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2016/05/24

60数戦無敗の宮本武蔵に勝った武将がいた!? その名は荒木又右衛門!


――というのは「講談本」(立川文庫)の説。寛永の御前試合で勝ったという。


50歳前後の武蔵が出場した「寛永御前試合」とは!?

 NHKのEテレの「100分de名著」が5月の名著として『五輪書』を取り上げ、その最終回が昨日(5月23日)に放送され、全4回の内容がわかりやすかったから、〝剣聖〟宮本武蔵に興味を持った人も多いのではないか。

 NHKでも「宮本武蔵は60戦して無敗」と説明していたが、厳密にいうと「60数戦して無敗」である。
 この戦歴は、武蔵自身が、
 「13歳から28、9歳までの間に60数戦して負けたことはない」
 と著書『五輪書』(ごりんのしょ)で語っていることに基づいている。

 原文では、こう書かれている。
 「六十余度迄勝負すといへども、一度も其利(そのり)をうしなはず。そのほど、十三より廿八、九迄の事也(なり)」(「地之巻」)

 武蔵が28、9歳のときの最後の真剣勝負が、慶長17(1612)年に巌流島で行われた佐々木小次郎との決闘である。
 30歳以後も、何人かと決闘ないしは試合をして撲殺するなどしているが、『五輪書』には記されておらず、謎が多い。

 真剣勝負で60数戦無敗――武蔵の剣は、まさに天下無双の剣といえるが、その後、武蔵は、三代将軍家光の眼前で挙行された「御前試合」(いわゆる〝寛永御前試合〟(かんえいのごぜんじあい)に出場し、負けている。
 もっとも、この試合そのものが「架空」とする説が強いが、この試合をテーマにした講談本「立川文庫」の「寛永御前試合」では、負けているのである。

 武蔵を負かした相手は、伊賀の「鍵屋の辻」で36人斬りをやってのけ、天下にその名をとどろかせた剣豪荒木又右衛門(あらきまたえもん)である。


荒木又右衛門とは何者か

 荒木又右衛門は、寛永11(1634年)に、義弟の渡辺数馬(わたなべかずま)の仇討に助太刀(すけだち)を買って出、伊賀の鍵屋の辻で本懐を遂げさせた剣豪だが、そのとき斬り倒した仇敵陣営の人数に尾ひれがついて、「36人斬り」といわれたのだ。
 この仇討には、双方の背後にいる武家同士のメンツもかかっていて、複雑な話になっているが、ここではそれは省略する。

 寛永年間は、江戸初期の20年間(1624年2月~1644年12月)で、三代将軍家光の御前で剣術の試合が行われた日時は、寛永9(1632)年、寛永11(1934)年、寛永13(1936)年の3説がある。

 天正12年(1584)年生まれの武蔵は、40代から50代にかけての頃になる。
 一方の又右衛門は、慶長4(1599)年生まれで、武蔵より15歳も若い。
 年齢的には又右衛門の方が有利だ。
 ただし、武蔵が「兵法の神髄に到達したのは50歳前後だった」と『五輪書』で回顧しているので、一般人の50歳とは訳が違う。


どんな試合だったのか

 以下は、立川文庫『寛永御前試合』に書かれた試合の様子だ。

 寛永の御前試合を発案したのは、〝天下の御意見番〟として、家康・秀忠・家光の三代に仕えた旗本大久保彦左衛門。
 家光自身も、剣の腕が立ったから即座に乗った。

 場所は、江戸城の吹上御庭(ふきあげのおにわ)。
 総掛役(そうかかりやく)は、〝知恵伊豆〟こと松平伊豆守。
 行司役(ぎょうじやく)は、小野治郎右衛門(じろうえもん/旧名 御子神典膳(みこがみてんぜん)。
 呼出役(よびだしやく)は、大久保彦左衛門。

 武蔵の出番は、
 「第三番に立ち出でたるは神免(しんめん)二刀流の元祖宮本武蔵」
 と記されている。

 「神免二刀流」というのは、武蔵の本名「新免」(しんめん)をもじったようだ。
「新免武蔵野守(むさしのかみ)藤原玄信(ふじわらのげんしん)」が本名で、武蔵は、自身の二刀流を「二天一流」と呼んでいる。


