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2015/03/30

「花燃ゆ」(第13話「コレラと爆弾」)は、脇役(小野為八)に時間を割きすぎ、低視聴率11・7%というひどさ


どんな事件にも文が頭を突っ込む設定に無理がある

 文がドラマの主人公なので、さまざまな事件に関わっているようにしたいという気持ちはよくわかるが、あらゆる場面にシャシャリ出ていくのは、江戸時代の武家の作法として考えると極めて不自然である。

 やたら「おにぎり」を握って、尊塾生たちと親しく話し込むが、これも不自然。

 そういったことも災いし、3月29日の視聴率は、「花燃ゆ」の放送開始以来、7回目の11・6%(監督地区/ビデオリサーチ調べ)に0・1ポイント差まで肉薄する低視聴率を記録した。
 このままでいくと、大河史上最低だった「平清盛」のワースト記録を塗り替えるのも時間の問題かもしれない。
 ※当初に記載した視聴率の数字が間違っていたので訂正した。

 文の声でナレーションをやるという設定もあったはずで、そういう設定なら、重要な事件の現場にいなくても、後で誰かに聞いた話としてナレーションしても不自然とは感じない。


松陰にもっと時間を割くべきではないのか

 3月29日放送の大河ドラマでは、小野為八(ためはち)にずいぶん時間を割いていた。
長崎で火薬技術を学んだ点は、塾生の中では異色だが、高杉晋作や久坂玄瑞らに比べると、はるかに小物。どうして長々と時間を割いたのか、私には理解不能だ。

 為八は、文政12(1829)年1月8日生まれなので、松陰より年齢が一つ上。
 自筆の履歴書が残っていて、天保15(1844)年5月5日に松陰の山鹿流兵学に入門したとあるが、松陰はまだ見習い中だから、直接習ってはいないのではないか。

 松下村塾に学びにきたのは30歳というから、この点はかなり異色だ。
 為八は明治40(1907)年まで生き、79歳で死んだ人なので、日清・日露の両戦争も知っている。

 為八は、藩医の生まれだが、長崎に留学して西洋砲術を習得し、松下村塾に通っているときに「地雷火」(地雷)の爆発実験をやった点は面白いかもしれないが、のち、高杉晋作が結成した「奇兵隊」に加わって大砲の指導を行い、幕府との戦争でも大砲隊長になって活躍してはいるが、あくまでも脇役のひとり。

 「地雷火」(地雷)の爆破実験も煙しか写していない。
 謹慎中の松陰が出かけるわけには行かないから、背負っていったと伝えられているが、NHKなら実際に爆破させるところを見せてほしかった

 それと、為八に長い時間を割くなら、松陰が、なぜ幕府の大老・井伊直弼(いい なおすけ)の腹心である老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)の暗殺に傾いていくかということにもっと時間をかけるべきである。
 (NHKは、それは次回で描くというかもしれないが、コレラと爆弾に1話分を取る必要性などないのではないかということだ)

 無勅許(天皇の許可を得ない)で〝不平等条約〞(日米修好通商条約)を結んだのは井伊直弼の独断なのだから、常識的に考えるなら、暗殺目標は井伊直弼のはず。
 ところが、松陰が暗殺目標にしたのは、間部詮勝であって、井伊直弼ではない。

 松陰は、「安政の大獄」で江戸伝馬町の牢獄にぶちこまれ、評定所(今の最高裁判所)の取調べを受ける。
 その結果、処刑の判決が下るが、松陰は、井伊直弼が悪いとは考えず、遺書『留魂録』には井伊直弼の名は一つも出てこない。
 この点が、松陰の大きな謎となっている。

 たとえ間部を暗殺しても、井伊直弼が生きていたら意味がない。
 こんな簡単な理屈が松陰にわからないはずはないと、私を含め、吉田松陰を高く評価している者は、つい考えてしまう。

 しかし、そう考えることは、もしかすると、かいかぶりなのかもしれない。
 松陰は、幕府の動きを江戸の藩邸にいる門下生からの手紙で知るだけだったから、正確な情勢を把握できていなかったのではないか。
 つまり、全貌をよく知らなかったのかもしれないということだ。

