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2016/09/30

日本が「温帯」から「亜熱帯」になり、体調が狂う人が増えたのでは?


猛暑、猛暑は、もうしょうがない?

 子どもの頃、
「日本列島は『温帯』に属し、春夏秋冬がめぐってくる美しい国だ」
 と学んだ。
 しかし、いつごろからか、9月の終わり近くになっても気温が30度を超える日々が続くし、雨の降り方も尋常ではなくなっているし、外来種の動植物が全国各地で増殖したり、琵琶湖のハスが全滅したりとか、もはや日本列島は「温帯」ではなく、完全な「亜熱帯」になっている。

 赤ん坊のときから今のような亜熱帯性気候だった人と違って、温帯気候の中で生まれ、育ち、年を取って来た人たちは、猛暑がきつい。
 寒暖の差に異常に敏感な私のような人間は、老いぼれてきたというハンディも加わって、特にきつく感じるようになった。

 今年の夏は、ほとんど部屋にこもって、9月29日に発売になった石田梅岩『都鄙(とひ)問答』の現代語訳の最後の仕上げに取り組んでいた関係で、終日、冷房をガンガンかけ、よく眠れるようにと思って、就寝中も冷房を効かせていたために、仕事が終わりに近づいた大事な時期に熱が出て、なかなか引かず、夜は熟睡できなくなって、頭がボーッとするという情けない事態になり、いまだにそれが治っておらず、体はガタガタのボロボロ。

 「回復力が遅くなる」というのも老化の証拠で、なかなか元気が戻らない。
 文章を書くのが仕事なので、頭の方は自然と鍛えられるが、体の方は、ほったらかしだ。
 そこで、「春が来た」の自虐的な替え歌だ。

 ♪ガタが来た ガタが来た どこに来た
   顔に来た 体に来た 脳にも来た

 あゝ、なさけなや、なさけなや。
 
 というわけで、なかなかブログを更新できない今年の夏だったが、少しずつ元気が戻ってきつつあるので、ブログも更新したい。


 (城島明彦)

2016/09/27

〝人生は一発大逆転〟の豪栄道VS〝意気地なし〟稀勢の里、〝こんなもの〟琴奨菊


「運も実力のうち」――「運」を逃し、「重圧」に負けて、男を下げた「稀勢の里」

 稀勢の里は、「白鵬休場」という「幸運」も手伝って、
 「今場所優勝すれば横綱昇進」
 といわれていたが、
 「そうはいかないようだ」
 との見方が急速に広がったのは、秋場所が始まる2日前に行われた「横審(横綱審議委員会)の稽古総見」で、日馬富士に8戦全敗したからだった。

 稽古総見で無敵の強さを発揮しても本場所になると、そのとおりにはいかないのが常。
 稀勢の里は、始まる前から赤信号になっていただけでなく、テレビの画面に映し出された顔は精気を欠いていた。
 そのくせ、報道陣のインタビューを受けると、別人かと思えるほど妙に明るく振る舞っており、その時点ですでに多くの人は「おかしい」「何か変だ」と思わせていた。
 その時点で、すでに心技体のバランスを欠き、横綱を狙える状態ではなかったのだ。

 それでも、「日本人横綱」を待望する心情から、「本場所になれば、また先場所のような力を出してくれるだろう」と願う人も多かった。

 しかし、その期待は秋場所が始まるとすぐに破られた。
 先場所、先々場所の稀勢の里とは別人だった。
 重圧に負けたのだ。重圧に負けて、「心技体」のバランスを崩したのである。


チャンスを「逃す」か「逃さないか」が人生を決める

 一方、豪栄道は、もともと地力があり、横関に昇進したときは、「そのまま一気に横綱まで駆け上がるのではないか」と思われたが、ケガに泣き、弱い大関に成り下がっていた。

 しかし、秋場所前から体調が絶好調で、「心技体」が過去最高。
 胸に秘めたものがあり、それにこれまでの成績に対する「情けなさ」「悔しさ」があり、それに、同じ大関でもあるライバルの琴奨菊はすでに初優勝し、稀勢の里は横綱が近いと騒がれていることからくる「屈辱感」という強いバネが加わり、って、全勝優勝につながった。

