのだから、幸之助翁を心底から尊敬するなら、そんな妙な記事を引っ張り出してはいけない。
そんな古い記事を引用するのは、贔屓の引き倒しだ。
幸之助翁の人格をかえって貶めることになるという点に気づかないといけない。
普通の神経なら、「バイガン、誰?」などとはいわない。
幸之助翁は、丁稚からの叩き上げであり、当初の商圏は大阪・神戸・京都である。
京都で私塾を開いていた梅岩も、丁稚から番頭にまで出世し、儒者となって教導した。
明治・大正・昭和の戦前には、二宮尊徳、中江藤樹、石田梅岩らのことは、尋常小学校でも教えている。
名前も知らないというのは、どういうことか。
そう思われてしまう。
「あの本を読んだね」
といわれて、すなおに「読んだ」という人もいれば、
「いや、読んだことはない」
と思わずいってしまう人もいるのだ。
そういうことも考えないといけない。
では、石田梅岩との関係を否定すればするほど、なぜ幸之助翁の人格を貶めることになるのか!?
松下電器は、かつて何といわれていたか。
〝まねした電器〟だ。
私は、〝モルモット〟といわれていたソニーに11年弱だが在籍していたから、松下電器時代の〝二番手戦略〟もよく知っている。
ソニーは、売れるか売れないかわからない商品を市場にぶつけた。
たいへんなリスクを冒していたのだ。
しかしそういうスピリットを消費者は評価し、クリエイティビティを重視する時代になるにつれて、ソニーは高い評価を得るようになった。
松下電器は、ソニー製品に対する消費者の反応を見て、ソニーにはないプラスアルファを加えて市場に投入し、シェアを拡大するという戦略だった。
しかし、勝てば官軍、そういう商法は商法であっていいのだ。
一方、ソニーは、創業者の井深大さんが、口が酸っぱくなるくらい、
「他社のまねはするな。他社にまねされるものを創れ」
と繰り返していた。
松下とソニーは対照的なライバル企業だったが、幸之助翁が、自らの口で堂々と「まねした電器」などといったという話は聞いたことがない。
2000年にパナソニックの社長に就任した中村氏の代になって初めて、「まねした電器からの脱却し、創造する企業に生まれ変わる」と公言したのだ。これが世にいう「中村改革」である。
誰かを尊敬するなら、その人の足を引っ張らないようにしないといけない。
「幸之助翁は石田梅岩『都鄙問答』をひそかに座右の書として愛読していた」
. ひそかに座右の書としていたのだから、公然と口にはしたくなかった。
そのことを話す人もいたし、話さない人もいた。
そう考ると、辻つまが合い、〝幸之助翁と石田梅岩をめぐる謎〟は一気に解け、幸之助翁も傷つかない。
(城島明彦)
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