 松陰は獄中からの手紙で、間部の暗殺に決起するよう門下生にしきりに檄を飛ばすが、桂小五郎らから時期尚早とさかんに諫められるのも、自分自身の目で江戸の動きを見ていなかったからではなかったか。

 京都の動きは察知できても、江戸の動きを理解できていなかった可能性もないとはいえないのである。

 後に水戸藩の浪士が江戸城の桜田門外で、井伊直弼を暗殺するのは、井伊が無勅許で不平等条約を締結したためであり、それに対し意を唱えた藩主を安政の大獄で処罰したり、尊皇に動いた志士を処刑にしたからだ。

 暗殺すべき相手は、井伊直弼なのである。

(城島明彦)

2015/03/24

渋谷の東急プラザがなくなり、「カフェ シャリマァル」も消えた


仕事の打ち合わせで、ずっと利用してきた〝オバタリアンハウス〞

 渋谷の「東急プラザ」が、建て替えのためといって、3月22日に閉館してしまった。

 3月22日が閉店日と知らず、その日、友人と東急プラザの1階ロビーで待ち合わせることにしていたが、私の体調が悪くなったので、急遽、自宅へ来てもらうことになった。
 
 「今日が閉店だったから、行きたかった」
 といわれて、その日でおしまいだと知った。

 1980年代からよく使っていた5階の「カフェ シャリマァル」も消えた。

 インド風の店名をつけた店は、細長くて、こぢんまりした店だったが、背もたれのあるゆったりした席もあり、高級なカップを使うのが特徴だった。

 昼間利用することがおおかったせいか、以前は、おばさんがやたら多かったので、〝オバタリアンハウス〞と勝手に呼んでいたのだが、いつ頃からか、若い人も増えた。

 月末に1回、ケーキ半額の日があり、2回その日にあたったことがある。

 新装ビルになるのは3年後というが、そのとき入居しているのだろうか。
 
 1965年の開業で、営業期間49年。
 
 翌年大学に入り、上京して高田馬場に住んだから、わが人生とも重なっていて、なくなるのは寂しいが、時代の流れ。

 一足先に「東急文化会館」が消えて「ヒカリエ」などという得体の知れないビルになった。
 「光へ」のもじりと思うが、男にとっては、どう考えても「ヤミエ」。

 東急プラザの名前は残した方がいいと思うが……。

 駅から近いところで、ゆっくり落ち着いて長くいられる新しい待ち合わせ場所を、探さないといけなくなった。


(城島明彦)

2015/03/21

抗議が殺到したNHK大河ドラマの〝松陰の殺し方〞とは!?


長州人(山口県人)激怒の大河ドラマ第1回「花の生涯」

 NHKの大河ドラは、昭和38(1963)年に第1回が始まった。
 舟橋聖一原作の長篇小説『花の生涯』のテレビ化だった。
 小説『花の生涯』昭和27年4月から毎日新聞に連載され、翌年、新潮社から単行本として出版された。
 
 だが、新聞連載時も含めて、吉田松陰の処刑場面は「事実と違う」という苦情が出たことを配慮したのか、その少し後に弁解めいた描写が出てくる。それについては後述する。
 NHK大河ドラマにも苦情が殺到した。

 大河ドラマ「花の生涯」の主人公は、井伊直弼。
 勅許なしで(=天皇の許しを得ずに)日米通商条約を強行した幕府の大老だ。
 
 この条約は、明治政府になってから改定するのにえらく苦労することになる不平等条約で条約でもあったから、「尊皇攘夷派」を刺激した。
 すると井伊は、反対派を次々と捕らえて牢屋にぶち込んだ。
 その数千人といわれ、影響力が大きいと判断した人物は処刑した。
 これが「安政の大獄」と呼ばれる恐怖政治で、吉田松陰はこのとき処刑されたのだ。

 長州藩の江戸藩邸にいた伊藤博文ら4人は、処刑された恩師松陰の遺骸を受け取りに行き、埋葬する。

 そしてその知らせが、江戸から長州に戻っていた高杉晋作らに届く。
 高杉は激しく悲憤し、
 「幕府を必ず倒してやる」
 と松陰の墓前で復讐を誓う。
 これが、倒幕・明治維新の狼煙(のろし)となるのである。
 極論すれば、吉田松陰処刑という一件がなければ、明治維新は起こらなかったといえる。