 大きいか小さいかは別にして、「運」は誰にも訪れているが、それに気づかないか、気づいても生かせなかったかのいずれかだ。

 琴奨菊は、初優勝した後、「体幹を鍛えることでそれで自分は変わった」と強調していたが、「がぶり寄り」だけで横綱になれるほど甘い世界ではない。

 稀勢の里は、恵まれた体格を利し、横綱レースでライバルに大きく水をあけながら、ここぞというときに〝ノミの心臓〟が顔を出して、しばしばチャンスを逃してきた。
 特に今場所は、優勝すれば文句なしの横綱昇進、あるいは星一つの差で準優勝しても横綱昇進当確という千載一遇のチャンスだった。
 
 しかし、それを活かせなかった。
 秋場所の体(てい)たらくで、来場所全勝優勝しても、即横綱昇進とはいかなくなった。


一度のチャンスをものにした豪栄道、できなかった稀勢の里

 「運も実力のうち」
 と昔からいわれてきた。
 秋場所の豪栄道は、横綱日馬富士戦で、土俵際まで追い詰められて、苦しまぎれに放った首投げで勝った勝負も「運」のうちだ。
 
 その幸運を来場所も生かせるかどうか。
 豪栄道の真価が問われるのは、来場所だ。
 「初優勝で浮かれ、祝勝気分で気持ちがダレ切ってしまって、翌場所は惨敗」
 という力士が多い。
 琴奨菊も、そのたぐいだった。
 
 来場所、どういう成績を残すかで、豪栄道という男の評価が決まる。

(城島明彦)

2016/09/18

敬老の日のプレゼントに「貝原益軒『養生訓』」は、いかが?


誰でも知っている言葉がいくつもある名著だ

 貝原益軒の『養生訓』という書名については、若い人も知っているかもしれないが、年寄りはもっと知っている。

 誰でも知っている貝原益軒の言葉は、
 「腹八分(目)」 である。。
 食べ過ぎると早死にすると『養生訓』の中で警告し、「腹八分目にせよ」と戒めている。

 次いで有名なのは、
 「接して漏らさず」
 だ。
 「接して漏らさず」は、中年以降の男の「閨房での心得」をいった言葉として知られているが、これは貝原益軒が『養生訓』の中で使った言葉だ。

 貝原益軒は、37歳のときに17歳も年の差がある若い娘を妻に迎えているので、この名言も絵空事ではなく、実体験で裏付けられているのだ。

 昔から「寝る子は育つ」といわれたが、大人になってからも寝まくっていると早死にする。
 貝原益軒は、「睡眠時間は短く」と説いている。
 益軒は、85歳まで生きた人なので、その説は間違っていないことを実証したことになる。
 歯の磨き方なども指導しているが、その年まで一本も虫歯がないと自慢している。

 しかし、実際に全文を読んだ人となると、限られている。
 そこで、「敬老の日」という機会に、おじいさんに一冊プレゼントしてはいかがか。
 無論、中年のお父さんの誕生日のお祝いにも向いているし、若い人が長生きするための心得として読んでも楽しめる本だ。

  (自己PR)
  _cover Photo_4 Photo_2  (致知出版社)

 近刊(9月29日発売)もよろしく
 Photo_2 (現代語訳&解説:城島明彦/致知出版社) ※写真はクリックすると、でっかくなります

(城島明彦)

2016/09/15

松下幸之助翁、稲盛和夫氏を尊敬する人は必読! 石田梅岩『都鄙問答』、全文現代語訳で登場!


『都鄙問答』のすゝめ――全文を読まずに石田梅岩を語るなかれ!

 石田梅岩の代表作『都鄙問答』は、松下幸之助翁だけでなく、稲盛和夫氏の経営や人となりにも大きな影響を与えた名著で、岩波文庫が今年の2月にリクエスト復刊したが、ほとんどの人は数ページも進まないのではないか。

 よほど古文に精通している人でないと、抵抗なく読みすすめるのは難しい。それくらい、難解でややこしい表現が、わんさか出てくる本だ。
 「商人道」について書かれている個所の断片的な知識は知っている人も多いかもしれないが、全文を読み通した人は、どれくらいいるだろう。書かれた意味を理解しながら読めたという人となると、さらに激減するはずだ。

 「商人道」のところだけ知っているだけでも、何も知らない人よりははるかに有意義だが、それは全体の中の一部であり、「木を見て森を見ない」危険性も逆に生じる。
 『都鄙問答』のなかには、飛ばし読みしてもよいような内容の個所もあるが、読まないで知らないのと、読んでも心に残らなかったのとは意味が大きく違うのである。