昔の講談本は、こんな風に書いている

 「両豪傑は悠然として庭前へ進み出る、将軍始め、一同は、之(こ)れぞ当日の書入(かきい)れ勝負と、固唾(かたず)を呑んで片肘(かたひじ)怒らせ、瞬(またたき)もせず見物する、両人は兼(かね)て懇意(こんい)の間柄ゆえ、叮嚀(ていねい)に会釈を為(な)し、荒木又右衛門は二尺三寸(約70センチ)の木剣、宮本武蔵は例の右剣左剣を携へ、行司の軍配引くと共に、東西に立ち分れ、荒木は中段、武蔵は右剣左剣を天地に構へ、エイヤツと互いに睨(にら)み合つたる其(そ)の有様(ありさま)、何処(いずこ)に一点鵜(う)の毛で突いた程の隙もない」
 と、立川文庫は、見てきたように書くのである。

 ここでは、武蔵と又右衛門は、顔見知りだったことになっている。
 武蔵は、長い方の太刀を右手に持ち、短い方の脇差を左手に持って構えた。
 対する荒木又右衛門は、中段の構えである。


勝負が決着した瞬間は!?

 続きは、城島流現代語訳で――

 なにしろ天下無双の豪傑同志だ。「エイ」「ヤッ」という気合いがしばらく交錯し、双方、間合いを計っていたが、これでは決着がつかぬと思った荒木又右衛門が、
 「エイッ!」
 と激しく打ち込んだ。
 武蔵は、その木剣を右の剣でガシッと受け止めると、左の剣で素早く又右衛門の小手を狙って打ちかかった。
 だが、又右衛門は、それをハッシと打ち払った。
打てば開き、開けば付け入って、まさに千変万化、虚々実々の駆け引きが続く勝負の展開は、荒木が「鬼神の勢い」なら、宮本は「摩利支天(まりしてん)の勇」ともいうべきもので、目にもとまらぬその早わざは電光石火のようだ。
 両者は、互いに負けず劣らず、ここを先途(せんど)と闘っていたが、今しも又右衛門が、「エイッ!」という鋭く大きな声もろともに、渾身の力を込めて木刀を打ち込んだ。
 武蔵は、その鋭い太刀先を、十字に組んだ二刀でガキッと受け止めた。
 だが、又右衛門の打ち込み方があまりにも激烈だったために、はからずも武蔵の「十字の構え」は破れ、右剣を思わず取り落とした。
 してやったりと、又右衛門はさらに畳みかけて切り込む勢いである。
 対する宮本武蔵は、しまったとばかりに、一歩うしろに飛びすさると、左剣を右手に持ち替えるが早いか、襲い来る又右衛門の剣をガシッと受け止めた。そして、
 「まいった……」
 又右衛門も、うしろへ飛び下がり、
 「いや、怪我(けが)の功名(こうみょう)、迚(とて)も我らの及ぶところではござらん」
 「何をいわれる、恐れ入ったるお腕前、某(それがし)の及ぶところではありませぬ」
 と、互いを認め、称賛し合ったのである。
 見物していた者たちは、その様子にすっかり酔いしれて、
 「ワアワア」
 と歓呼の声を挙げ、殿中(でんちゅう)は揺れんばかりだった。
 この勝負は、荒木又右衛門が武蔵の「十字の構え」を破った。両刀あればこそ武蔵も強いが、刀一本だけの勝負では、到底、荒木にかなわないから、又右衛門の勝ちとなったのである。
 行司役の小野治郎右衛門が、将軍家光の前に進み出て、こう解説した。
 「しかし、武蔵もなかなか豪(えら)いところがございます。とっさの場面でも、武術の嗜(たしな)みを忘れず、左剣をとっさに右手(めて)に持ち変えて受け止めるという、余人には到底まねのできない動きであります」
 将軍の御前に控えていた一同も、なるほどと合点し、
 「さすがは天下名題(なだい)の豪傑同志、見ていても骨が折れまする」
 などと感心しない者は、一人もいなかった。

 ――この記述がもし真実であるとするなら、荒木又右衛門の膂力(りょりょく/腕力)は相当のものである。
 武蔵は、巌流島の戦いで、〝物干しざお〟の異名を持つ佐々木小次郎の長い剣をかわし、舟の櫂(かい)でつくった木刀で頭を砕いたが、人並み外れた怪力でなければ、そんなことはできない。

 荒木又右衛門の木刀は、武蔵が巌流島で用いた木刀より短いが、その木刀で武蔵の右手の太刀を叩き落としたとすれば、その怪力は武蔵をしのぐものがあったと想像できる。
 そんな剣豪荒木又右衛門は、40歳で死んでいる。
 
 一方、武蔵は62歳まで生き、60歳のときに不朽の名著『五輪書』を洞窟にこもって書き残したのである。
 『五輪書』に書かれた内容は、単なる剣術の指南書ではない。
 私は、現代語訳のあとがきの見出しを、
 「人生の難所・難局を乗り切るための指南書」
 とした。

 (自己PR)
Photo_4 Photo_2 _cover  (致知出版社)

(城島明彦)

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