「花燃ゆ」の長州藩牢獄につながれた36歳~76歳の11人+松陰27歳
在獄期間の最長49年~最短3、4年
アメリカへの密航に失敗した松陰は、江戸伝馬町の獄に送られたが、松陰の志に打たれたペリー提督の働きかけもあり、萩の長州藩へ送還された。
長州藩では、処遇を「借牢にせよ」と松陰の父百合之助に勧めた。
しかし、百合之助は受け入れず、「松陰は体が弱いので自宅に引き取りたい」と願い出る。
これまた聞き入れられなかったため、
「ならば、しばらくの間だけでも自宅に」
と希望したが、これも聞き入れられず、結局、「借牢」という形の投獄となった。
松陰が込められた武士用の獄舎「野山獄」には、11人の囚人がいたが、松陰のように藩からの要請を受けて「借牢」(しゃくろう)の形で投獄された者が4人、親戚が言い出して「借牢」となった囚人が5人で、その中には唯一の女囚高須久子もいた。
藩の裁きを受けて投獄された囚人は、たったの2人に過ぎなかった。
「借牢」は、親や親戚が食料や衣類などを差し入れる形で負担したので、藩は金を出す必要がなかった。
安政元(1854)年10月24日に野山獄にされた松陰は、安政2(1855)年12月15日に野山獄を出獄し、杉家に幽閉されることになるが、そのときに獄のことを書いている。
南北2棟全12房に投獄された囚人たちの顔ぶれを、松陰は、「野山獄囚名録序論」(「丙辰幽室文稿」に収載)に、在獄期間の長い順に以下のように記した。
大深虎之允 76歳 在獄49年
弘中勝之進 48歳 在獄19年
岡田一廸 43歳 在獄16年
井上喜左衛門 38歳 在獄9年
河野数馬 44歳 在獄9年
粟屋與七 不明 在獄8年 ※年齢が原本では不明
吉村善作 49歳 在獄7年
志道又三郎 52歳 在獄6年
高須氏寡婦 39歳 在獄4年 ※高須久子
冨永弥兵衛 36歳 在獄4年
平川梅太郎 44歳 入獄3次・通算3年
文末に「右行年(ぎょうねん)在獄、以丙辰歳言之」とあるので、出獄した翌年の年齢だとわかる。「丙辰」という干支は安政3(1856)年のことだから、松陰自身は27歳ということになる。
これを記したのは同年3月28日である。
囚人のうち最年長かつ最長投獄期間の大深虎之允は、前述したように「76歳 在獄49年」となっているが、その1か月後の5月1日に書いた「野山獄記」では、
「大深虎之允といふ者あり。行年七八十。獄にあること五十年」
とあり、年齢や在獄期間が微妙にずれてはいるものの、半世紀もの間、牢に込められていたことは間違いない。
(城島明彦)
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