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2015/10/22

体力が落ちた実感――単行本の校正刷り(ゲラ)と格闘中


ゲランは香水、ゲラは校正刷り、クマゲラは木つつき

 11月発売の貝原益軒『養生訓』(現代語訳)のゲラを校正中。
 ページ数が360ページを超えていて、えらくしんどい。
 
 原文は改行などなく、ズラズラと文字が並んでいるが、現代語訳もそのようにすると、読者が圧迫感を受けるし、見た目もきれいではないから、6行か7行で改行している。

 年はとりたくない。以前と比べて、長時間の作業がきつくなってきた。
 そこで、狂歌の強化合宿でござる。

   ゲラゲラと 笑う余裕も ない日々と
       愚痴ってみても ゲラは答えず

 (おまけ)
 ダジャレおじさん、登場!

 ああ、しんど。
 シンドバッドにアルシンド、これがほんとの〝しんどシンドローム〞ってか?

(城島明彦)

2015/10/19

〝人格者〞敏三郎(松陰の弟)の死に泣かされた――死の場面の演出が巧みな「花燃ゆ」 


富岡製糸工場を描く第42回「世界に賭ける糸」

 11月に発売される現代語訳『貝原益軒「養生訓」』のゲラが届いたので、そちらに短期全力集中という事態になったが、その合間を縫って「花燃ゆ」を見た。
 
 第42回は、文(改め美和)の姉の夫である楫取素彦が群馬県令となって、群馬に赴任し、製糸業に力を入れようとする話がメインだが、松陰の弟の敏三郎が死ぬ場面が出てきた。

 文の弟の杉敏三郎(すぎ としさぶろう)は、生まれたとき聾唖というハンディを背負っていたが、立派な人物だったようだ。

 松陰の実兄杉民治の長男で、吉田家を継いだ吉田小太郎が、敏三郎の死から24日後に「叔父杉敏三郎傳」と題したごく短い漢文の文章を残している。

 顔つきは、吉田松陰とよく似ていたと書かれているので、面長で少し釣り目だったかもしれない。
 性格は清廉潔白、幼少時に文字を学び、大の読書家となった。
 清潔好きで、一日に何度も部屋を掃除し、手先が器用で能書家だった。
 きちょうめんで、部屋に余計なものを置かなかった。
 父や兄松陰が読書していると、そのそばに座って、その書物を注視してそばから離れず、いつも本を左右の手に携えていたそうで、松陰の影響を色濃く受けていることがわかる。
 先祖の霊を敬い、仏壇に香をあげることを怠らず、他人を怒ることは一度もなかった。

 まさに、「人格者」そのものだったのである。
 その敏三郎の死の場面を現代語訳すると、次のようになる。

 《明治9年(1876年)2月1日夜半、突然病気になったので、親戚一同が病床に集まった。岡田という医者を招いて薬を飲ませたが、効き目はなく、ついに死んでしまった。
 日頃の行いが人から賞賛される生き方をしてきたので、家族や親戚は声をあげて泣いた。
 他の人たちも、その死を深く哀れんだ。》

 享年32。それでも、松陰より2年長生きした。

 大河ドラマでは、風邪をこじらせたと説明していたが、小太郎の文章では「卒然疾發」(突然、病を発した)となっている。
 ドラマでは、檀ふみが演じる母滝が、「親よりも早く死んだ」といって激しく泣く場面が印象的だった。
 彼女は、吉田松陰が処刑されたときも泣かない気丈な女性だったが、ハンディを背負いながら健気(けなげ)に生きた敏三郎の死を前にしては、やはり泣くしかなかったのだろう。

 私は、「花燃ゆ」の描き方にはずっと批判的だったが、よく考えてみると、何人かの死の場面で思わず泣かされていたことに気づいた。NHKの演出陣は、「お涙ちょうだい」が得意なのかもしれない。

(城島明彦)

