「花燃ゆ」の「素朴な疑問」――松本村にあるのに、なぜ「松下村塾」なのか!?
松本村―松陰―松下村塾に共通する「松」に迫る
3月最初の「花燃ゆ」(第9話「高杉晋作、参上」)の裏番組は、山田洋次監督の映画「小さいおうち」(テレビ朝日)で、その主人公は松たか子。
吉田松陰と松たか子の「松対決」は、どちらに軍配が上ったか(視聴率が高かったか)!?
結果は、「花燃ゆ」12・9%、「小さいおうち」12・2%(関東地区/ビデオリサーチ調べ)だった。低レベルの争いではあったが、それでも「花燃ゆ」だけに、〝ハナ〞の差でおうちを制した。(視聴率については、3月3日に追記)
――というわけで、今回は、「松」にちなんだお話だ。
松陰が家族と住んでいた村の名前は、「松本村」(まつもとむら)。
であれば、その村に開いた私塾の名は「松本村塾」(まつもとそんじゅく)と命名するのが普通。
だが、そうはせず、「松下村塾」(しょうかそんじゅく)とした。なぜなのか。
後年、松陰は外戚の久保五郎左衛門の依頼で『松下村塾記』を書くが、その文中にはわざわざ「松下村」と書いて「まつもとむら」と読ませている。
このことからも、「松本」をただ単純に「松下」という当て字にしたのではなく、何らかの強い意図・狙いがあっってそうしたと考えるべきである。
この謎を解くヒントは「松陰」という号にある。
松陰は、松の木が好きなのだ。
だから、「松陰」という号をつけている。
松陰とは「松の陰」、つまり、「松の下」だ。
松は、古来、「神が宿る聖木」「神を待つ木」とされ、「松竹梅」の筆頭に位置づけられてきためでたい木だ。
「日本の将来を担う若者たちが松の下に集い、学ぶ塾」
という思いも松陰の胸にあったのではないか。
なぜ「本」でも「元」でもなく、「下」にしたのか
もう一つ推理できるのは、字画だ。
松=4画+4画
下=3画
村=4画+3画
すべての文字が3画か4画で構成されている。
本=5画なので、「松本村」では画数のバランスが崩れてしまうし、「松本塾」もいたって平凡であり、音読みすると「しょうほん塾」で、これもあまりいい響きではない。
元については、
元=4画なので、「松元村」とする手はあったが、「松元村塾」となると、音読みの「しょうげん村塾」は語呂が悪く、「松の根元」という字から受けるイメージもイマイチの感じがするので、捨て去ったのではなかろうか。
「松下」としたのは松陰のアイデアの線が濃厚!
松下村塾を始めたのは、松陰の叔父の玉木文之進だ。
玉木は、長州藩の藩校で教鞭をとっている兵学者である。
村塾の開講は1842年(天保13年)。玉木33歳。松陰13歳のときである。
※文之進は1810(文化7)年年生まれ、松陰は1830(天保元)年生まれ。
▼杉家の3兄弟
長男 百合之助 子⇒梅太郎、松陰(寅次郎)、千代、寿、艶(早世)、文、敏三郎
次男 大助⇒(山鹿流兵学師範)吉田家へ養子に。29歳で死去し、松陰が養子に
三男 文之進⇒玉木家へ養子に(明治9年「萩の乱」の責任を痛感し、自刃)
玉木文之進が私塾を開いた目的は、松陰ら身内の少年たちを教育するためだ。
松陰が私塾の命名者は玉木文之進とするのが自然だが、松陰は並みの13歳ではなく、6歳のときから藩主の前で「孫子」や「孟子」の講義をしてきた天才ということを考えると、本来なら「松下村塾」とするところを、松陰のアイデアで「松下村塾」としたのではないかとの推理も成り立つ。
学者のほとんどがそうであるように、玉木文之進は学識が豊かな学者ではあったが、創造力には難があった。
これに対し、松陰は創造力が豊かで「知的な遊び心」にあふれていた。
そういうことも、「松下村塾」の実質的な命名者は松陰だったとする推理をバックアップ材料となる。
〝名パズラー〞としての松陰の才能
松陰の旧姓は、前述したように「杉」。これも、分解すると、木=4画+3画である。
松と杉は、いずれも4画+3画で7画なのだ。
松陰は、幼名を虎之助といい、以後、大次郎、松次郎、寅次郎と変えている。
「松陰」は号で、最後につけた号が「二十一回猛士」。
牢獄で見た夢に神人が出て来てそう告げたという話がNHKの「花燃ゆ」でも紹介されていた。
神人が告げたのは「二十一回猛士」。
それが何を意味するのか、目が覚めてから松陰は考え、その謎を解いた。
吉田という字を分解すると、
吉=十一+口 ①
田=囗+十 ②
①+②=十一+口+囗+十
=二十一回 そして、寅次郎の寅は猛々しい。自分は「猛(たけ)き心」を持った武士だ。
よって、われは「二十一回猛士」なり。
夢のお告げの謎を解いた松陰は、こういうのだ。
「自分はこれまで3回の猛挙を行ってきたから、あと18回残っている」
だが、その18回を残したまま、松陰は処刑される。
その志を継いで明治維新を成し遂げた、その中心にいたのが松下村塾生たちだったのだ。
武士道の心得「士規七則」――足し算・引き算・順序入れ替え、自由自在
松陰が〝名パズラー〞だったという証拠サンプルをもう一つ示したい。
松陰は、叔父の玉木文之進から「息子の彦介が元服するときに武士の戒めを与えたいので、書いてほしい」と頼まれて、「士規七則」を書くのだが、そのタイトルのつけ方が実に才気とオリジナリティにあふれている。
普通の人なら「武士道の心得七ヶ条」とか「武士道訓戒録七ヶ条」とか「武士道規則」といったようなタイトルにしがちだが、松陰はそんな単純なことはしなかった。
(コンセプト)武士道規則七ヶ条⇒(アレンジ)武士道七規則⇒(引き算:武士道-武道)士七規則⇒(順番入れ替え)士規七則
(城島明彦)
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