抗議が殺到したNHK大河ドラマの〝松陰の殺し方〞とは!?
長州人(山口県人)激怒の大河ドラマ第1回「花の生涯」
NHKの大河ドラは、昭和38(1963)年に第1回が始まった。
舟橋聖一原作の長篇小説『花の生涯』のテレビ化だった。
小説『花の生涯』昭和27年4月から毎日新聞に連載され、翌年、新潮社から単行本として出版された。
だが、新聞連載時も含めて、吉田松陰の処刑場面は「事実と違う」という苦情が出たことを配慮したのか、その少し後に弁解めいた描写が出てくる。それについては後述する。
NHK大河ドラマにも苦情が殺到した。
大河ドラマ「花の生涯」の主人公は、井伊直弼。
勅許なしで(=天皇の許しを得ずに)日米通商条約を強行した幕府の大老だ。
この条約は、明治政府になってから改定するのにえらく苦労することになる不平等条約で条約でもあったから、「尊皇攘夷派」を刺激した。
すると井伊は、反対派を次々と捕らえて牢屋にぶち込んだ。
その数千人といわれ、影響力が大きいと判断した人物は処刑した。
これが「安政の大獄」と呼ばれる恐怖政治で、吉田松陰はこのとき処刑されたのだ。
長州藩の江戸藩邸にいた伊藤博文ら4人は、処刑された恩師松陰の遺骸を受け取りに行き、埋葬する。
そしてその知らせが、江戸から長州に戻っていた高杉晋作らに届く。
高杉は激しく悲憤し、
「幕府を必ず倒してやる」
と松陰の墓前で復讐を誓う。
これが、倒幕・明治維新の狼煙(のろし)となるのである。
極論すれば、吉田松陰処刑という一件がなければ、明治維新は起こらなかったといえる。
松陰の遺骸は江戸に埋められたが、松陰の遺言によって、遺髪と牢獄でも愛用して硯などは長州の吉田家の墓地にも埋葬されていたのだ。
江戸の遺骸は、その後、別の場所に移され、それが現在の世田谷区にある松陰神社である。そして、遺髪を埋めたところも、のちに松陰神社と命名される。
井伊直弼に処刑された者の中に水戸藩の者がおり、井伊への復讐劇が敢行された。
「桜田門外の変」。
水戸藩17名と薩摩藩1名による井伊直弼暗殺である。
その報せは、高杉晋作ら長州藩にいた吉田松陰の門下生らに届けられると、高杉らは感涙にむせび、松陰の墓前に報告した。
松陰処刑が、高杉晋作、久坂玄瑞らの門下生たちの「倒幕急進派」を激しく突き動かすことになる。
それまで長州藩を支配していたのは穏健的な「公武一体」だったが、高杉らはそれを急進的な「尊皇倒幕」へと一変させることに成功、多くの同志の犠牲を払いながらも激烈な倒幕運動へと舵を切ったのだ。
それが、坂本龍馬らがいた土佐藩ほかの他藩をも刺激し、「薩長連合」が結ばれ、江戸幕府は260余年でついに滅び、薩長両藩主体の明治新政府が誕生するのである。
松陰の最後の描かれ方
松陰は、従容として処刑場へ向かい、その最後は、立ち会った者を感激させるほど堂々たるものだったと、処刑関係者・囚人ら多数が証言しているが、唯一、その真逆のことを書いた者がいた。
NHK大河ドラマの記念すべき第1回として放送された舟橋聖一原作の「花の生涯」は、その唯一の松陰の最後を採用したのだ。
わかりやすい例えでいうと、吉良上野介が主役の映画と似たような扱いにしたといえば話が早いかもしれない。
井伊直弼が主役であるから、そうせざるを得なかったのかもしれない。
舟橋聖一が描いた松陰の最後は、吉田格太郎という伊勢商人上がり人物が書いた資料に基づいている。
資料は、かなりいいかげんな伝聞に基づいていたものだ。
信頼性が薄い説を採用した原作に問題があった
私の手元にある『花の生涯』(昭和42年6月1日発行の文藝春秋「現代日本文学館34 舟橋聖一」)から、その〝問題の個所〞を引用する。
橋本は橋本左内、頼は頼三樹三郎。カッコ内は原作にあるルビである。
