「恋路」(5月15日放送「真田丸」)の茶々と信繁の話は、荒唐無稽すぎる
「真田丸」は、「水戸黄門」「暴れん坊将軍」の線を狙っているのか!?
NHK大河炉ラマ「真田丸」は、どういう設定にすれば、ドラマが面白くなり、視聴率を稼げるか、という点を最重視している戦略が透けて見える。
視聴率を上げるためには、歴史的資料には決して出てこない、「実在の人物の名を借りた荒唐無稽な物語」にすることもいとわない。歴史的事実という「制約」を取っ払って、登場人物を作り手の都合のよいように好き勝手に動かすという手法だ。
そういうドラマづくりで成功したのが、「朝が来た」など一連のNHKの朝ドラ。
「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」などに代表されるドラマづくりの手法で、「実在の名を借りた荒唐無稽路線」である。
「真田丸」でいえば、真田信繁(幸村)が竹内結子扮する茶々(のちの淀君)に気に入られ、武具を収納した部屋に二人っきりで籠り、男女の仲を疑われるという設定。
歴史に詳しくない視聴者は、そういうことが実際にあったのかと思ってしまうところが〝罪つくり〟である。
そういう手法を用いれば、主人公は、歴史的に重要な場面のほとんどに直接関わることができる。いってみれば、きわめて安直なドラマづくりなのである。
信繁の姉も、面白さを狙って設定
信繁の姉の設定も、同様だ。
彼女を崖から飛び降りさせ、死んだと思わせておいて、「実は生きていた」「出雲阿国の一団に紛れ込んでいた」とする一連の設定は、完全なフィクション。
しかし、こちらは、彼女について細かく記した歴史的資料は存在しないから、生きていた時代さえ合えば、どのように設定しようと自由である。
茶々であろうが、秀吉であろうが、家康であろうが、現実を無視して真田信繁と親密に関わらせれば、話としては面白くなる。
極論すれば、本能寺で自害した織田信長が生きていて、織田信繁と会ってあれこれ話をしたというストーリーだって成り立つのである。信長の死骸は見つかっていないとされているのだから、生きている可能性だって否定はできないのだ。
しかし、信長が生きていたという設定にすると、話がややこしくなるから、そういう設定にはしない。要するに、NHK大河ドラマは、いかに話を面白くするかを念頭に置いた「ご都合主義」なのである。
「出雲阿国(いずものおくに)一座に行方不明の姉がいた」という設定
視聴者が、NHKの朝ドラにどういう設定を求め、大河ドラマに何を求めているかが、ドラマづくりのキーポイントとなる。
その点、「真田丸」では、どうすれば話が面白くなるかを第一に考え、「信繁の姉を死んだと見せかけて、歌舞伎の元祖となる阿国(おくに)歌舞伎の創始者である『出雲阿国(いずものおくに)』の一座に紛れ込ませるのがベスト」とNHKないしは脚本家の三谷幸喜は考えたのだ。
私のように「大河ドラマは史実を重視した重厚な演出をしてほしい」と思っている者からすると、「真田丸」の技法は邪道と映る。
しかし、面白ければ何をやってもいいのだ、と考える視聴者には歓迎されるだろう。
阿国については、確かなことはほとんどわかっていない。中村村の鍛冶屋の娘だったから、中村姓を名乗っていたとか、出雲大社の巫女をしていたなどとされているが、詳細については不明だ。
阿国歌舞伎は、女歌舞伎で女が男装もしたので、〝戦国の宝塚〟である。
出雲神社の神々に奉納する神楽をベースとして、それに念仏踊り、田楽、猿楽といった民衆舞踊がミックスされたと考えられている。
「文禄年間に出雲阿国を伏見城に招いて歌舞を演じさせた」
と記している古書もあるので、演芸が大好きだった秀吉が、多くの武将らと一緒に阿国歌舞伎を見た可能性は高いが、その一座に行方不明になっていた信繁の姉が混じっていたという可能性はゼロに近いが、そのことを100%否定できる資料もない。
文禄何年何月に阿国を伏見城に招いたかは不明だから、ドラマがいつに設定しようが問題はない。
問題は「説得力」
NHKは、彼女を行方不明とする方が劇的に盛り上がると考え、もっと劇的にするには「実は生きていた」、さらに面白くするには「阿国一座に紛れ込んで、信繁の前に現れる」とすれば、話はどんどんエスカレートしていく。
ドラマ設定の選択肢は一つではないから、彼女が誰かの側室になっていたという設定にしても一向にかまわないのである。たとえば、千利休がこっそり彼女を愛人として囲っていたとしてもいいのだ。
どういう設定にするかは、話が面白くなるかどうかという演出サイドの判断が基準になる。問題は「説得力」だ。
ありそうだと思わせる設定や描き方が大事なのだ。
それを欠くと、視聴者は「そんなバカな」と現実の世界に引き戻され、ドラマを見る気持ちがさめてしまう。
「茶々と信繁が怪しい仲だった」とするのは荒唐無稽
真田幸村の姉については、詳細な記録が残っていないので、どういう設定にしようが、どのように描こうが、問題はないが、秀吉の第二の正室となる茶々の場合は、出自もはっきりしており、記録も多少は残っているので、そうはいかない。
大河ドラマ「真田丸」では、茶々が信繁を気に入り、大胆にも武器倉庫にしてある部屋で二人きりになり、しなだれかかるという設定になっていた。
ドラマとして面白くはなるだろうが、荒唐無稽なつくり話である。
茶々が秀吉の〝第二の正室〟となって秀頼を生むが、それまで秀吉には子どもが生まれなかったことから、秀吉の子ではないと当時、噂になった。
秀頼は、その顔立ちが猿面冠者といわれていた秀吉とは似ても似つかず、美男の誉れ高かった大野治長(おおのはるなが)にそっくりだという噂が流れ、大野以外にも、石田三成の子ではないかなどという噂も流れていた。
茶々が淫乱な女であったかどうかはわからないが、秀頼は秀頼の子ではないとする噂は、落書もされるなどして当時の庶民にもよく知られていた話だが、やがて秀吉が死んで秀頼の代になると、徳川家康が豊臣家についている家臣を離反させるために仕組んだ情報戦略の一環として、尾ひれを付させた噂を流させたという見方も根強いのである。
たとえば、茶々が片桐且元(かたぎりかつもと)の手を握ると、堅物(かたぶつ)だった且元はその手を払いのけたという話などだ。且元は、豊臣家に仕えていたが、家康が政権を握ると徳川についた武将である。
ドラマには3つのパターンがある
視聴者は、NHKの大河ドラマに何を期待するのか。次の3つのいずれかである。
①史実重視
信頼できる資料のみを厳選し、歴史的事実をドクメンタリーとして追求する手法。
判明している事実だけを軸として、人物の動きや発言を創造していくので、面白みに欠けるきらいがあるが、重厚なイメージを与える。
前述したように、私が望んでいるのは、このパターンである。
②史実無視の荒唐無稽劇
テレビドラマ「水戸黄門」は、実在の人物の名を借りた荒唐無稽な物語。
「大岡越前守」の一連のドラマも、この範疇に入る。
8代将軍吉宗が勝手気ままに城を抜け出し、江戸市中で正義の剣を振るうという展開の「暴れん坊将軍」は、現実にはありえない物語だが、エンターテインメント性に富む。
③史実+独自解釈+フィクション
多くのドラマは、このパターン。
独自解釈やフィクションの部分を多くし過ぎて、ご都合主義に走り、視聴者の共感が得られなくなる危険性もある。
(城島明彦)
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