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2016/09/09

72歳で逝くのは早すぎるぞ、山下賢章(映画監督)!


まだまだ映画をつくるといっていたのに

 ネットのニュースの見出しを見て目を疑った。
 「映画監督の山下賢章氏が死去」
 会うために電話しようと思っていた矢先だったから、信じがたかった。
 8月8日のことだ。

 読売オンラインは、次のように報じていた。
《映画監督の山下賢章(やました・けんしょう)氏が8月16日、急性心不全で死去した。
 72歳。葬儀は近親者で済ませた。
 鹿児島県出身。1969年、東宝に入社し、岡本喜八監督の下で長く助監督を務めた。79年に監督デビューし、「19ナインティーン」「ゴジラVSスペースゴジラ」などを手がけた。》

 彼の死を知らずに、亡くなった一週間後にメールしていた。
 しかし、返事が来ないので、電話しようかと思いながら、仕事に忙殺され、連絡できずにいた。
 彼はヘビースモーカーで、私と会っていたときも、ひっきりなしにタバコを吸っていた。
 何回か注意したが、今更やめられなかったのだろう。
 それがよくなかったのではないか。

 私が最後に山下賢章に送ったメールを見ると、こんなふうになっていた。

《暑い夏も、あと少し。
 年々、体力の衰退を実感する日々です。
 お変わりありませんか。

 小生の方は、4月ごろから関わってきた
 石田梅岩『都鄙問答』の現代語訳がやっと
 ゲラの段階までたどり着き、
 これからゲラチェックに入ります。

 7月か8月にはまた会えると思っておりましたが、
 9月にずれ込みますので、よろしくお願いします。

 貴兄も、体に気をつけて頑張ってください。
 来年は、私も小説「○○〇」を書き、ぜひ映画化して、
 山下賢章の代表作になるようになればと思っています。》

 ※○○〇には具体的な名が入っているが、完成するまで非公開としたい。
 このメールを、私は彼の初七日に送っていたことになる。


河島英五を監督デビュー作に主役起用

 彼は、明るい気さくな性格で、昔から敬称などつけずに「けんしょう、けんしょう」と誰からも親しげに呼ばれ、彼もそれを嫌がらなかったので、私も敬称抜きで書かせてもらう。

 山下賢章は、私の青春時代の映画仲間だ。助監督として、東宝撮影所の同じ釜の飯を食べていたのだ。
 3年前だったと思うが、「東宝監督・助監督会」が毎年末に成城学園前で開いている忘年会に、その年初めて参加し、隣の席が彼だった。
 それからしばらくして、電話があり、「企画している映画があるので知恵を貸してくれないか」といわれ、田園都市線の「溝の口」駅で会い、それを契機に何度も会って、長時間にわたって、いろいろな話をした。


山下賢章と共にした仕事

 私が東宝にいたのは20代の3年間だけだ。
映画監督になりたいと思って助監督になったものの、旧態依然たる撮影現場とか人間関係が次第に苦痛になり、同社を辞めてソニーに転職したのだが、転職して3日後に福田純監督から会社に電話があり、「君が出していた企画が通って、自分が監督をやることになったので、シナリオを書いてくれないか。ついては、打ち合わせをしたい」とのこと。
26歳の4月のある日の出来事である。

 監督の自宅書斎などで打ち合わせをして執筆に取りかかったが、どうやって第一稿を書き終えたかはすっかり忘れてしまっている。しかし、監督はそれでは物足りないと考えたようで、田波靖男という売れっ子の脚本家が手を加えた。

 その田波靖男が加筆した第二稿は、会社の首脳にNGを出されたようで、また私に手伝えと監督はいってきた。

田波靖男からは、後日、「うちの会社に来ないか」「遊びに来ないか」と誘われたが、行かなかった。もし訪ねていたら、私はシナリオライターになっていたかもしれないが、訪問することはなかった。

 乗りかかった舟ということもあり、監督にいわれるまま、私はソニーを無断欠勤して、渋谷の有名な旅館「話可菜」に数日間こもってシナリオを執筆した。
 その後、小直しを求められたが、繰り返しソニーを休むわけにはいかず、あとは福田組についた助監督2人に手伝ってもらってほしいと伝えたので、4人の共同脚本という形になったが、私の企画であり、私が主力で書いたので、トップに名前を出してくれることになった。

 そのとき、私が後を託したのが山下賢章だったのだ。


「きかくじゅう」と私を呼んだ山下賢章

 山下賢章は、私のことを〝きかくじゅう〟と呼んでいた。
 くだらない企画を次から次へと会社に提出する怪しげな怪獣という意味の〝企画獣〟かと長いこと思っていたが、よく考えると、機関銃になぞらえて「企画銃」といっていたのだった。
 からかい半分にいわれてはいても、私はそのあだ名をひそかに気に入っていたので、訃報に接して、それがもう聞かれないと思って暗い気持ちになった。


在学中、撮影所の臨時募集に応募し助監督に

 彼は鹿児島の名門校ラサールを出て、浪人して早稲田の文学部(独文)に落ち着いており、私より年齢が2つ上だった。
 大学では学費稼ぎのために、ずいぶんアルバイトをしたようだ。

山下賢章は、東宝の助監督には在学中に試験を受けて就職し、助監督の先輩のアドバイスと会社との交渉のおかげで、特別に休みをもらい、卒業勉強をして試験を受け、無事卒業していた。