 だから、全文を読むべきである。『都鄙問答』は4巻から成っているが、もっとも難解な「性理問答」以外は、それほど無zかしくはない。
 できる限りわかりやすい現代語にすることを心がけたつもりなので、読めば趣旨はよく理解できるはずだ。


〝不祥事企業〟として世間を騒がせた企業の社長や役員は「商人道」をはき違えている

 私は、機会があって、ここ数年、企業の不祥事を「危機管理」という面から月刊誌に連載してきたが、連載回数は10月1日発売号で38回に達する。
 中には2回取り上げた企業も1社だけあるが、ほとんどが誰でも知っている大企業が、それだけの件数の社会的事件を起こし、社長がメディアの前で深々と謝罪してきたのだ。

 だが、それらの企業のHPを見ると、「コンプライアンス」がどうの「CSR(企業の社会的責任)」がどうのといった立派な宣言をしている。

 「いっていること」と「やっていること」が違っているのが、不祥事企業である。 
 あなたの会社は大丈夫か!? その連載を通じて、私は、犯罪歴のある不祥事企業に限らず、日本の企業人はすべて、もう一度、〝日本のCSRの原点〟といわれている石田梅岩の『都鄙問答』を読むべきではないか、と考えるようになった。

 時代は違っても、江戸時代に生きた石田梅岩も、そういうこと感じたからこそ、「人としてのあるべき道」や「まっとうな商人としての道」を多くの人に示すために『都鄙問答』を著したのである。

 人間の心・本性は、石田梅岩のいた江戸時代、いや、孔子や孟子がいた数千年前とちっとも変ってはいないのだ。だからこそ、今でも『論語』や『孟子』が広く読まれるのである。

 しかし、『都鄙問答』の全文をわかりやすい現代語訳にした本は、これまでは、書店へ行ってもなかった。
 何十年も昔に思想書としてあらわされた本が一冊、現代語訳していたが、わかりづらく、読みにくく、しかも間違って訳している個所も結構あって、今は絶版だ。
 誰もが気軽に手に取って読める現代語訳は存在しないという状況だったのだ。

「ならば自分が」「誰もやらないなら、自分が」「少しは世の中のためになることをしたい」
と勢い込んで、4月から現代語訳に取り組み、この9月末に書店に並ぶ運びとなった。


幸之助翁と梅岩には丁稚から始めたという人生の共通点

 私は、ソニーに務めていた30数年も前の時代に、ライバル企業松下電器産業の創業者松下幸之助翁が座右の書としていた石田梅岩の代表作『都鄙問答』に関心を持った。
だが、それだけだった。

 石田梅岩は、江戸中期、吉宗の享保時代に活躍した人である。
 「石門心学」と呼ばれる梅岩の深い思想にも、さしたる興味もわかなかった。
 石門心学というのは、石田梅岩門下の心学という意味だ。
 PHP研究所は、松下幸之助翁が石田梅岩に倣って創設したということを聞いても、そういうものかとしか思わなかった。
 若かったのだ。

〝商人道の開祖〟石田梅岩は、自身が信じる「人としての道」である「心学」を、少しでも多くの人に知ってもらいたくて、40代になってから商店勤めを辞めて、私塾を開いた。
 PHP研究所にも、そういう精神が流れているはずだ。

 「『都鄙問答』には、商人としての根本が書いてあるから、経営者は必読すべし」
 と聞いても、私は経営者ではなく、一介のサラリーマンだったから、そこに説かれている「商人道」ということに強い関心を持つ立場でもなかったということもある。

 石田梅岩は、数えで11歳のときに京都の商家の丁稚になり、その店の経営が傾いたので、一度郷里の村(現在の京都府亀岡市)に帰ったが、23歳のときにまた京都の別の商家へ働きに出ている。だから、商売については詳しく、単なる思想家が説いた商人道ではないところに重みとリアリティがあり、説得力があるのだ。

 幸之助翁も9歳で丁稚から始め、商売には「正直さ」が大事だということを肌身で痛感したからこそ、梅岩が説く「正直と倹約」を中心とする「商人道」に強く共感したのだろう。