2015/10/17

「花燃ゆ」の小田村家(文の再婚先)の親戚の人と会った


初代群馬県知事(県令)小田村伊之助(楫取素彦)の家系

 「花燃ゆ」の第41回「いざ、群馬へ」が放送された翌々日(10月13日)、神田で小田村家(文の再婚家先)の親戚という人に会った。

 ハドソン研究所の上級研究員磯村順二郎さんだ。

 別れしなの立ち話なので、細かいことは聞けなかったが、磯村さんの祖父の妹が小田村家へと継いでおり、いまでも小田村家(楫取家)とは親戚づきあいがあるということだった。

 ハドソン研究所は、アメリカの未来学者ハーマン・カーンが1961年に創設した保守系シンクタンクで、安倍首相は2013年に外国人初のハーマン・カーン賞を受賞し、演説した。同省は、レーガン元大統領、キッシンジャー元国務長官らが過去に受賞している。

 小田村伊之助(改め楫取素彦)は、清濁あわせのむ性格ではなく、誠実で温厚な人柄だったようだが、そのことが災いしたのか、政治家としての力量は木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文らに及ばず、中央政界では名を成せなかった。
 木戸孝允は、幕末動乱期には〝逃げの小五郎〞といわれ、危険な場面では巧妙にその場から闘争し、命永らえ、維新の元勲となった。

 伊藤博文は、松下村塾時代に松陰が〝周旋屋〞だと見抜いていたように、政界で生きていくのにふさわしい人物だった。
 松陰のすごいところは、長所短所をすばやく見抜き、各人に合った個別教育を行った点だ。いいところは褒め、悪いところは直させるように指導した。
 教師として最高の資質を備えた人物。それが吉田松陰である。


楫取素彦は松陰の親友にして義弟

 松陰は、一本気で、曲がったことが嫌いな性格で、嘘がつけないタイプ。そういう点が小田村伊之助と共通していたのかもしれない。
 松陰と小田村伊之助は、藩主毛利敬親(たかちか)の参勤交代にしたがって江戸の藩邸へいき、そこで親友になったといわれている。

 そういう間柄だったことから、松陰は、優香が扮する妹・寿(ひさ)と結婚させたのだが、彼女は40代前半に病気で亡くなり、妹の文(のち、美和に改名)が後妻になるのだ。
 寿は次女で、文は4女。間に三女の艶がいたが早世したため、実質的には三姉妹である。
 
 ▼吉田家の三姉妹
 ①長女 千代(芳) ②次女 寿 ③3女 艶(早世) ④4女 文(美和)

 ▼次女 寿  天保10年生まれ
 千代より7歳下、文より4歳上。〝烈婦〞といわれた気丈な女性だったようだが、病気になり、明治14年(1881年)1月に43歳の若さで没した。
 寿についての記録を読むと、芯の強い信念の人だったようだ。
 優香が演じた寿は、武士の娘・武家の妻・武家の母として、凛としていて、実像と近いのではないかと思わせる。優香は、新境地で演技開眼したのではないか。

 ▼4女 文(美和) 天保14年生まれ
 大正10年(1921年)に79歳で没した。


玉木文之進の自刃の介錯をした文の姉を無視してきたNHKの演出

 NHK大河ドラマは、長女の千代を無視し、登場させてこなかった。
 この人を登場させると、文の影が薄くなり、ドラマづくりの上で困るからだ。
 だが、この女性は松陰を語る上で、絶対にはずせない人物である。

 松下村塾出身で、明治政府の中枢にいた前原一誠が、廃藩置県に対する不満から野に下り、不平士族を率いて「萩の乱」(明治9年)を起こし、政府軍と戦って死ぬ。
 乱には、松陰や文の叔父である玉木文之進の子(養子)正誼(まさよし)も加わっており、戦死する。