 松陰の遺骸は江戸に埋められたが、松陰の遺言によって、遺髪と牢獄でも愛用して硯などは長州の吉田家の墓地にも埋葬されていたのだ。

 江戸の遺骸は、その後、別の場所に移され、それが現在の世田谷区にある松陰神社である。そして、遺髪を埋めたところも、のちに松陰神社と命名される。

 井伊直弼に処刑された者の中に水戸藩の者がおり、井伊への復讐劇が敢行された。
 「桜田門外の変」。
 水戸藩17名と薩摩藩1名による井伊直弼暗殺である。

 その報せは、高杉晋作ら長州藩にいた吉田松陰の門下生らに届けられると、高杉らは感涙にむせび、松陰の墓前に報告した。
 松陰処刑が、高杉晋作、久坂玄瑞らの門下生たちの「倒幕急進派」を激しく突き動かすことになる。
 それまで長州藩を支配していたのは穏健的な「公武一体」だったが、高杉らはそれを急進的な「尊皇倒幕」へと一変させることに成功、多くの同志の犠牲を払いながらも激烈な倒幕運動へと舵を切ったのだ。

 それが、坂本龍馬らがいた土佐藩ほかの他藩をも刺激し、「薩長連合」が結ばれ、江戸幕府は260余年でついに滅び、薩長両藩主体の明治新政府が誕生するのである。


松陰の最後の描かれ方

 松陰は、従容として処刑場へ向かい、その最後は、立ち会った者を感激させるほど堂々たるものだったと、処刑関係者・囚人ら多数が証言しているが、唯一、その真逆のことを書いた者がいた。

 NHK大河ドラマの記念すべき第1回として放送された舟橋聖一原作の「花の生涯」は、その唯一の松陰の最後を採用したのだ。

 わかりやすい例えでいうと、吉良上野介が主役の映画と似たような扱いにしたといえば話が早いかもしれない。
井伊直弼が主役であるから、そうせざるを得なかったのかもしれない。 
 
 舟橋聖一が描いた松陰の最後は、吉田格太郎という伊勢商人上がり人物が書いた資料に基づいている。
資料は、かなりいいかげんな伝聞に基づいていたものだ。


信頼性が薄い説を採用した原作に問題があった

 私の手元にある『花の生涯』(昭和42年6月1日発行の文藝春秋「現代日本文学館34 舟橋聖一」)から、その〝問題の個所〞を引用する。
 橋本は橋本左内、頼は頼三樹三郎。カッコ内は原作にあるルビである。

 《橋本や頼は、ともかく一死を覚悟していたので、処刑は比較的容易に行なわれたが、吉田は、死罪はおろか、遠島さえも思わず、重ければ他家預けぐらいに楽観していたので、この宣告には、不満、不服、不可解の限りを感じ、最後まで、反抗的態度を緩(ゆる)めなかった。
 これまでの書によると、吉田や橋本は、その死に臨むや、神色自若であったと書いてあるのが普通である。しかしこれは、吉田や橋本を英雄として、崇拝するあまりだ。
 伝えられる吉田橋本は、ややもすると神様に近からんとしているが、実際はそれほどでもなかったようだ。人間、死に臨んで、従容(しょうよう)たれというほど、難題はないだろう。
 時に松陰は三十歳。
 左内は二十六歳。
 二人とも、脂(あぶら)の乗った青春時代である。理想に漲(みなぎ)り、意欲に炎(も)え、生活力も旺盛(おうせい)であるのに、突然、極刑を宣告されたのであるから、いくら浪漫的(ろうまんてき)性格の所有者であっても、簡単に、自己の死を肯定するわけにはいかなかったに相違ない。
 ことに、吉田は、この裁判には不服であり、獄吏によって、かってに捏造(ねつぞう)された口書(くちがき)は、ことごとく虚偽なりとしたくらいだから、死罪の判決が下るや、顔面蒼白(そうはく)、口角より泡(あわ)を吐いて、猛然と反抗した。
 伊勢の人、世古(せこ)格太郎の著わしたものによると、
「吉田も斯(か)く死刑に処せられるべしことは思わざりしにや、彼、縛らるゝとき、誠に気息荒々しく、切歯して、実に無念の顔色なりき」と、その目撃したところを、述べている。
 吉田は、評定所のまン中に、あばれ出し、大声でその刑の不当を鳴らしたが、同心十人ほどに取っておさえられた。高手小手縦横に搦(から)められ、上衣(うわぎ)は破れて、下帯一本のまま、曳(ひ)き立てられた。
 かくて一旦(いったん)牢(ろう)へ下されたが、同日の四ツ時には、はやくも刑の執行が終っている。死体は小塚原(こづかっぱら)へ棄(す)てられた。
 桂(かつら)小五郎や伊藤俊輔(しゅんすけ)(のちの博文)が、かけつけたときは、四斗桶(おけ)の中に、その死体が投げ込まれてあったという。
 惣髪(そうはつ)は乱れて、顔にかぶさり、流血は淋漓(りんり)、その上、身体には寸衣の覆(おお)うところもない、まるで裸であった。
 桂や伊藤は、その惨状に、涙なきあたわなかったが、ともかく、髪を束(たば)ね、水をもって血を洗い、かつ、首体をつなごうとすると、傍(かたわ)らの獄吏は、
「重刑人の死屍(しし)は、他日検視もあることだから、首体は別にしておいてもらいたい。もし、もし、接首の事実が露見すると、それこそ、こちとらの首が危(あぶ)ない」と云って、許さなかった。
 やむをえず、桂は襦袢(じゅばん)をぬいで、松陰の裸体を覆い、伊藤は帯をといて、これを結んだということだ。》

