命燃ゆ――久坂玄瑞(「花燃ゆ」の文の最初の夫)の最期
元治元(1864)年7月19日の弔い歌
元治(げんじ)元年7月19日、久坂玄瑞は「禁門の変」で死んだ。享年26。
長州藩と幕府軍との戦いは、京都御所にある9つの門の付近で行われたので、昔は、「九門の戦い」とか、「元治甲子(かっし)の役」ともいわれた。
なかでも激戦だったのが「蛤御門」で、そのため、この内戦を「蛤御門の戦い」ともいうのである。
「蛤御門」の由来は、ずっと閉じられてきた「新在家門」(しんざいけ)と呼ばれていた御門が、天明8年の大火で御所が炎上。以後、開けられたことから、「焼き蛤のようだ」ということで、そう呼ばれるようになったのだ。
久坂玄瑞は、この戦を不利と予測し、反対だったが、〝武戦派〞の来島又兵衛に押し切られて、戦争に踏み切った。戦況は、午前中は長州藩が優勢だったが、午後に入ると兵力で圧倒する幕府軍に押され、長州藩の敗北となる。そういう戦(いくさ)である。
松下村塾出身の久坂、寺島忠三郎、入江九一(くいち)は、それぞれ500の兵を率いて、堺町御門を護衛する越前兵を攻撃した。
久坂は、関白の鷹司邸へ向かい、「長州藩の真意が朝廷へ通じるように、とりなしてほしい」と嘆願したが、「すでに戦火が開かれ、中立売御門や蛤御門で砲声がとどろいており、無理だ」と断られた。
そうこうしているうちに、越後・桑名の両藩が攻めてきて戦闘になった。
長州藩が優位に戦っていると、肥後藩が援軍にきた。
一方、激戦の蛤御門では、長州勢500余名(来島又兵衛率いる300余名+児玉民部率いる200余名)が会津軍を圧倒していたが、薩摩・一橋両軍の援助で敗北。総大将の来島は戦死した。
勢いに乗る会津・薩摩・一橋の連合軍は、堺町御門へと向かった。
肥後、会津、薩摩、一橋の4軍VS長州軍だ。多勢に無勢で、形勢は一変。
会津藩が放った大砲が鷹司邸で炸裂、屋敷が炎上した。
鷹司邸を背後にした長州勢は、次々と戦死した。
久坂玄瑞は、弾丸に右足の脛(すね)を打ち抜かれて覚悟をきめ、自刃した。
今日もまた 知られぬ露の 命もて
千歳(ちとせ)を照らす 月を見るかな
(今日死ぬかもしれない命の俺が、千年も変わることなく地球を照らす月を見ているよ)
戦の前に詠んだこの歌が辞世である。
寺島忠三郎は、久坂とともに自刃。享年22.
入江九一は、鷹司邸の裏門から脱出しが、敵の槍に突かれて戦死。享年28。
高杉晋作の弔詩
「久坂玄瑞、死す」
との知らせを受けた高杉晋作は、七言絶句で弔った。
久坂玄瑞を弔ふ
埋骨皇城宿志酬
精忠苦節足千秋
欽君卓立同盟裡
不負青年第一流
(書き下し文)
皇城(こうじょう)に骨を埋め、宿志(しゅくし)に酬(むく)ゆ
精忠(せいちゅう)の苦節は、千秋(せんしゅう)に足る
欽君(きんくん)卓立(たくりつ)す、同盟の裡(うち)
負(そむか)ざりし青年第一流
(現代語訳)
君は天皇のために死ぬことで、宿願の志を遂げた
忠君愛国のために動いた期間こそ短いが、その中身は濃く、千年の価値がある
君の存在は、われら同志のなかで群れを抜いていた
松陰先生は「青年№1」と君を評されたが、その評価を裏切らなかった
三条實美(さんじょうさねとみ)の弔歌
久坂玄瑞は、「八月十八日の政変」で、冠位を剥奪されて「都落ち」した三条實美ら七卿を護衛し、苦楽をともにしながら長州に下った。
七卿は、三田尻の「招賢閣」に旅装を解き、復権できる日を待った。
そのときの心情を詠んだ歌が残っている。
白きくの 花をつみても 九重を
思へは旅の 袖ぞつゆけき
(探された旅先で、気持ちを紛らわそうとして白菊の花を摘んだのに その花弁から天皇のことが思われ、涙が袖にこぼれ、露で濡れたようになってしまった)
三条実美は、久坂が死んだとの知らせを聞いて、次のような弔歌を詠んだ。
九重の 御階(みはし)の塵を 拂(はら)はんと
心も身をも 打(うち)くだきたる
御階(みはし)は、帝がおわす京都御所の階段のことで、王政復古を実現しようとして粉骨砕身した久坂を讃える歌だ。
(城島明彦)
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