私も早稲田で学んだが、学部が政経学部だったので、在学中は面識がなかった。
私はきちんと卒業して東宝に就職し、新人研修を経て、〝10年ぶりの本社採用の助監督〟として東宝撮影所に配属してもらったが、彼はその前年、東宝撮影所が募集した助監督の中途採用試験に合格して助監督になっていた。つまり、職場では1年先輩になる。
しかし、同じ早稲田で同じ学年、同じ時代の空気を吸っていたということもあって、私も敬語は使わなかったし、彼もそれを望まなかった。


終の棲家となった狛江のマンション

 山下賢章は、私が東宝に入ったときには大学時代の同級生の女性と結婚して和泉多摩川にあった一軒家の借家に住んでいた。そこへ何度か遊びに行ったことがある。

 何年後かに、狛江のマンションを購入してそこへ移った。
 そのとき私は、山下賢章に頼まれて引っ越しを手伝った。

 奥さんとなった女性は、〝いいところのお嬢さん〟で出版社に就職し、編集者となって、1970年代に一世を風靡したエッセイスト・評論家の植草甚一の著作を数多く手がけている。彼女のいとこが、博報堂の名コピーライターを経て、後に同社の社長になる人物(戸田裕一)だ。

彼女のいた出版社の社長と東宝撮影所の制作部長は友人のようで、後に私が東宝を退社するとき、ソニーに再就職することは黙っていたので、心配した制作部長が、その出版社はどうかと親身にいってくれたことがある。
その人は、私が東宝に入社するときも映画監督森谷司郎と一緒に保証人の一人になってくれた人だった。


引っ越しの手伝いをし、泊まった思い出

 山下賢章の終の棲家は狛江のマンションとなったが、私は、彼がそこへ引っ越す手伝いをしている。

 夫妻がそのマンションに引っ越した当日、その新居に一泊し、まだ荷物が片付いていない部屋で、テレビ放送された古い映画「無法松の一生」を夫妻と一緒に観た。

 「無法松」(無法者の松五郎の略)こと人力車夫の松五郎に扮したのは、田村正和のお父さんの名優〝坂妻〟(坂東妻三郎)で、彼がひそかに心を寄せる良家の未亡人役が高峰秀子だ。


監督デビュー作の主役に河島英五を起用

 山下賢章が助監督から監督に昇進し、「トラブルマン 笑うと殺すゾ」という喜劇映画を撮ったのは1979年。助監督になってから10年目での監督昇進は、東宝では異例の早さだった。
 彼が記念すべきその第一作の主演に起用したのは、「酒と泪と男と女」を歌ってロングセラーとなった歌手の河島英五だった。
 冒頭のシーンは、ベッドで寝ている河島英五の足の裏のアップからパンする場面だったように記憶している。
山下賢章が尊敬し、師事していたのは岡本喜八監督で、監督初作品にもその影響が見て取れた。
 彼が助監督時代に会社に提出した企画に和田アキ子を主人公にしたものがあったが、河島英五といい和田アキ子といい、クセの強い関西風のカリスマ型人間を主人公にしたがった。その頃はまだ駆け出しにすぎなかった和田アキ子に目をつける嗅覚は、ただものではなかった。


試写会場で再会

 山下賢章が監督に昇進して第一作を演出した当時、私はソニーの宣伝部に在籍しており、部内で回覧される掲載誌を読んでいて、その映画の試写会が行われることを知り、当日、会場へ出かけて行った。
新宿の大きな映画館だったような記憶があるが、細かいことは忘れてしまった。

 その会場にいた山下夫妻が私を見て驚いていたのをいまもはっきり覚えている。
 私がソニーに移ったのは1973年なので、6年ぶりの再会だったが、以後、互いに異なる道を歩んでいたことから、会う機会もなく、長い歳月が流れた。

 一度だけ、芳文社で劇画誌の編集者をしている友人を紹介してもらい、原作を書いている。私が物書きになるはるか前の20代の頃の話だ。
 その後、山下賢章はゴジラ映画などの監督をしたが、他の多くの映画監督同様、自分がやりたい企画がなかなか通らず、苦慮していたようだ。
 

3年前から何度も会うようになった 

 東宝の監督会・助監督会で隣り合わせてから、しばらくたって、山下賢章から電話があった。
 田園都市線・南武線が合流する溝の口駅で待ち合わせ、食事しながら話を聞いた。
 岐阜の長良川あたりを舞台にした〝日本版スタンド・バイミー〟のような青春映画で、台本はすでにできており、映画化に向けて動いており、地元の協力を得る方向で進み、博報堂の社長とも話をし、関係部門の責任者を紹介してもらうなどしたが、資金面で壁にぶち当たっているという話をした。

 彼は、もう一作、やはり岐阜を舞台にした時代劇を考えていて、その脚本を私に書かないかと勧めたが、「映画化されるかどうかわからないものを書いているだけの余裕はない」と冷たく断ってしまった。
 「その代わりといっては何だが、来年、小説を一冊書く予定でいるので、それを映画化しないか」
 と私がいうと、いろいろなアイデアを出し、その後も、メールでアイデアを送ってくれた。

 いろいろなことが頭をよぎるが、あと一年でいいから長生きしてほしかった。

 9月25日に拙訳(現代語訳)の石田梅岩『都鄙問答』(到知出版社)が書店の店頭に並ぶ。天国で読んでほしい。

(城島明彦)

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