 松陰の遺骸と対面するくだりは、桂小五郎、伊藤博文と遺骸を引き取りにいった他の松陰門下生が、長州の高杉らに報告した手紙に克明に記されており、舟橋が書いたとおりだ。
 しかし、その前の処刑に際して暴れたというのは異説なのである。


尊皇攘夷に異を唱える〝舟橋史観〞が事実をねじまげた

 舟橋聖一は、昭和30年代・40年代に活躍した人気作家の1人で、過去の文献に精通した時代小説の名手だったが、こと本書での吉田松陰の解釈に関しては、世古格太郎(せこ かくたろう)という商人上がりの人物が書いた「伝聞に基づく異説」(『唱義聞見録』)を採用し、間違った解釈をしてしまった。

〝舟橋史観〞は、以下の「井伊直弼暗殺」個所の文章にはっきり表れている。
 桜田門外の変に加わった唯一の薩摩藩浪士・有村雄介が直弼の首を取る場面だ。

《有村は、雪の上に引き出された直弼の横鬢(よこびん)のあたりへ、力まかせに一刀をうちおろした。直弼は、一度、前へ突っ俯(ぷ)したが、反射的に上半身を起こそうとするとき、有村の二太刀は、その首を切りとばした。これでは、まったく、嬲(なぶり)殺しも同様だった。
 有村はさらに、ころがる首を追って進み、刀の尖(さ)きへ刺しつらぬいて、天にかかげ、
「可(よ)か、可(よ)か」と、雀躍(こおどり)したという。
 このような残忍な殺人の方法が、尊皇攘夷の美名に保護されて、今日まで寛大にされている。それどころか、一部の人々に謳歌(おうか)されている。すべて、嘘も謎も、事実の中にはなくて、それを伝える人々の心の中に棲んでいるのだ。》

 『古事記』や『日本書紀の』の昔から、歴史は勝者によってつくられるのが当たり前の話なのに、まるで負け犬の遠吠えのような言い方になっている。
 明治維新が起きず、幕府がそのまま政権を握り続けていたら、明治維新に関与した連中はすべて犯罪人として記されたはずである。
 
