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2015/11/07

第44回「運命の糸つなげて」(「花燃ゆ」)で、松陰の遺書「留魂録」が大写しに


楫取素彦と「留魂録」には謎がある

 11月7日(土)に地上波で再放送される第44回「運命の糸つなげて」では、松陰が、江戸伝馬町の牢獄で1日半かけて処刑前日に書き上げた遺書「留魂録」が見つかり、そのアップ場面が何度かあった。

 幕府に取り上げられることを恐れて、松陰は遺書を2通用意し、1通は松下村塾生の手に渡ったが、重要なものなので、塾生らが手分けして何通か書き写した。
そうこうしているうちに、どういうわけか、その本物が紛失してしまった。

 残る1通はどうなったかというと、松陰は獄中の牢名主のような沼崎吉五郎という男に事情を説明して、それを託すのである。
「これを、長州藩のものに渡してほしい」

 松陰処刑後、沼崎は三宅島へ島流しになるが、獄中で松陰と交わした約束を守り、来ていた着物の襟の中に「留魂録」を縫い込んで、隠し続けたのだ。

 時代は変わり、明治の世となり、沼崎は恩赦によりに自由の身となって、本土の土を踏むのだ。

 廃藩置県によって、三宅島は、当時、足柄縣に属し、県庁は小田原にあった。
 楫取素彦は、最初、そこに勤めていたのである。役職は、県令(知事)ではなく、参与(副知事)だ。
 そんな楫取素彦のもとへ、ある日、「真筆の『留魂録』がみつかった」といって、それを持参した者がいたのである。鹿取が書いた日記にそのことが記されている。
 楫取は、そのとき初めて、真筆の「留魂録」を目にしたのだが、なぜか、買い取らず、そのまま返している。
 楫取素彦が群馬県令になるのは、そのあとなのである。

 楫取素彦は、単身赴任で、妻の寿や美和は長州にいた。
 そういうこともあるためか、NHKは、楫取素彦が長州からいきなり群馬県令になったかのように描いた。一種のご都合主義である。

 第44回では、群馬にいる楫取素彦を松下村塾生だった野村靖が訪ねて、真筆の「留魂録」が見つかったと報告し、それを文と一緒に見ている場面が描かれた。


大河ドラマのドラマづくりは安易すぎる

 しかし、それは歴史的事実ではなかったのだ。
 楫取素彦は、小田原にいるときに、「留魂録」を見ているのだ。
 その間の事情は長くなるので、詳細は省くが、それが事実である。
 興味のある方は、「留魂録」を現代語訳し、松陰の生涯と「留魂録」の謎について書いた拙著『吉田松陰「留魂録」』(致知出版社)をお読みください。
  (ついPRになってしまったが、そういうことである)

 その本の表紙に使われているのは、現在松陰神社に残っている真筆の「留魂録」の写真である。

 「ドラマだから、どう描こうが自由」という考え方もあるが、私は、「NHKなのだから、歴史的事実は歴史的事実としてきちんと押さえた上で、その制約のなかで、どうすればドラマとして面白く描けるか」という考え方である。

 ドラマづくりにどうして無理が生じているかといえば、幕末・維新という日本史上屈指の大激動期を語ったり説明したりするのに、「吉田松陰の妹」というだけの人物では不足だということだ。

 要するに多数の視聴者が大河ドラマに期待しているのは、日本の激動期に関わった重要人物たちの挙動とか思想といったものであり、そういう点が文を中心にすると脱落してしまうのである。それを無理に補おうとして、あることないことどころか、内ことないことばかりを並べ立てなければならない苦しいドラマづくりに立たされているのが、NHK大河ドラマなのだ。


小道具「留魂録」はよくできていた

 11月1日(日)の放送で「留魂録」が亜アップされた画面では、NHKの美術班が作った「留魂録」は、実に精巧につくられていて、思わず「それ、ちょうだい」といいたくなるくらいだった。

 大河ドラマで感心するのは、松陰の実家の杉家などがよくできていることで、「さすがNHK」と褒めたくなるが、肝心のドラマの描き方がイマイチなのは困ったものだ。

(城島明彦)

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