吉田松陰 これだけ知っていれば一人前 (1)
深く知ろうとすれば限りがない
私が「吉田松陰の人材育成塾」と題して講演したときのメモを、2回に分けて書き記す。
したがって、正確には、今回だけだと〝半人前〞で、次回の(2)と合わせて一人前だが、今回のテーマについては、これだけ知っていたら一人前だ。
○どういう時代に生きた人か
天保元(1830)年8月4日生まれ~安政6(1859)年10月27日没(処刑) 享年30
活躍時期 黒船来航(1853年)~安政の大獄(1858~59年)
○どんな家族構成だったのか?
父は杉百合之助。
家格:長州藩(萩藩)無給通士。3人高26石(4680ℓ)。 ※吉田家(養子先):57石
1升≒1.8ℓ 1石≒180ℓ 1石=10斗=100升=1000合
◎杉家の家系図〔松陰の親兄弟〕
女
女
百合之助――梅太郎(民治)、大次郎矩方=松陰、千代、寿(ひさ)、艶(早世)、文(美和子)、敏三郎
大助(吉田氏7代目・松陰6歳のときに死去。松陰、養子となり、8代目襲名)
文之進(玉木氏7代目)
女
女
○長州藩とは、どんな藩か?
長門国(萩市)中心とした周防・長門2国を支配。外様大名。36万石
毛利元就(10カ国)⇒輝元(孫)が関が原で豊臣方⇒防長2国に減俸⇒1863年山口藩に改称(山口に移庁)
○松陰の考え方
①時世の句に象徴されている
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
②長州から江戸送りになる途中で詠んだ歌(泉岳寺を通過したとき)
かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂
③信条・座右の銘 至誠
○人生をどう考えていたか
「四時」(春・夏・秋・冬)にたとえた
人生は長さで計るものではないと考えていた
○松陰の人生を変えた大きな出来事
1850年8月 九州遊学(熊本で宮部鼎蔵)
1851年 江戸へ。佐久間象山に入門 同年末 東北遊歴 ⇒1952年
1853年7月(嘉永6年6月)ペリー来航 軍艦4隻
1854年2月(嘉永7年1月)軍艦7隻⇒3月 日米和親条約締結 渡航未遂
次回の(2)は松下村塾。
(城島明彦)