 正誼は、明治の偉人・乃木希典(まれすけ)の実弟。乃木希典は、若い頃、玉木文之進に居候して教えを受けた間柄なのだ。

 萩の乱には松下村塾生も何人か加わっており、玉木文之進は、その責任を取って先祖の墓前で自刃する。
 そのとき、介錯を頼んだのは、文の姉千代である。

 千代は、長州藩士の児玉家に嫁いでいる。

 文の母滝(萩藩家老の家臣・村田右中の娘)が父杉百合之助(すぎ ゆりのすけ)と結婚する際、身分的な調和を取るために、滝は、いったん児玉家に養女に入った形にして「家格」を上げてから杉家に嫁いだという関係にあったことから、今度は、滝の長女千代(のち、改め芳子)が児玉家に嫁いだのである。
 要するに、児玉家は、母の実家であり、松陰の妹が嫁いだ家であり、かなり重要な親戚だ。にもかかわらず、NHKは、ドラマづくりがややこしくなるという理由から、そのことを無視し続けてきた。

 玉木文之進の自刃をNHKがどう演出するのか、見ものだ。


松陰は、2人の妹を「藩医の次男坊」と結婚させた

 話を小田村伊之助(楫取素彦)に戻す。
 伊之助は、藩医松島瑞蟠(ずいはん)の次男だったが、小田村家に養子に入ったことで、名字が変わった。小田村家は代々、儒官である。

 文の最初の夫となった久坂玄瑞も、藩医の次男。
 しかも、2人は藩医にはならず、武士となった。

 当時の医者は儒者でもあり、そういう点も、孔孟思想を尊崇していた松陰の好みだったのかもしれない。


文は当初、楫取素彦との再婚を嫌がっていた

 長姉千代の証言によると、文は楫取素彦との再婚を当初は拒んでいたが、母親の強い説得で折れたのが事実だが、NHKは、そういうところには目をつむり、小田村伊之助は文の初恋の相手とし、再婚が不自然にならないように二人の関係を構築した。ドラマを面白くするためなら何でもやるのが、NHK大河ドラマの方針なのだ。

 歴史好きなファンは、そういうドラマづくりに反発する。NHKに求めているのは、綿密な取材力によって、それまで知られていなかった歴史的事実を発掘し、その新資料を駆使したドラマづくりである。NHKにはそれができるのに、そうしない。そこに問題がある。

 NHKにはNHKのやり方があってしかるべきだが、NHKは民放ではない。受信料でドラマをつくっている。NHKの大河ドラマの制作陣は、そのことが頭から飛んでいるのではないか。
 視聴者に迎合せよというのではない。「視聴者は、どれが嘘で、どれが真実か、知りやしない」と考えて、事実をねじまげて話を面白くするようなやり方は、公共放送であるNHKがやってはいけないといいたいのだ。

 一昨日の当ブログにも書いたが、2011年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」では、歴史学者で時代考証をやった小和田先生が「小谷城は燃えていない」といっているのに、ディレクターは小谷城を大炎上させた。日本史を知らない子どもたちは、それが事実だと信じてしまう。歴史を捻じ曲げてしまっているのだ。燃えてもいない城を炎上させるのが通じるのなら、織田信長を本能寺の変で殺す必要もなくなるし、関が原の合戦で徳川方を圧勝させる必要もなくなる。

 そこまでやらないと視聴率が取れないというのなら、そんなドラマはつくらない方がましだ。デタラメなドラマは民法に任せておけばいいではないか。


ドラマの嘘(「二条窪」からいきなり「群馬」ではない)

 「花燃ゆ」の第41回「いざ、群馬へ」では、文(改め美和)の義兄小田村伊之助(改め楫取素彦)は、二条窪(現在の長門市)の片田舎に引っ込んで百姓をしていたが、政府要人となっている桂小五郎(改め木戸孝允)が訪ねてきて、「群馬県令になってほしい」と懇願され、文も同行するという話になっていた。

 だが、実際の楫取素彦は、足柄縣(あしがらけん)の「参与」に任命されて、病身の妻寿(ひさ)を二条窪へ残し、足柄縣の県庁所在地小田原へ明治5年(1872年)に赴任している。
 
