Mrホンダ(本田宗一郎氏)と会った――「ホンダ、F1復帰発表」から2日後の明け方の不思議な夢
夢は時空を超える
現実にはありえない不思議な、というより、時空を超えた不可思議な夢だった。
普通の夢は、目を覚ました瞬間、忘れてしまっているが、その夢は不思議すぎたせいか、目を覚ましてからも鮮烈に記憶に残っている。
ホンダの博物館と思えるような場所で、本田宗一郎と物理学者だった私の叔父のコラボ展示会のようなものが開催されており、私はホンダの広報マンの案内で、夢の中で会った。
展示会場は、よく考えると、本田宗一郎が死去し、ホンダの本社ビル1階で行われた「本田宗一郎氏をしのぶ会」の会場のイメージのような気がしないでもない。
しかし、夢の中では、当の本田宗一郎は生きているのだから、不思議だ。
夢の中の本田宗一郎は、髪が「バック・トゥー・ザ・フューチャー」の博士のように側頭部が白く長くなっているので、私はしきりに不思議がっていた。
私の叔父は、すでに亡くなっており、壁面のおしまいの方に貼られたパネル写真だけだったが、案内の広報マンの紹介で、本田宗一郎と握手した。
本田宗一郎と握手するのは、私の願望だった。彼が存命中に私はF1を取材して記事を書いており、本田宗一郎を取材する予定だったが、病に倒れて入院したため、会うことができなかった。その思いが夢に現れたのかもしれなかった。
叔父と本田宗一郎については、二人は異分野の人間であり、実際には会ったこともないはずだった。
いや、私が知らないだけで、もしかすると、京大工学部で物理を教えていた叔父の教え子の誰かがホンダに入社し、F1エンジン開発の仕事に携わっていたかもしれない。
理屈っぽく推理すると、〝100歳で現役〞のシャープの元副社長〝ドクター佐々木〞(佐々木正)の本『生きる力・活かす力』(かんき出版)を、1昨年から昨年にかけて私が手伝ったとき、ドクターが京大工学部時代の学生だったときに、私の叔父から物理を学んだという話を聞いていた。
それだけでなく、私の別の叔父2人(いずれも故人)が、ドクター佐々木と同い年で、学部こそ法学部・理学部と違ってはいたが、同じ京大のキャンパスにいたという奇遇だった。
もしかすると、F1マシンの電気系統にシャープの技術が関係していたかもしれない。
いずれにせよ、異なる過去の異分野の出来事の断片が、潜在意識化で今という次元で、なぜか合体したことで、現実にはありえないSFの世界を「夢」として創り出したのではないか。
目を覚ましたのは、自分の話す声だった。ホンダのF1のことを聞かれて、誰かに話をする自分の声で目を覚ましたのだ。
寝言をいっていることになる。その寝言が耳に入り、目を覚ましたということではないか。
マクラーレン・ホンダは〝強い日本のシンボル〞だった
1月10日午後、ホンダが「F1復帰」を発表。
青山のホンダ本社ビルの前には、16戦15勝した「マクラーレン・ホンダ」のF1マシンが展示されているニュースを見た。
私の夢は、そのニュースと関係があるはずだ。
発表当日のテレビのニュースでは、テレ朝「ニュースステーション」で古舘伊知郎が、子どものようなうれしそうな表情でF1に触れたのが印象的だった。
彼は、かつてフジテレビでF1の実況中継を担当、素晴らしい中継をした。
日頃彼がどう番組で見せる奇妙な表情とは、まるで違っていた。
古舘伊知郎は、そのことをよく考えるべきだ。
日本がバブル景気にわいていた時期、日章旗をほうふつさせる白地に赤い「マクラーレン・ホンダ」は、〝強い日本のシンボル〞となり、同車を操縦したアイルトン・セナの人気も加わって「F1ブーム」を創出した。
本田宗一郎(以下、敬称略)は、創業したホンダがまだ海のものとも山のものともつかない頃にいった「いつか必ず、F1で優勝して世界の頂点に立つんだ」は、見果てぬ夢のように思えたが、それから何十年もの歳月を経て、その夢は、マクラーレン・ホンダの優勝で「正夢」となり、本田宗一郎は伝説の人となった。
キャラミサーキットでの「南アGP」がF1観戦初体験
