「雨あめかんむり」に「冢」と書いて、「豪雨」と読む?
きのうの集中豪雨馬は、すごかった
いまは、梅雨のまっさかり。
横浜界隈でも、ものすごい雨が降りまくった。
地下鉄に乗るときは、ほとんど降っていなかったのに、
30分後にターミナル駅を降りると、とんでもないことになっていた。
大量の雨が、轟然たる音をたてて降っていた。
尋常の雨ではない、太く短い線の連続模様に見える。
いや、線ではなく、棒だ。
雨の棒だからアメンボウ。
アメンボウが水面で動くと、雨が降ったようになる。
それにしても、すさまじい豪雨だ。
劇雨とか激雨とか超雨という表現はないが、限度を超えている。
「こんなことってアルキメデス?」
と、あきれ蛙もびっくりして姿を見せない。
バス待ちのたくさんの人も、茫然と見つめている。
「茫然」の茫にはサンズイ(=水)がある。
若い女の子は、スマホで撮影している。
友人に知らせるのか、待ち受けにでも使うつもりなのか。
天気予報を見ずに、傘も持たずに外出した私は、
「これだけの勢いで集中的に降れば、すぐに止むだろう」
と軽く考えたが、10分待っても、15分待っても、雨の勢いは一向に衰える気配を見せぬ。
「困ったな」
と思った瞬間、どういうはずみか、半世紀もの間、完璧に忘れていた記憶の断片が突然、覚醒した。
(問)次の英文のカッコを満たせ。
It never rain ( ) it pours.
ちょうど高1の秋頃に、受験参考書で覚えた慣用句だった。
カッコに入るのは「but」だpourは「降り注ぐ」で、全体の意味は、
「降れば土砂降り」
面白い表現なので、一発で覚えたような記憶がある。
脳裏に、春日八郎の歌が浮かぶ。
♪あんときゃあ 土砂降り 雨ん中……
次いで、土砂降りは「dog & cat」だったか、「cat & dog」だったかは忘れたが、そのような英語のイディオムもあったことも思い出した。
そういえば、集中豪雨を昔は「村雨」(むらさめ)といったということも頭に浮かんだ。
村雨とくれば、似た語の連想で「妖刀村正」(ようとう むらまさ)だ。
村正は、私が産湯を使った桑名の刀工。
車軸を洗う雨
「篠(しの)突く雨」という表現を覚えたのがいつだったかは、記憶にないが、
「車軸(しゃじく)を洗うような雨」
という表現を覚えたときのことはよく覚えている。
東宝に就職が決まり、助監督になるのに備えて、シナリオの基本を身につけておこうと考え、シナリオ研究所の夏期講座に通っていたときだ。
黒澤映画のシナリオにそのような表現があったような気がするが、確かではない。
道理で、昔は、時代劇の大雨シーンでは、「回る大八車」などに降りしぶく雨のカットがよく出てきた。
まぎらわしい漢字の覚え方
次に思い浮かべたのは、小野篁(おののたかむら)。平安時代の才人だが、江戸時代には「おののばかむら」とからかわれた、その理由は、彼の著作とされる『小野篁歌字尽』(おののたかむら うたじづくし)。
江戸時代中期に寺子屋あたりで漢字の教科書として使われた本で、漢字の面白い暗記の仕方がいろいろ書かれている。
その本の冒頭に出てくるのは「木篇」で、これがなかなかしゃれている。
春つばき 夏はえのきに 秋ひさぎ 冬はひらぎ 同はきり
木篇に春と書いて「椿」(つばき)、同じく夏と書いて「榎」(えのき)、秋が「楸」(ひさぎ)で冬は「柊」(ひらぎ。ひいらぎのこと)というわけだ。
寺子屋で子供たちは「この漢字はこう覚えなさい」と教えられたのだろう。
「爪にツメなし、瓜にツメあり」のたぐいだ。
「たかむら」だから「ばかむら」
子どもたちは、好奇心が旺盛。
「じゃあ、雨は!?」
などといって、先生を困らせたので、パロディ本『小野● 謔字尽』(おののばかむらうそじづくし)が出た。
「ばかむら」の「ばか」(●のところ)は漢字一文字で、篁をパロッって「竹かんむりに愚」という「つくり字」になっており、「ばか」と読ませている。「うそ」は諧謔(かいぎゃく)の謔という字を当てている。
石という字を5つ6つ縦に並べ、下へいくほど大きくかいて「賽(さい)の河原」と読ませるなどした本である。
雨づくしで、アーメン
話が脱線ついでに、古代エジプトの「アメンホテプ3世」の話はどうだ。
昔、アメノフィス3世と習ったが、今ではアメンホテプ3世が一般化してしまった。
そのアメではなく、水滴の雨の話。
雨が天井から落ちてくると、「雨漏り」だ。雨という字のダブルパンチになっている。
雨が形を変えると、霧や雲になる。
キリマンジャロの霧。キリコは画家で、コキリコは日本の民族楽器。「おまえが泉に落としたのいは金のオノか、銀のオノか」と泉の神様に尋ねられたのは、キコリ。
そういうことを書いているとキリがないのでやめるが、霧も雨の一種なのか。
夜霧よ今夜もアリゲーター。赤頭巾ちゃん、ワニに気をつけて。(なんのこっちゃ)
霧と霞(かすみ)と靄(もや)は、親戚かと思ったら、昔の人は、霞と雲と雪を見間違っていたらしい。
♪霞(かすみ)か雲か(くも)か はた雪か
で始まる明治時代につくられた小学唱歌「かすみか雲か」は、ドイツの曲だ。
「はた」は「それとも」という意味。
雨は、春には霞(かすみ)になり、夏は雷になり、青天の霹靂だ。
冬は雪になり、霰(あられ)になり、雹(ひょう)になる。霜もおりる。
雪に雨が混じると霙(みぞれ)だ。
では秋は何か? 靄(もや)か。
雲は四季を通じて形を変える。
「雲流」(雲が流れる)と書いて、何と読む?
「雲、行く→公文幾問(くもん いくもん)」はどうだ。
「雨かんむりに心」と書いて、どう読む?
「泣き寝入り」ってのは、どうだ。
くだらない話になってきたので、本日はこれで、おしまい。
(城島明彦)
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