 舟橋聖一については、水戸高校出身なのに、なぜ水戸藩を身びいきせず、彦根藩の井伊直弼に肩入れしたのかという点もよくわからない。


苦情に配慮したと思える舟橋の記述

 舟橋聖一が、苦情の声に配慮したと思える文章は、次の一説である。

 《直弼は、死罪に処せられた志士たちの辞世には、ことごとく目を通した。
 なかんずく、吉田が伝馬町(てんまちょう)の牢にあって、門生知友、あるいは同志へ残したいという遺書や、故郷なる両親へ送った歌、または、評定所へ呼び出されるとき、呼出しの声とともに、懐紙を取って詠(よ)んだという歌には、直弼も敬意をもって対した。
 吉田に限らず、辞世や遺書に現れた志士の態度は、まことに、余裕綽々(しゃくしゃく)として、寸後に死に直面する人とも思えない濶然(かつぜん)たる風丰(ふうぼう)を偲(しの)ばせるものが多い。もし、これらの辞世、遺書のみをもって断ずるならば、志士らの臨終は、まさに神色自若たるものであったろう。
 しかし直弼は、それらのすべてが嘘(うそ)と思わなかったが、すべてを真とも思わなかった。また、辞世をのこしたときの覚悟が、刑場の最後の瞬間まで、保持されるとも限らない。
 吉田が判決に対し、刑の不当を鳴らしたということを聞いたとき、直弼は、むしろ吉田に対する敬意を新たにした。その態度を卑怯(ひきょう)未練のように云う老中もあったが、直弼はそうは思わなかった。

 「松陰への敬意を新たにした」などという書き方が、なんともそらぞらしく嘘っぽい。
 評定所の判決は「遠島」(島流し)だったが、直弼はそれを「処刑」に変更したのである。そういう判断をする男が、刑の不当を唱えるものに対して敬意を払うことなどありえない。 舟橋聖一は、前記の文章の少し後に、こうも記している。

 《死は恐ろしい。
 それは、本能だからだ。
 その死の恐ろしさを承知の上で、人は自分の仕事を擲(なげう)つことの、どうしてもできないことがある。
 吉田、橋本、頼にしても、その結果が死を予想させるのに十分でありながら、しかも、幕閣への抵抗と弾劾(だんがい)を押しつづけた。それが信念というものなのか。》
 而(しこう)して、いくら信念があっても、いざという場合は、人は死を恐怖し、生へ執着し、衝動として、死にたくないというのが、ありのままの人情である。
 それすら否定して、神がかりの虚妄を説く人々に、直弼はどうしても同感できなかった。》

 直弼の感情・考えとして書いているが、舟橋聖一自身のそれであることは容易に理解できる。
 殺されるときに抵抗するのは、条件反射的な動物としての本能であるが。それすらも封殺して死んでいく者もいるのだ。たとえば、特攻隊に駆り出された若者などのように。
 
 松陰の正しい最後は拙著に書いたので、関心がある方は、どうぞ。
 
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(城島明彦)

2015/03/02

「花燃ゆ」の「素朴な疑問」――松本村にあるのに、なぜ「松下村塾」なのか!?


松本村―松陰―松下村塾に共通する「松」に迫る

 3月最初の「花燃ゆ」(第9話「高杉晋作、参上」)の裏番組は、山田洋次監督の映画「小さいおうち」(テレビ朝日)で、その主人公は松たか子。
 吉田松陰と松たか子の「松対決」は、どちらに軍配が上ったか(視聴率が高かったか)!?

 結果は、「花燃ゆ」12・9%、「小さいおうち」12・2%(関東地区/ビデオリサーチ調べ)だった。低レベルの争いではあったが、それでも「花燃ゆ」だけに、〝ハナ〞の差でおうちを制した。(視聴率については、3月3日に追記)

 ――というわけで、今回は、「松」にちなんだお話だ。

 松陰が家族と住んでいた村の名前は、「松本村」(まつもとむら)。
 であれば、その村に開いた私塾の名は「松本村塾」(まつもとそんじゅく)と命名するのが普通。
 だが、そうはせず、「松下村塾」(しょうかそんじゅく)とした。なぜなのか。
 後年、松陰は外戚の久保五郎左衛門の依頼で『松下村塾記』を書くが、その文中にはわざわざ「松下村」と書いて「まつもとむら」と読ませている。
 このことからも、「松本」をただ単純に「松下」という当て字にしたのではなく、何らかの強い意図・狙いがあっってそうしたと考えるべきである。

 この謎を解くヒントは「松陰」という号にある。
 松陰は、松の木が好きなのだ。
 だから、「松陰」という号をつけている。
 松陰とは「松の陰」、つまり、「松の下」だ。
 松は、古来、「神が宿る聖木」「神を待つ木」とされ、「松竹梅」の筆頭に位置づけられてきためでたい木だ。
 「日本の将来を担う若者たちが松の下に集い、学ぶ塾」
 という思いも松陰の胸にあったのではないか。