 松下幸之助翁も、経営に心を求めた。松下電器産業の創る家電製品には、昭和20年代、30年代の日本人の心の琴線に触れるものがあったから、同社は大飛躍できたのだ。
 自社だけが儲ければいいという視点ではなく、消費者が喜び、買ったことを感謝する商品を世に送り出す。


ソニーもシャープも、その底には「日本人の商人道」が流れていた
 
 ソニーは、日本人の商魂に西欧人のスピリットを加味して、世界に飛躍した。
井深大・盛田昭夫両創業者から帝王教育を受けて社長になった大賀典雄氏は、東京芸大出でドイツ留学の経験があり、自らジェット機の操縦までしたので、〝こてこての西欧風〟と思われがちだが、私がソニーにいた頃、「心の琴線に触れる商品をつくれ」と指令を出した。
「心の琴線に触れる」という表現は、まさに日本的であり、石田梅岩の商人道に通じるのである。

 シャープの創業者早川徳次翁も、シャープペンシルや(ベルトの)バックルを発明するなど西洋感覚の持ち主のように思えるが、義理人情にあつい日本人だった。

 「心を知り、本性を知り、心を磨き、人間を磨いてこそ、住みやすく平和な世の中になる」
 と考えた石田梅岩は、その教えを広めたい一心で、志のあるものなら誰でも参加できる無料の塾を公開した。
 そこに打算や欲得がなかった点が、今でも多くの人に尊敬の念を抱かせるのだ。

 京セラの創業者稲盛和夫氏は、30代で経営に悩んでいるときに石田梅岩んび出会い、感銘を受けたといっている。

 松下幸之助翁も、経営や仕事に悩んだら『都鄙問答』をよむことだ、と語っていた。

 興味を持った人は、ぜひ、一冊! 


 Photo_2 (現代語訳&解説:城島明彦/致知出版社) ※写真はクリックすると、でっかくなります

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 Photo_4 Photo_2 _cover  (致知出版社)


(城島明彦)

2016/09/10

平成初! 松下幸之助翁の座右の書(石田梅岩『都鄙問答』)、現代語訳で9月末発売!


経営者・ビジネスマン必読! 日本史上2冊目となる全文現代語訳『都鄙問答』(とひもんどう)


 江戸時代中期に活躍した石田梅岩の『都鄙問答』は、「日本のCSR(企業の社会的責任)の原点」といわれる書で、〝経営の神様〟といわれたパナソニックの創業者松下幸之助翁が座右の書とした書で、この2月に岩波文庫の「リクエスト復刊」された。

 石田梅岩の『都鄙問答』は、江戸時代、軽くみられていた商人の地位を初めて高めた点でも評価される。
 商人が「士農工商」という身分制度の一番下に置かれたのは、
 「農民や職人のように汗水流さず、品物を右から左へ流すだけで、金を儲けている。」
 という理由からだった。

 しかし、『都鄙問答』の原文は難しいので、古文に精通しているごく限られた人以外は、意味がよくわからず、まず読み通せない。

 松下幸之助翁が感銘を受けた名著でありながら、原文が難解で訳しづらいということもあってか、明治時代以降、全文を現代語訳した本は、たった1冊しかない。
 当初は、1972年に箱入り本、それを1984年にソフトカバーにして出版しているので、同じ内容である。もっと詳しくいうと、版元は中央公論社で、「日本の名著シリーズ」。訳者は評論家の加藤周一だ。

 その本は、日本の思想シリーズであり、富永仲基と合わせて1冊となっていた。
 この本は、学術的には意義があったが、普通のビジネスマンには手を出しにくい。
 一番大きな問題は、「問答」という書名に騙されて、全文を口語調にしたため、文章がまだるっこしくて、読みづらく、解釈がおかしい個所も結構あった。
 そういう本だったが、絶版になって久しい。


不祥事を起こす企業は、梅岩の唱えた「商人道」が欠落している

 縁あって、私は3年以上も、「広報会議」という月刊誌に「危機管理」をテーマにして、毎月、問題のある企業を取り上げて連載させてもらってきた。

 最近では、不祥事を犯した東芝、マクドナルド、東洋ゴム、ロッテなど、名だたる企業を取り上げてきた。

 そんな中で、よく頭をかすめたのが、そうした企業の経営者は、石田梅岩の『都鄙問答』を読んだことがあるのかという疑問だった。

 読もうとした人は、たくさんいるかもしれない。
 だが、本がない。手に入らない。
 岩波文庫で原文が復刊されたが、わからない。

 「ならば、自分がわかりやすい現代語にしようではないか」
 と思ったのが、執筆のきっかけである。
 「少しは世の中のためになることをしたい」
 という気持ちもあった。