《橋本や頼は、ともかく一死を覚悟していたので、処刑は比較的容易に行なわれたが、吉田は、死罪はおろか、遠島さえも思わず、重ければ他家預けぐらいに楽観していたので、この宣告には、不満、不服、不可解の限りを感じ、最後まで、反抗的態度を緩(ゆる)めなかった。
これまでの書によると、吉田や橋本は、その死に臨むや、神色自若であったと書いてあるのが普通である。しかしこれは、吉田や橋本を英雄として、崇拝するあまりだ。
伝えられる吉田橋本は、ややもすると神様に近からんとしているが、実際はそれほどでもなかったようだ。人間、死に臨んで、従容(しょうよう)たれというほど、難題はないだろう。
時に松陰は三十歳。
左内は二十六歳。
二人とも、脂(あぶら)の乗った青春時代である。理想に漲(みなぎ)り、意欲に炎(も)え、生活力も旺盛(おうせい)であるのに、突然、極刑を宣告されたのであるから、いくら浪漫的(ろうまんてき)性格の所有者であっても、簡単に、自己の死を肯定するわけにはいかなかったに相違ない。
ことに、吉田は、この裁判には不服であり、獄吏によって、かってに捏造(ねつぞう)された口書(くちがき)は、ことごとく虚偽なりとしたくらいだから、死罪の判決が下るや、顔面蒼白(そうはく)、口角より泡(あわ)を吐いて、猛然と反抗した。
伊勢の人、世古(せこ)格太郎の著わしたものによると、
「吉田も斯(か)く死刑に処せられるべしことは思わざりしにや、彼、縛らるゝとき、誠に気息荒々しく、切歯して、実に無念の顔色なりき」と、その目撃したところを、述べている。
吉田は、評定所のまン中に、あばれ出し、大声でその刑の不当を鳴らしたが、同心十人ほどに取っておさえられた。高手小手縦横に搦(から)められ、上衣(うわぎ)は破れて、下帯一本のまま、曳(ひ)き立てられた。
かくて一旦(いったん)牢(ろう)へ下されたが、同日の四ツ時には、はやくも刑の執行が終っている。死体は小塚原(こづかっぱら)へ棄(す)てられた。 桂(かつら)小五郎や伊藤俊輔(しゅんすけ)(のちの博文)が、かけつけたときは、四斗桶(おけ)の中に、その死体が投げ込まれてあったという。
惣髪(そうはつ)は乱れて、顔にかぶさり、流血は淋漓(りんり)、その上、身体には寸衣の覆(おお)うところもない、まるで裸であった。
桂や伊藤は、その惨状に、涙なきあたわなかったが、ともかく、髪を束(たば)ね、水をもって血を洗い、かつ、首体をつなごうとすると、傍(かたわ)らの獄吏は、
「重刑人の死屍(しし)は、他日検視もあることだから、首体は別にしておいてもらいたい。もし、もし、接首の事実が露見すると、それこそ、こちとらの首が危(あぶ)ない」と云って、許さなかった。
やむをえず、桂は襦袢(じゅばん)をぬいで、松陰の裸体を覆い、伊藤は帯をといて、これを結んだということだ。》
松陰の遺骸と対面するくだりは、桂小五郎、伊藤博文と遺骸を引き取りにいった他の松陰門下生が、長州の高杉らに報告した手紙に克明に記されており、舟橋が書いたとおりだ。
しかし、その前の処刑に際して暴れたというのは異説なのである。
尊皇攘夷に異を唱える〝舟橋史観〞が事実をねじまげた
舟橋聖一は、昭和30年代・40年代に活躍した人気作家の1人で、過去の文献に精通した時代小説の名手だったが、こと本書での吉田松陰の解釈に関しては、世古格太郎(せこ かくたろう)という商人上がりの人物が書いた「伝聞に基づく異説」(『唱義聞見録』)を採用し、間違った解釈をしてしまった。
〝舟橋史観〞は、以下の「井伊直弼暗殺」個所の文章にはっきり表れている。
桜田門外の変に加わった唯一の薩摩藩浪士・有村雄介が直弼の首を取る場面だ。
