« ちょっといい話「郵便局の親切に『ありがとう!』」 | トップページ | NHK大河「花燃ゆ」(第4回「いきてつかあさい」)はよくできていた »

2015/01/25

「花燃ゆ」の謎――「吉田松陰と女囚(高須久子)の秘められた恋」とは!?


恋も知らず、国のために死んだはずだが、NHKは?

 坂本龍馬とお龍、桂小五郎(木戸孝允)と幾松、高杉晋作と愛人おうの――命がけで生きた幕末の英雄たちには、色恋沙汰のエピソードも多いが、吉田松陰はどうだったか!?

 「英雄色を好む」というがあるが、「至誠の人」吉田松陰には当てはまらなかった。
なぜなら、松陰は気まじめ人間で、酒は飲まず、タバコも喫わず、幼少期から本を読んでいるか、書き物をしているかで、女にうつつを抜かしている時間など少しもなかったのだ。それ以外にも、二度も牢屋に入れられたし、親元に幽閉された期間もあったという理由もある。

 最初の投獄は「脱藩」して東北旅行に出かけたためだった。
 二度目は、伊豆の下田に停泊中のペリーの艦船で密航しようとして断られ、自首して獄につながれた。
 なぜそんな無謀なことをしたかを彼自身の一言でいうと、
 「やむにやまれぬ大和魂」
 に突き動かされたからである。

 30年という短すぎる人生のなかで、松陰が思いを寄せた女性などいなかったのが歴史的事実だが、「それでは寂しい」「秘かに思った女性はいたのではないか」と考える人もいる。

 そしてその思いが「秘かにいた人があってほしい」という願望に変わり、やがては「秘かに思う人はいた!」という既定の話へと妄想がふくらんでいく。
 だが、それは事実は、吉田松陰が秘かに思いを寄せた女性など存在しなかったのである。

 その女性の名は、高洲久(高洲ひさ)または高須久子(たかすひさこ)という上級武士の未亡人。しかも彼女は、たった一人の女囚。
 彼女の投獄理由は、芸事が大好きで、複数の男の芸人を家に呼び、酒を振舞い、宿泊させたからだった。「武士の後家にあるまじき行い」と親戚の者が激怒し、藩の牢にぶちこんだのだ。

 NHK「花燃ゆ」は、色っぽさで人気がある井川遥を彼女の役に当てた。
 どう描くのか!?


妹の証言「生涯婦人に関係せることはなかった」

 「花燃ゆ」の主人公文(ふみ)の一番上の姉千代は、松陰のことをこう証言している。
 (城島による現代語訳)

 「三十年の生涯は短いといえば短いですが、一般的な世間の尺度で見ると妻を迎え一家を成すべき年齢でした。
 けれど松陰は、成年に達してからは全国のあちらこちらと遊歴しましたし、ここ長州にいるときでもお咎めを受けて蟄居(ちっきょ)を申しつけられておりましたから、妻帯するなどという相談や話が湧いて出ようはずもありません。
 ましてや罪を負う身であってみれば、表立って妻を娶(めと)るというわけにもいきませんでしたが、せめて身の回りの世話を婦人くらいは近づけてはどうかという人もあったようで、その親切な気持ちはありがたいけれど、松陰の心を知らない人の言であるので、見知った人は誰も松陰に面と向かってそういったことを告げる者はありませんでした。
 松陰は生涯婦人に関係せることはなかったのです」


松陰の恋愛は話としては面白いが、信憑性に欠ける

 「松陰は生涯婦人に関係せることは無かりしなり」
 と、松陰の妹が断言しているのに、それを無視して、
 「色恋沙汰の一つくらいはあってもいいじゃないか」
 と考えたがる人の気持ちはわからなくもないが、そういう考え方はよくない。

 誰かいなかったかという視点で探すと、それらしい女性が浮上する。
 萩で牢獄に収監されていたとき、別牢にひとまわり上の女囚が一人だけいて、交流があったのだ。
 前述した「高洲久」(たかす ひさ)または「高須久子」(たかす ひさこ)である。

 高須久子は松陰より上の身分の上級武士の娘で、婿養子をとったが、夫に先立たれて未亡人となった。
 金があって暇をもてあますようになったために、三味線など趣味の芸事の世界に走った。
 それだけなら問題なかったが、彼女は芸人を家に呼んで酒をふるまい、泊めるなどした。

 そのことが近所の評判となり、やがて親戚の耳にも入った。
 身分制度が厳しい時代にあって、芸人が被差別部落出身の男だったことから、親戚の者が困り果て、長州藩に 訴え出て「借牢」(保護入獄)ということになったのだが、刑期はなく、無期限の入獄であった。


恋愛感情を疑われかねない和歌とは!?