なぜ「本」でも「元」でもなく、「下」にしたのか
 
 もう一つ推理できるのは、字画だ。
 松=4画+4画
 下=3画
 村=4画+3画
 すべての文字が3画か4画で構成されている。
 本=5画なので、「松本村」では画数のバランスが崩れてしまうし、「松本塾」もいたって平凡であり、音読みすると「しょうほん塾」で、これもあまりいい響きではない。
 
 元については、
 元=4画なので、「松元村」とする手はあったが、「松元村塾」となると、音読みの「しょうげん村塾」は語呂が悪く、「松の根元」という字から受けるイメージもイマイチの感じがするので、捨て去ったのではなかろうか。


「松下」としたのは松陰のアイデアの線が濃厚!

 松下村塾を始めたのは、松陰の叔父の玉木文之進だ。
 玉木は、長州藩の藩校で教鞭をとっている兵学者である。
 村塾の開講は1842年(天保13年)。玉木33歳。松陰13歳のときである。
 ※文之進は1810(文化7)年年生まれ、松陰は1830(天保元)年生まれ。

 ▼杉家の3兄弟
 長男 百合之助 子⇒梅太郎、松陰(寅次郎)、千代、寿、艶(早世)、、敏三郎
 次男 大助⇒(山鹿流兵学師範)吉田家へ養子に。29歳で死去し、松陰が養子に
 三男 文之進⇒玉木家へ養子に(明治9年「萩の乱」の責任を痛感し、自刃)

 玉木文之進が私塾を開いた目的は、松陰ら身内の少年たちを教育するためだ。
 松陰が私塾の命名者は玉木文之進とするのが自然だが、松陰は並みの13歳ではなく、6歳のときから藩主の前で「孫子」や「孟子」の講義をしてきた天才ということを考えると、本来なら「松下村塾」とするところを、松陰のアイデアで「松下村塾」としたのではないかとの推理も成り立つ。

 学者のほとんどがそうであるように、玉木文之進は学識が豊かな学者ではあったが、創造力には難があった。
 これに対し、松陰は創造力が豊かで「知的な遊び心」にあふれていた。
 そういうことも、「松下村塾」の実質的な命名者は松陰だったとする推理をバックアップ材料となる。


〝名パズラー〞としての松陰の才能

 松陰の旧姓は、前述したように「杉」。これも、分解すると、木=4画+3画である。
 松と杉は、いずれも4画+3画で7画なのだ。

 松陰は、幼名を虎之助といい、以後、大次郎、松次郎、寅次郎と変えている。
 「松陰」は号で、最後につけた号が「二十一回猛士」。
 
 牢獄で見た夢に神人が出て来てそう告げたという話がNHKの「花燃ゆ」でも紹介されていた。

 神人が告げたのは「二十一回猛士」。

 それが何を意味するのか、目が覚めてから松陰は考え、その謎を解いた。
 吉田という字を分解すると、

 吉=十一+口 ①
 田=囗+十   ②
 ①+②=十一+口+囗+十
      =二十一回 そして、寅次郎の寅は猛々しい。自分は「猛(たけ)き心」を持った武士だ。
 よって、われは「二十一回猛士」なり。

 夢のお告げの謎を解いた松陰は、こういうのだ。
 「自分はこれまで3回の猛挙を行ってきたから、あと18回残っている」

 だが、その18回を残したまま、松陰は処刑される。
 その志を継いで明治維新を成し遂げた、その中心にいたのが松下村塾生たちだったのだ。


武士道の心得「士規七則」――足し算・引き算・順序入れ替え、自由自在

 松陰が〝名パズラー〞だったという証拠サンプルをもう一つ示したい。
 松陰は、叔父の玉木文之進から「息子の彦介が元服するときに武士の戒めを与えたいので、書いてほしい」と頼まれて、「士規七則」を書くのだが、そのタイトルのつけ方が実に才気とオリジナリティにあふれている。

 普通の人なら「武士道の心得七ヶ条」とか「武士道訓戒録七ヶ条」とか「武士道規則」といったようなタイトルにしがちだが、松陰はそんな単純なことはしなかった。
 
(コンセプト)武士道規則七ヶ条⇒(アレンジ)武士道七規則⇒(引き算:武士道-武道)士七規則⇒(順番入れ替え)士規七則

 (城島明彦)

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