《有村は、雪の上に引き出された直弼の横鬢(よこびん)のあたりへ、力まかせに一刀をうちおろした。直弼は、一度、前へ突っ俯(ぷ)したが、反射的に上半身を起こそうとするとき、有村の二太刀は、その首を切りとばした。これでは、まったく、嬲(なぶり)殺しも同様だった。
有村はさらに、ころがる首を追って進み、刀の尖(さ)きへ刺しつらぬいて、天にかかげ、
「可(よ)か、可(よ)か」と、雀躍(こおどり)したという。
このような残忍な殺人の方法が、尊皇攘夷の美名に保護されて、今日まで寛大にされている。それどころか、一部の人々に謳歌(おうか)されている。すべて、嘘も謎も、事実の中にはなくて、それを伝える人々の心の中に棲んでいるのだ。》
『古事記』や『日本書紀の』の昔から、歴史は勝者によってつくられるのが当たり前の話なのに、まるで負け犬の遠吠えのような言い方になっている。
明治維新が起きず、幕府がそのまま政権を握り続けていたら、明治維新に関与した連中はすべて犯罪人として記されたはずである。
舟橋聖一については、水戸高校出身なのに、なぜ水戸藩を身びいきせず、彦根藩の井伊直弼に肩入れしたのかという点もよくわからない。
苦情に配慮したと思える舟橋の記述
舟橋聖一が、苦情の声に配慮したと思える文章は、次の一説である。
《直弼は、死罪に処せられた志士たちの辞世には、ことごとく目を通した。
なかんずく、吉田が伝馬町(てんまちょう)の牢にあって、門生知友、あるいは同志へ残したいという遺書や、故郷なる両親へ送った歌、または、評定所へ呼び出されるとき、呼出しの声とともに、懐紙を取って詠(よ)んだという歌には、直弼も敬意をもって対した。
吉田に限らず、辞世や遺書に現れた志士の態度は、まことに、余裕綽々(しゃくしゃく)として、寸後に死に直面する人とも思えない濶然(かつぜん)たる風丰(ふうぼう)を偲(しの)ばせるものが多い。もし、これらの辞世、遺書のみをもって断ずるならば、志士らの臨終は、まさに神色自若たるものであったろう。
しかし直弼は、それらのすべてが嘘(うそ)と思わなかったが、すべてを真とも思わなかった。また、辞世をのこしたときの覚悟が、刑場の最後の瞬間まで、保持されるとも限らない。
吉田が判決に対し、刑の不当を鳴らしたということを聞いたとき、直弼は、むしろ吉田に対する敬意を新たにした。その態度を卑怯(ひきょう)未練のように云う老中もあったが、直弼はそうは思わなかった。》
「松陰への敬意を新たにした」などという書き方が、なんともそらぞらしく嘘っぽい。
評定所の判決は「遠島」(島流し)だったが、直弼はそれを「処刑」に変更したのである。そういう判断をする男が、刑の不当を唱えるものに対して敬意を払うことなどありえない。 舟橋聖一は、前記の文章の少し後に、こうも記している。
《死は恐ろしい。
それは、本能だからだ。
その死の恐ろしさを承知の上で、人は自分の仕事を擲(なげう)つことの、どうしてもできないことがある。
吉田、橋本、頼にしても、その結果が死を予想させるのに十分でありながら、しかも、幕閣への抵抗と弾劾(だんがい)を押しつづけた。それが信念というものなのか。》
而(しこう)して、いくら信念があっても、いざという場合は、人は死を恐怖し、生へ執着し、衝動として、死にたくないというのが、ありのままの人情である。
それすら否定して、神がかりの虚妄を説く人々に、直弼はどうしても同感できなかった。》
直弼の感情・考えとして書いているが、舟橋聖一自身のそれであることは容易に理解できる。
殺されるときに抵抗するのは、条件反射的な動物としての本能であるが。それすらも封殺して死んでいく者もいるのだ。たとえば、特攻隊に駆り出された若者などのように。
松陰の正しい最後は拙著に書いたので、関心がある方は、どうぞ。
(城島明彦)
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