 松陰がつくった和歌のなかには、詞書(ことばがき。前書き)に「高須久子との恋愛感情」を疑われそうなものもなくはない。
 「高須未亡人に数々のいさをしをものがたりし跡にて」という詞書のある次の和歌だ。

  清らかな 夏木のかげに やすらへど 人ぞいふらん 花に迷ふ

 「花を高須久子になぞらえている」として、松陰に秘められた恋愛感情があった解釈する向きがあるのだ。

 そういわれてみれば、そうも思えなくないが、素直に考えてみると我田引水。その裏に、「松陰に恋愛があったら面白い」という願望のようなものが見え隠れする。

 松陰は獄舎で一番年齢が若く、身分的には高須久子の方が上ということもあり、彼女は松陰に対して気軽に接した可能性はなきにしもあらずだが、恋愛感情からそのように接したとはいえないのである。

 逆に男の側から見ると、別牢とはいえ、牢獄にいる女性は30代後半の後家の高須久子だけであるから、男の囚人が生理的に情欲を刺激される場面もなくはなかったろう。
 だからといって、どうこうできるわけではない。
 ましてや松陰は、非常に禁欲的な生き方をした男であり、獄という特殊な状況下で堕落した道に走る気持ちにはなりえない。

 この歌が恋愛感情を歌ったものではないという論拠については、改めて後述する。


松陰は誰にも優しく親切で、相手を気遣う人

 前述した松陰の妹千代は、松陰のことをこうも語っている。
 「顔には疱瘡(ほうそう)のあとがいっぱいあるし、お世辞はいわないので、一見、とても無愛想なように思われたけれど、一度、二度と話をした人は、年齢に関係なく、松陰に親近感を覚えないことはありませんでした。
 松陰は相手に応じて話をしました。松陰は、また、好んで客を遇しました。御飯時になると、必ず御飯とありあわせのおかずを出し、空腹をがまんして話を続けるというようなことはありませんでした」

 このエピソードからわかるように、松陰は相手を気遣う人で、誰にも優しく親切だったのだ。
 そういう姿勢は牢獄でも同じで、どんな囚人にも分けへだてなく接したから、高須久子だけを特に意識するということは考えにくいのである。

 松陰には妹が4人(1人は早世)もいたから、女に対する接し方がわからなかったわけではない。
 したがって、高須久子に対してもごく自然に接することができたはずで、特別に親切にしたり、異性を意識してやさしくするというような対応はなかったと考えるべきである。


牢獄内で歌会や句会を開いた

 松陰が込められた「野山獄」と呼ぶ長州藩の牢獄は、差し入れ自由で、囚人間の交流も禁止されてはいなかった。

 それでも、厳しい規則は存在し、それを疑問に思った松陰は、司獄(牢役人)と掛け合って、牢獄環境の改善に尽力し、夜も読書できるように点灯を認めさせるなどした。

 こういうところも普通の囚人と違っており、囚人をそのように待遇するのは長州藩始まって以来だった。
 そういう待遇を獄舎側が受け入れたのは、牢内で松陰が他の囚人たちに「孫子」や「孟子」について講義している様子を司獄が見て感激し、自らも学びたいと申し出るほど松陰の人格に傾倒していたからである。

 司獄が牢屋内に入って一緒に講義を受けることは禁じられているので、その司獄は、牢の外に坐って講義を聞き、弟にもその講義を受けさせるほど、薫陶を受けた。

 松陰が江戸送りになる前夜、こっそり自宅へ帰らせ、宿泊も認めて家族との別れをさせたのも、この司獄である。そのことがわかって、後で司獄は罰せられた。
 接した相手をそこまで動かすのが松陰という人物なのである。

 松陰は、長い年月にわたって投獄されていた何人かの囚人の出獄も実現させるという画期的なこともやった。
 と同時に、松陰は教えるだけでなく、書道や俳句のうまい囚人を教師にして自らも習った。
 そうやって、和気あいあいとした雰囲気が牢内に満ちあふれていくのだ。
 
 そういう環境のなかで、句会や歌会が開かれたのである。


歌はいかようにも解釈できる

 和歌は、「ノストラダムスの大予言」にある予言詩ではないが、いかようにも解釈できる。
 松陰が獄を出るときに高須久子が送った次の句も同様だ。

  鴫(しぎ)立つて 跡さびしさの 夜明けかな

 「恋愛関係があった」する考える人は、「さびしさ」を異性に対する思いと考え、「鴫」(しぎ/鳥の種類)が松陰の字『子義』にかけ、久子が松陰に対する思いを込めた」とする。