 松下幸之助翁は、「経営にゆきづまったら、石田梅岩を読みなはれ」とよくいっていたそうである。

 「それほど大事な書なら、現代語訳されてて気軽に読まれなければならない」 
 と、私は思い、現代語訳したのだ。

 「経営者・ビジネスマン必読の書」
 であると私は思っている。
 
 松下幸之助翁が、『都鄙問答』のどの箇所に魅了されたのかを考えながら読むと、楽しいのではなかろうか。
 9月26日ごろには書店に並ぶということなので、ぜひ、手に取ってパラパラとページをめくっていただきたい。
 
Photo_2 (全文現代語訳 城島明彦/致知出版社) ※写真はクリックすると拡大できます


(城島明彦)

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2016/09/09

72歳で逝くのは早すぎるぞ、山下賢章(映画監督)!


まだまだ映画をつくるといっていたのに

 ネットのニュースの見出しを見て目を疑った。
 「映画監督の山下賢章氏が死去」
 会うために電話しようと思っていた矢先だったから、信じがたかった。
 8月8日のことだ。

 読売オンラインは、次のように報じていた。
《映画監督の山下賢章(やました・けんしょう)氏が8月16日、急性心不全で死去した。
 72歳。葬儀は近親者で済ませた。
 鹿児島県出身。1969年、東宝に入社し、岡本喜八監督の下で長く助監督を務めた。79年に監督デビューし、「19ナインティーン」「ゴジラVSスペースゴジラ」などを手がけた。》

 彼の死を知らずに、亡くなった一週間後にメールしていた。
 しかし、返事が来ないので、電話しようかと思いながら、仕事に忙殺され、連絡できずにいた。
 彼はヘビースモーカーで、私と会っていたときも、ひっきりなしにタバコを吸っていた。
 何回か注意したが、今更やめられなかったのだろう。
 それがよくなかったのではないか。

 私が最後に山下賢章に送ったメールを見ると、こんなふうになっていた。

《暑い夏も、あと少し。
 年々、体力の衰退を実感する日々です。
 お変わりありませんか。

 小生の方は、4月ごろから関わってきた
 石田梅岩『都鄙問答』の現代語訳がやっと
 ゲラの段階までたどり着き、
 これからゲラチェックに入ります。

 7月か8月にはまた会えると思っておりましたが、
 9月にずれ込みますので、よろしくお願いします。

 貴兄も、体に気をつけて頑張ってください。
 来年は、私も小説「○○〇」を書き、ぜひ映画化して、
 山下賢章の代表作になるようになればと思っています。》

 ※○○〇には具体的な名が入っているが、完成するまで非公開としたい。
 このメールを、私は彼の初七日に送っていたことになる。


河島英五を監督デビュー作に主役起用

 彼は、明るい気さくな性格で、昔から敬称などつけずに「けんしょう、けんしょう」と誰からも親しげに呼ばれ、彼もそれを嫌がらなかったので、私も敬称抜きで書かせてもらう。

 山下賢章は、私の青春時代の映画仲間だ。助監督として、東宝撮影所の同じ釜の飯を食べていたのだ。
 3年前だったと思うが、「東宝監督・助監督会」が毎年末に成城学園前で開いている忘年会に、その年初めて参加し、隣の席が彼だった。
 それからしばらくして、電話があり、「企画している映画があるので知恵を貸してくれないか」といわれ、田園都市線の「溝の口」駅で会い、それを契機に何度も会って、長時間にわたって、いろいろな話をした。


山下賢章と共にした仕事

 私が東宝にいたのは20代の3年間だけだ。
映画監督になりたいと思って助監督になったものの、旧態依然たる撮影現場とか人間関係が次第に苦痛になり、同社を辞めてソニーに転職したのだが、転職して3日後に福田純監督から会社に電話があり、「君が出していた企画が通って、自分が監督をやることになったので、シナリオを書いてくれないか。ついては、打ち合わせをしたい」とのこと。
26歳の4月のある日の出来事である。

