〝人格者〞敏三郎(松陰の弟)の死に泣かされた――死の場面の演出が巧みな「花燃ゆ」
富岡製糸工場を描く第42回「世界に賭ける糸」
11月に発売される現代語訳『貝原益軒「養生訓」』のゲラが届いたので、そちらに短期全力集中という事態になったが、その合間を縫って「花燃ゆ」を見た。
第42回は、文(改め美和)の姉の夫である楫取素彦が群馬県令となって、群馬に赴任し、製糸業に力を入れようとする話がメインだが、松陰の弟の敏三郎が死ぬ場面が出てきた。
文の弟の杉敏三郎(すぎ としさぶろう)は、生まれたとき聾唖というハンディを背負っていたが、立派な人物だったようだ。
松陰の実兄杉民治の長男で、吉田家を継いだ吉田小太郎が、敏三郎の死から24日後に「叔父杉敏三郎傳」と題したごく短い漢文の文章を残している。
顔つきは、吉田松陰とよく似ていたと書かれているので、面長で少し釣り目だったかもしれない。
性格は清廉潔白、幼少時に文字を学び、大の読書家となった。
清潔好きで、一日に何度も部屋を掃除し、手先が器用で能書家だった。
きちょうめんで、部屋に余計なものを置かなかった。
父や兄松陰が読書していると、そのそばに座って、その書物を注視してそばから離れず、いつも本を左右の手に携えていたそうで、松陰の影響を色濃く受けていることがわかる。
先祖の霊を敬い、仏壇に香をあげることを怠らず、他人を怒ることは一度もなかった。
まさに、「人格者」そのものだったのである。
その敏三郎の死の場面を現代語訳すると、次のようになる。
《明治9年(1876年)2月1日夜半、突然病気になったので、親戚一同が病床に集まった。岡田という医者を招いて薬を飲ませたが、効き目はなく、ついに死んでしまった。
日頃の行いが人から賞賛される生き方をしてきたので、家族や親戚は声をあげて泣いた。
他の人たちも、その死を深く哀れんだ。》
享年32。それでも、松陰より2年長生きした。
大河ドラマでは、風邪をこじらせたと説明していたが、小太郎の文章では「卒然疾發」(突然、病を発した)となっている。
ドラマでは、檀ふみが演じる母滝が、「親よりも早く死んだ」といって激しく泣く場面が印象的だった。
彼女は、吉田松陰が処刑されたときも泣かない気丈な女性だったが、ハンディを背負いながら健気(けなげ)に生きた敏三郎の死を前にしては、やはり泣くしかなかったのだろう。
私は、「花燃ゆ」の描き方にはずっと批判的だったが、よく考えてみると、何人かの死の場面で思わず泣かされていたことに気づいた。NHKの演出陣は、「お涙ちょうだい」が得意なのかもしれない。
(城島明彦)
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