 その時代に〝吉田松陰にまつわる極めて重要な出来事〞があったが、NHKはそれをすっ飛ばしている。
足柄縣の時代を端折(はしょ)った理由は、楫取素彦が拝命した「参与」が、足柄縣庁のナンバー1ではなかったから、ドラマとして面白くないと考えたからではないか。

 楫取素彦は、小田原に2年勤務した後、熊谷縣の「権令」(ごんのかみ。今の知事にあたる。のち「県令」に改称)となって同地に赴任し、そのときに妻も同行するのだ。
 ドラマで描かれた群馬縣の「縣令」となるのは、さらにその2年後の明治9年夏。NHKは、ドラマの話を面白くするために、その間の4年間をネグレクトした。

 明治4年の廃藩置県施行後も、何度か府県統合が行われたため、縣名はしばしば変り、廃止される縣もずいぶん出た。足柄縣は明治9年に廃止され、その府県再編にともなって楫取素彦は熊谷縣の「権令」に出世するのだ。

 その間を省略するのはかまわないが、楫取素彦が二条窪から一足飛びに群馬へ赴任したかのように視聴者に思わせるような演出方法が罪深いのだ。


久坂玄瑞と芸者辰路の子

 文の最初の夫久坂玄瑞は、薩長ほかの幕府軍との戦い「禁門の変」で深手を負い、自刃して果てた。

 久坂玄瑞は文の間に子はもうけなかったので、小田村伊之助と寿の次男を一時、養子に迎えたが、久坂玄瑞が京都の芸者に生ませた子(秀次郎)があることが発覚して、養子縁組は解消され、その次男も小田村(改め楫取)姓を継承することになる。

 今日の久坂家は、芸者辰路が生んだ秀次郎の末裔がを継いでいる。
 ▼久坂玄瑞の子 秀次郎(母は芸者辰路こと佐々木ひろ)  昭和7年没。


「花燃ゆ」は「吉田家の三姉妹」の方がよかったかも

 多くの視聴者は、文の姉妹は優香扮する寿だけと思っているのではないか。
 重要な人物である千代が抜けている。 千代は、幕末・明治・大正を生きた人で、松陰と年齢が近く、松陰のことを一番よく知っているというので、明治・大正時代の雑誌の取材を受けたのは、この人であり、彼女より7つ下の文(美和)ではない。

 ▼長女 千代(のち、改め芳子) 天保3年生まれ
 三姉妹のうちで一番長生きしたのは、児玉家に嫁いだ長女の千代(のち、改め芳子)。関東大震災の翌年に93歳で亡くなっている。文より11歳上で、幼児期の文をおぶったり世話をしたりしている。
 だが、NHKは、繰り返すが、この人を登場させていない。
 吉田松陰の吉田家を継いだのは、この千代が生んだ末子・庫三で、最初、小田村家に養われていた。今日の吉田家は、庫三の子孫である。

 「花燃ゆ」は、文を含めた三姉妹を同格の主人公にした方がよかったのではないか、と私は思う。

 明治100年に当たる1967年(昭和42年)のNHK大河ドラマに「三姉妹」というのがあったが、平成版では、
 「吉田家の三姉妹」あるいは「花燃ゆ~吉田松陰の三人の妹~」
 にした方が盛り上がったのではないか。

 岡田茉莉子、藤村志保、栗原小巻が貧乏旗本の幕末三姉妹を演じて、たいそうな人気だった。

 「花燃ゆ」というタイトルはなかなかいいと思うが、文(のち、改名して美和)を主人公にしたところに数々の無理・無茶が生じた。一番長生きした千代を登場させないのであれば、ナレーターとして、松陰のことや文のことを語らせるという手法もあったのではないか。
 

小田村伊之助が松陰のホンモノの遺書『留魂録』を見たのは足柄縣にいたとき

 吉田松陰は処刑される前日に遺書『留魂録』を2通書いたが、1冊は松下村塾で回し読みされているうちに紛失。
 もう一通は、獄舎で同室だった男に託す。その男は流罪となり伊豆大島に流されるが、その間ずっと隠し持ってうて、明治二なり、恩赦を受けてシャバに出、その遺書を松陰の教え子に渡す。