 監督の自宅書斎などで打ち合わせをして執筆に取りかかったが、どうやって第一稿を書き終えたかはすっかり忘れてしまっている。しかし、監督はそれでは物足りないと考えたようで、田波靖男という売れっ子の脚本家が手を加えた。

 その田波靖男が加筆した第二稿は、会社の首脳にNGを出されたようで、また私に手伝えと監督はいってきた。

田波靖男からは、後日、「うちの会社に来ないか」「遊びに来ないか」と誘われたが、行かなかった。もし訪ねていたら、私はシナリオライターになっていたかもしれないが、訪問することはなかった。

 乗りかかった舟ということもあり、監督にいわれるまま、私はソニーを無断欠勤して、渋谷の有名な旅館「話可菜」に数日間こもってシナリオを執筆した。
 その後、小直しを求められたが、繰り返しソニーを休むわけにはいかず、あとは福田組についた助監督2人に手伝ってもらってほしいと伝えたので、4人の共同脚本という形になったが、私の企画であり、私が主力で書いたので、トップに名前を出してくれることになった。

 そのとき、私が後を託したのが山下賢章だったのだ。


「きかくじゅう」と私を呼んだ山下賢章

 山下賢章は、私のことを〝きかくじゅう〟と呼んでいた。
 くだらない企画を次から次へと会社に提出する怪しげな怪獣という意味の〝企画獣〟かと長いこと思っていたが、よく考えると、機関銃になぞらえて「企画銃」といっていたのだった。
 からかい半分にいわれてはいても、私はそのあだ名をひそかに気に入っていたので、訃報に接して、それがもう聞かれないと思って暗い気持ちになった。


在学中、撮影所の臨時募集に応募し助監督に

 彼は鹿児島の名門校ラサールを出て、浪人して早稲田の文学部(独文)に落ち着いており、私より年齢が2つ上だった。
 大学では学費稼ぎのために、ずいぶんアルバイトをしたようだ。

山下賢章は、東宝の助監督には在学中に試験を受けて就職し、助監督の先輩のアドバイスと会社との交渉のおかげで、特別に休みをもらい、卒業勉強をして試験を受け、無事卒業していた。

私も早稲田で学んだが、学部が政経学部だったので、在学中は面識がなかった。
私はきちんと卒業して東宝に就職し、新人研修を経て、〝10年ぶりの本社採用の助監督〟として東宝撮影所に配属してもらったが、彼はその前年、東宝撮影所が募集した助監督の中途採用試験に合格して助監督になっていた。つまり、職場では1年先輩になる。
しかし、同じ早稲田で同じ学年、同じ時代の空気を吸っていたということもあって、私も敬語は使わなかったし、彼もそれを望まなかった。


終の棲家となった狛江のマンション

 山下賢章は、私が東宝に入ったときには大学時代の同級生の女性と結婚して和泉多摩川にあった一軒家の借家に住んでいた。そこへ何度か遊びに行ったことがある。

 何年後かに、狛江のマンションを購入してそこへ移った。
 そのとき私は、山下賢章に頼まれて引っ越しを手伝った。

 奥さんとなった女性は、〝いいところのお嬢さん〟で出版社に就職し、編集者となって、1970年代に一世を風靡したエッセイスト・評論家の植草甚一の著作を数多く手がけている。彼女のいとこが、博報堂の名コピーライターを経て、後に同社の社長になる人物(戸田裕一)だ。

彼女のいた出版社の社長と東宝撮影所の制作部長は友人のようで、後に私が東宝を退社するとき、ソニーに再就職することは黙っていたので、心配した制作部長が、その出版社はどうかと親身にいってくれたことがある。
その人は、私が東宝に入社するときも映画監督森谷司郎と一緒に保証人の一人になってくれた人だった。


引っ越しの手伝いをし、泊まった思い出

 山下賢章の終の棲家は狛江のマンションとなったが、私は、彼がそこへ引っ越す手伝いをしている。

 夫妻がそのマンションに引っ越した当日、その新居に一泊し、まだ荷物が片付いていない部屋で、テレビ放送された古い映画「無法松の一生」を夫妻と一緒に観た。

 「無法松」(無法者の松五郎の略)こと人力車夫の松五郎に扮したのは、田村正和のお父さんの名優〝坂妻〟(坂東妻三郎)で、彼がひそかに心を寄せる良家の未亡人役が高峰秀子だ。