前に触れたように、その時期、私はF1に関わっていた。
東京中日スポーツ・中日スポーツにF1の記事の連載し、その後、F1専門誌「F1グランプリ」という雑誌に「F1の経済学」を連載するなどしていたのだ。
私が初めてF1を見たのは、早稲田大学政経学部を卒業する直前の1970年3月である。
「週刊プレイボーイ」の読者特派員として、露木という編集者に引率されて、ローマ経由でその年のF1の第1戦が行われる「南アグランプリ」を観戦しに行ったのだ。
そのときホンダは、F1から撤退していて、日の丸マシンを見ることはできなかった。
そのとき、私は東宝入社が決まっていて、映画の助監督になるはずだったので、いつか、日本人のF1ドライバーを主役にした映画をつくってみたと思ったものだった。
当時は、シナリオは簡単で書けるが、小説やノンフィクションを書くだけの力は自分にはないと考えていた。今にして思えば、考え違いもはなはだしく、「シナリオと小説は似て非なるもの」であることに気づいていなかっただけの話だ。
だが、3年で助監督を辞めてソニーに入ったので、映画をつくる夢は消え、自分は映画には向いていなかったという思いが次第に強くなった。
F1本を2冊書いたことで、大学卒業間際の夢はかなった
東宝をやめて10年ばかり過ぎた頃、小説を書きたいと思うようになり、試作してみたが、どう書いたらいいのか、わからず、なかなか筆が進まなかった。
妙に意識し、格好をつけすぎてしまっていたのだ。
その結果、いまにして思えば妙に純文学を意識したような〝完全な駄作〞としかいえない低レベルのものしかできなかった。
それを、当時角川書店の小説誌「野生時代」で編集者をしていた大学のゼミの後輩に見てもらったが、返答に給するほどの駄作だったせいか、これといった感想はなく、私には不向きと思えた「大藪晴彦のようなハードボイルド物」を書いてみませんか」といわれたので、書くのを諦めた。
その後、このままサラリーマンを続けても面白くないという思いが強くなって、ふと気が変わり、自分には娯楽性の強い小説が向いているのではないかと気づいて短編小説を書き、文藝春秋の中間小説誌「オール読物」の新人賞に応募したところ、運よく次点となり、次作で新人賞がもらえた。
しかし、ソニーでの仕事が超多忙になり、小説を書いている時間などなくなったので、思い切って退職。物書き専業に転じたが、不思議なことにF1を小説にしたいとは思わなくなっていた。
ところが、不思議なことに、スポーツ紙のF1ホンダ連載の仕事が舞い込んだのである。そのとき、「いつかF1のことを」と願った大学時代の夢がかなったと思った。
そのときスポーツ誌に連載したホンダのF1は、単行本の『ホンダ魂』(世界文化社)として上梓され、かなり売れたが、現在は絶版となっている。
それを読んだF1専門誌の編集者が、「F1を経営面からとらえた連載をしないか」といってくれ、「F1の経済学」を執筆した。
そういう方面に目を向けるF1ジャーナリストはいなかったこともあり、2年ばかり連載が続き、その後、加筆して『F1の経済学』(日本評論社)という単行本にした。
ホンダマシンをドライブした中嶋悟の事務所を取材で訪れたら、書棚にその本があり、彼も読み、「面白かった」と聞いて喜んだことを覚えている。
私が学生時代に思い描いたF1への夢は、映画ではなかったが、2冊の本にしたことでかなったと考え、F1の執筆から離れた。
――あれから幾星霜、私もすっかりと年をとってしまった……。
今は亡きわが父が時折、くちづさんでいたフォスターの「オールド・ブラック・ジョー」の英語の歌詞が私の頭をかすめて過ぎる。
♪ Gone are the day when my heart was young and gay
(若き日は はや夢と過ぎ……)
拙著『吉田松陰「留魂録」』の増刷が決定したという知らせを受けた日に記す。
(オールド・イェロー・ジョーこと城島明彦)
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