 それを受け取ったものが、松陰の義弟にあたるという理由で、足柄縣の参与をしていた楫取素彦を訪ねてくるという重要な話がある。その一件は、楫取素彦の日記に記されている。しかし、NHKはこの話もすっ飛ばした。

 松陰の真筆『留魂録』の顛末については、拙著『吉田松陰「留魂録」』に詳しいので、興味のある方はそちらをぜひどうぞ。(と、卒なく宣伝だ))

Photo_2


 小田村伊之助の話から、あっちへ飛び、こっちへ飛んでしまったので、今日のテーマは、「花燃ゆ」関連の雑談といったところか。


 (城島明彦)


2015/10/15

「花燃ゆ」など時代考証無視! 視聴者をバカ扱いするNHK大河の〝誇張手法〞とは?


「燃えていない城を炎上させた」と時代考証担当(大学名誉教授)の証言

 以前に読んだ小和田哲男静岡大名誉教授の『戦国大名と読書』(柏書房)をめくっていたら、その中にある「コラム」に、NHK大河ドラマのレベルの低さが指摘してあった。
 日本史に詳しい人なら誰でも知っている小和田先生、
 その先生のコラムの見出しは、「小谷(おだに)城は焼けていない」。

 《二〇一一年のNHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』は、私が時代考証を務めたが、同じ研究者仲間から、「時代考証をちゃんとやって下さい」という注文がきた。それは、浅井長政の居城小谷城を織田信長が攻めた時のシーンに関してであった。
 信長の詳しい伝記『信長記』にも、信長が小谷城に火をかけたとは書かれていない。また、発掘調査でも焼けた痕跡は出ていないので、私の著書でも、「信長は小谷城には火をかけなかった」と書いている。
 ところが、収録直前、NHKのディレクターから、「お市が三人の娘を連れて城を出る時、城の方を振り返る。そのとき、どこからも煙があがっていないと、見ている人が落城と思ってくれないので、少しだけでいいですから火をつけて下さい」と懇願され、「ちょっとだけですよ」と許可したところ、大々的に燃え上がるシーンに仕上がっていたのである。》

 燃えていない城を大炎上させないと、ドラマが盛り上がらないから、火をつける。
 NHKの大河ドラマは、こんなレベルだ。

 「花燃ゆ」にしても、文が松下村塾生たちと頻繁に会話し、高杉晋作の臨終に立会ったり、奥に入れば入ったで、殿さまと直接対話したり、奥方などとに知恵を授けたりする。

 どこにでもシャシャリ出ないと話が盛りあがらないのだろうが、ドラマとして面白ければ、何をしてもいいというわけではない。

 燃えてもいない城を炎上させる手法が危険なのは、久坂玄瑞は禁門の変で死ななくてもよくなるし、殺された坂本龍馬は別人だったという話にしてもよくなってしまうからだ。
 極端な話、「吉田松陰は女だった」でもいいわけだ。

 史実は史実としてきちんと押さえ、それでも不明なところは、歴史的な資料に基づいて「おそらくこうであったろう」と推理した上でドラマづくりをしないと、〝SF〞大河ドラマになってしまう。
 視聴者は、NHK大河ドラマにそういう演出を望んではいない。
 だから、視聴率が伸びないのだ。

 (城島明彦)

2015/10/12

一億総活躍担当相? オー、ノー! 〝一億総括約筋〞を鍛える時代だよ!


一億総活躍? なんのこっちゃ?