監督デビュー作の主役に河島英五を起用

 山下賢章が助監督から監督に昇進し、「トラブルマン 笑うと殺すゾ」という喜劇映画を撮ったのは1979年。助監督になってから10年目での監督昇進は、東宝では異例の早さだった。
 彼が記念すべきその第一作の主演に起用したのは、「酒と泪と男と女」を歌ってロングセラーとなった歌手の河島英五だった。
 冒頭のシーンは、ベッドで寝ている河島英五の足の裏のアップからパンする場面だったように記憶している。
山下賢章が尊敬し、師事していたのは岡本喜八監督で、監督初作品にもその影響が見て取れた。
 彼が助監督時代に会社に提出した企画に和田アキ子を主人公にしたものがあったが、河島英五といい和田アキ子といい、クセの強い関西風のカリスマ型人間を主人公にしたがった。その頃はまだ駆け出しにすぎなかった和田アキ子に目をつける嗅覚は、ただものではなかった。


試写会場で再会

 山下賢章が監督に昇進して第一作を演出した当時、私はソニーの宣伝部に在籍しており、部内で回覧される掲載誌を読んでいて、その映画の試写会が行われることを知り、当日、会場へ出かけて行った。
新宿の大きな映画館だったような記憶があるが、細かいことは忘れてしまった。

 その会場にいた山下夫妻が私を見て驚いていたのをいまもはっきり覚えている。
 私がソニーに移ったのは1973年なので、6年ぶりの再会だったが、以後、互いに異なる道を歩んでいたことから、会う機会もなく、長い歳月が流れた。

 一度だけ、芳文社で劇画誌の編集者をしている友人を紹介してもらい、原作を書いている。私が物書きになるはるか前の20代の頃の話だ。
 その後、山下賢章はゴジラ映画などの監督をしたが、他の多くの映画監督同様、自分がやりたい企画がなかなか通らず、苦慮していたようだ。
 

3年前から何度も会うようになった 

 東宝の監督会・助監督会で隣り合わせてから、しばらくたって、山下賢章から電話があった。
 田園都市線・南武線が合流する溝の口駅で待ち合わせ、食事しながら話を聞いた。
 岐阜の長良川あたりを舞台にした〝日本版スタンド・バイミー〟のような青春映画で、台本はすでにできており、映画化に向けて動いており、地元の協力を得る方向で進み、博報堂の社長とも話をし、関係部門の責任者を紹介してもらうなどしたが、資金面で壁にぶち当たっているという話をした。

 彼は、もう一作、やはり岐阜を舞台にした時代劇を考えていて、その脚本を私に書かないかと勧めたが、「映画化されるかどうかわからないものを書いているだけの余裕はない」と冷たく断ってしまった。
 「その代わりといっては何だが、来年、小説を一冊書く予定でいるので、それを映画化しないか」
 と私がいうと、いろいろなアイデアを出し、その後も、メールでアイデアを送ってくれた。

 いろいろなことが頭をよぎるが、あと一年でいいから長生きしてほしかった。

 9月25日に拙訳(現代語訳)の石田梅岩『都鄙問答』(到知出版社)が書店の店頭に並ぶ。天国で読んでほしい。

(城島明彦)

2016/09/06

徹夜だっ! ラストスパートだっ! 『都鄙問答』の再校ゲラだっ!


「もっとムチ打って、ヒーッ! カララムーチョ」ってか

 初校で完璧に直したつもりが、間違いがちょこまかとある。
 というわけで、老骨にムチ打って、今晩は徹夜。

 まったくもって、余力ゼロであります。

(城島明彦)

2016/09/03

なんじゃ、これは! ひどすぎるNHKスペシャル「ドラマ 戦艦武蔵」


独りよがりの薄っぺらいドラマ

 本日(9月3日)午後9時からのNHKスペシャルは、あまりにひどすぎる。
 無駄な金を使ったとしか思えない。

 一箇所だが、少尉が童話の話をするところで英語を使って話すところもあった。
 戦時中は、英語は禁止だというのは常識。

 回想場面に妙なソラリゼーション(画像反転)のような中途半端な映像処理がされ、しらけてしまう。

 タイトルに魅かれてみたが、演出方法が独善的で、ドラマ内容も稚拙で、あまりにひどく、途中でミルのをやめた。

 重いテーマをおもちゃにしているとしか思えず、「いいかげんにしろ!」といいたい。

(城島明彦)

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