松陰の肖像画を描いた〝絵の神童〞は、なぜ自決したのか
松浦松洞は最初に松陰に殉じた松下村塾生
生前の吉田松陰の姿かたちをしのばせる肖像画は、通称〝亀太郎〞の「松浦松洞」が描いた日本画だけだ。
今日、松浦松洞の名は、そのことによって広く知られるが、松洞は「松陰の死に殉じた松下村塾生第1号」だったということや、魚屋の倅(せがれ)だった松堂が誰よりも先に自決して果てたことが、松下村塾生の決起を促す大きな役目を果たしたということは、案外知れられていない。
亀は万年生きるが、亀太郎は26歳で死んだ
松浦松洞は、松陰が処刑されてから2年半後の文久2(1862)年春に、「公武合体論」を藩論とした長井雅楽(ながい うた)の暗殺に失敗し、20代半ばで自刃している。
なぜ、松洞は生き急いだのか!?
松洞の通称は亀太郎。
父親の名が庄太郎だったことから、長男にも太郎をつけたことはわかるが、なぜ「亀」なのか。
浦島太郎との連想で、「亀」は魚屋にふさわしいと考えたのかも知れないが、どことなく滑稽だ。
松陰は幼少時から「神童」として長州藩で有名だったが、亀太郎の神童ぶりも近隣に鳴り響いていた。
ただし、松陰が「兵学の神童」だったのに対し、亀太郎は「絵画の神童」だった。
14歳のときに上京し、絵師羽様西涯(はざま せいがい)について本格的に南画の修行をした。
のち、再び上京し、羽様(のち礀(はざま)に改姓)の師匠だった文人画家小田海僊(おだかいせん)の門人となって、さらに修行を積んだ。
小田海僊は、頼山陽とは、一緒に旅行をするくらい仲がよく、山陽の影響を大きく受けた。
山陽の息子の頼三樹三郎(らい みきさぶろう)も、松陰と同じく、安政の大獄で処刑されているので、不思議な因縁というべきか、松浦松洞と頼三樹三郎は見えない糸でつながっていたことになる。
丸山応挙や与謝蕪村の画風も受け継いでいる
小田―羽様―松浦は、「丸山四条派」と呼ぶ文人画の流派で、長州出身という接点がある。
小田の師匠は、松村月渓(まつむら げっけい)。呉春(ごしゅん)ともいった。
松村月渓は、南画を与謝蕪村(よさぶそん)に師事、写生画や俳句を丸山応挙(まるやま おうきょ)に師事し、叙情的といわれる南画とリアルな写生画をミックスした新しい画風を創出。
京都の四条に住んで、絵画塾を開いたことから「四条派」の祖といわれている。
与謝蕪村は、画家としてだけでなく、俳人としても有名で、正岡子規に大きな影響を与えた。
松浦松洞がなぜ松下村塾の門を叩いたかを考えるには、家が近所だったという理由だけでなく、そうした一連の日本画の流れを考える必要がある。
松浦松洞が属した丸山四条派の画家は、上手なだけではダメで、中国の古典、特に詩などの知識も求められたのである。
亀太郎は、長州藩士の家来に出世していた20歳のときに松下村塾の門を叩いた。
そのとき松陰は27歳。
「詩を学びたい。絵に添える詩を習いたい」
という亀太郎に対し、松陰は、
「自分は詩に精通しているわけではないから、『詩経』などを一緒に勉強しよう」
と告げたことがわかっている。
亀太郎のことを松陰は、
「才あり気あり、一奇男子なり、無逸の識見に及ばざるも、実用は之に勝るに似たり」
(才気があふれる奇特な好男子である。見識の点では吉田栄太郎に及ばないが、実行力では榮太郎を上回るのではなかろうか)
と評した。
亀太郎は、のちに「松下村塾の四天王」の一人といわれる吉田栄太郎に続いて入門した初期の塾生の一人である。
そっくりに描くだけでは肖像画といえない
「人物画は、ただそっくりに描けばいいものではない。人格や思想までも感じ取れるように描かないといけない」
と考えていた。
松洞の描いた肖像画を松陰が気に入ったのは、自分の内なる思いが絵に表現されていると感じたからだった。
松陰の影響を深く受けて、尊皇攘夷思想に目覚め、「公武合体論」を唱える長州藩の重臣長井雅楽(ながいうた)暗殺をもくろむ憂国の志士となったのだ。
松浦松洞は、死ぬことで松陰の魂と合体し、塾生の決起を促したのである。
(城島明彦)
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