 犬も歩けば棒に当たるは、昔の話。
 今の時代は、犬も歩けばジジババに当たる。
 渡る世間は鬼婆・鬼爺ばかり。
 捨てる紙あれば、拾う紙あり、疲労こんぱい林家こん平のコンペイ糖コンペ大会。

 白地に赤い〝高齢者大国ニッポン、茶茶茶〞としては、
 〝一億総括約筋担当相〞の方がしっくりくるのではないじゃろか。

 ジジババになれば、「括約筋」が弱ってまいります。
 これを鍛えれば、勇気凛々、二時の色。賛辞のあなた。四時とは「四季」のことでございます。
 なんのこっちゃ。紅茶きのこ。
 紅茶きのこも、ジジババしかピンとこない時代になってしまいましたな。


敬老の日? なんのこっちゃ

 「毛色の変った屁」なら出るが、敬老なんて、クソ食らえ!
 昔から、成功の秘訣は「運鈍根」と申します。おっと、ウン違いだった。
 ニッポン、茶茶茶! 


ウン故知新

 「温故知新」を「おんこちしん」と読んでいませんかな。
 温州みかんの「温州」は「うんしゅう」と読みますな。
 てぇと、「温故知新」も「うんこちしん」と読むのが正しいかもしれませんな。

 いずれにせよ、「温故知新」は、ジジババに関係が深いですぞ。
 古木を訪ねて幾千里。
 いやいや、いまじゃ古木どころか枯木でございます。

 枯木がなんだ、枯木灘?
 木は気じゃよ。

 ♪ この気 なんの気 気になる気

 若かりし頃は、
 ♪金色 銀色 桃色吐息

 それが今じゃ、 
 ♪黄色 銀杏(ぎんなん) クソ色吐息
 ♪ この黄 なんの黄 気になる黄
 年はとりたくありませんなぁ、ご同輩!


「ジジババの日」で十分

 よせやい、「敬老」なんてよしとくれ。
 「こどもの日」があるのだから、「ジジババの日」で十分じゃござんせんか。

 なぬっ? 「ジジババ」じゃストレートすぎるってか?

 年を取ると、顔がだんだん猿に似てまいりますな。
 これを「過ぎたるは及ば猿(ざる)が如し」といいますな、グラッチェ。
 及ば猿ってどんな猿? さるお方とは、去るお方? それとも顔が猿っぽいお方?


「敬老の日」改め「一億総括約筋の日」にせよ

 初老の頃は「俳諧老人」、それが今じゃ「徘徊老人」じゃありませんか。
 ありまっ! 有馬御殿の化け猫騒動。
 夜の巷を白い浴衣でさまよいつつ、「ハイサイおじさん」の旋律で、

 ♪はいかいおじさん、はいかいおじさん
 
 そこへ、たまたま知り合いの泥酔親父が通りかかり、声かけたからウンがよかった。
 「早くおうちへ帰(けえ)ろ。カラスが鳴くから、ケーロネア」
 ケーロネアの戦いは、「さんざや(338年)られて負けドネア」でございます。
 な、なんと、紀元前338年、古代ギリシャのアテネ・テーベ連合軍は、マケドネアに負けたのでありました。

 なんのこっちゃで、コチャバンバ。
 バンバといえば、ババアのことじゃござんせん、「番場(ばんば)の忠太郎(ちゅうたろう)」でござんす。
 子(ね)の年の子の刻生まれで、しかも、産声が「オギャア」ではなく、「チュー」だったからと、おっかさんが「忠太郎」と名づけたと聞いておりやす。

 ほんまでっか!?

(城島明彦)

2015/10/02

「長雨」のあとの初秋の多摩川を「眺め」てきた


牧水の歌碑があった

 用があって二子玉川まで出かけたついで、多摩川を見てきた。
 長雨のあとで、水が濁っていた。

 川の近くに、ひっそりと若山牧水の歌碑が立っていた。
 多摩川を歌ったのは二首。

  多摩川の 砂にたんぽぽ 咲くころは
      われにもおもふ 人のあれかし

  多摩川の 浅きながれに 石なげて
      あそべば濡るる 袂(たもと)かな

 最初のは悪くはないが、後のは駄作。
 こんなレベルなら、おいらでもすぐにつくれる、と一首。

  多摩川の 長雨(ながめ)あがりて 秋来たる
      濁れる水に 過ぎし日しのぶ


(城島明彦)

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