 松陰には「子義」という字(あざな)もあるが、これはほとんど使っていない。
 松陰が好んで使い、遺書の『留魂録』などにも記しているポピュラーな字は、もう一つの「義卿」の方である。
 
 松陰は、囚人たちから「子」と呼ばれていた。老子、孔子などの「子」と同じで、「先生」「子」という意味の尊称である。
 
 鴫を子義に懸けたと解釈しても、松陰がいなくなった獄舎はさびしくなったという単純な意味にしかとれず、そこに恋愛感情があったとするのは考えすぎというものだ。


NHKは「恋愛説」か「人間愛説」か

 松陰は身分差別をせず、被差別部落の人間に対してもやさしい態度で対等に接したので、彼らからも尊敬された。
 一方、高須久子は被差別部落の芸人を家に招き、宿泊までさせているので、松陰と共通するところはある。

 だが、30代後半の未亡人と20代後半の若い男が、心を通わしたからといって、それを即「恋愛感情」とみなすのは、あまりに短絡的すぎはしまいか。
 両者間に「恋愛感情があった」という先入観にとらわれてしまうと、「こじつけっぽい解釈」に陥りがちである。

 NHKは、高須久子に井川遥という色っぽさを売りにしている女優を起用しているが、「安易な恋愛説」を採るのか、もっと深い「人間的な共感関係説」ととるのか。
 その描き方次第で、安っぽいドラマともなるし、人間性追求のレベルの高いドラマともなりうる。その意味で、私はNHKの描き方を知りたい。

 高須久子との関係の描き方一つで、松陰の生き方・考え方そのものが変わってしまう。高須久子のことを知っている視聴者はごく限られている。たかが「ドラマ」ではすまないのだ。

 松陰を神聖視する人が「牢獄での恋愛などもってのほか」と否定する場合もあるだろうが、きちんと理詰めで考えれば、松陰の恋愛説は否定できるのである。
 映画や小説にするには、恋愛関係にあったとする方が面白いし、書きやすいが、現実はそうではなかったのだ。


解釈次第では「松陰の恋愛」ととれなくもない和歌

 「松陰恋愛説」とする人が根拠とする前述の和歌について、改めて述べる。

 「高須未亡人に数々のいさをしをものがたりし跡にて」という詞書のついた松陰の歌で、「松陰が女囚の未亡人にひそかに恋愛感情を抱いていた」とされる。

  清らかな 夏木のかげに やすらへど 人ぞいふらん 花に迷ふ

 詞書にある「いさをし」は「勲し」(勇ましい)で、詞書は「高須未亡人に私が蛮勇をふるった体験を話した場所で詠んだ歌」という意味である。
 
 「夏の暑い日差しを避けて、獄にある涼やかな木の陰で一息入れていただけなのに、はた目には、美しく咲き誇る花を眺めている柔(やわ)な男のように写ったかもしれない」
 
 松陰の考え方を推量すると、こういう解釈になると私は考える。

 和歌にある「花」を高須久子ととれば、ひめやかな恋の歌と思えるかもしれないが、獄につながれた身の松陰が、あからさまな歌を恥も臆面もなくつくるということはありえない。

 男を知っている未亡人の久子が、無防備に若い松陰に接近してくるのを牽制する内容の歌ともとれなくない。

 いやしくも国のために死のうと思っている人間が、女の色香に迷うなどということをストレートに歌に詠もうとは思われない。このことは、松陰以外の男にもいえることだ。

 歌は、いかようにも解釈できるのだ。
 

松陰への愛を込めたという高須久子の句の矛盾

 江戸送りとなった松陰との別れに際して、囚人たちは、めいめいの思いを込めた。
 高須久子が詠んだ句は、次のようなものだった。

   手のとはぬ 雲に樗(おうち)の 咲く日かな
 
 樗(おうち)は栴檀(栴檀)の旧名。「楝」(おうち)とも書く。
 「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」という諺にある、あの木のことだ。
 樗(おうち)は、庭木にも使われているが、生育すると樹高10メートル以上になる大きな木だ。
 
 松陰が長州藩の野山獄を出て、江戸の評定所へと向かったのは5月25日(旧暦)である。
 薄紫色の花が咲き誇るのは初夏なので、その時期のことを詠んだということがわかるが、この歌に松陰への愛を込めたとするには無理がある。
 
 この句をごく普通に解釈すると、
 「どんなに手を伸ばしても届かない雲のように、高いところまでそびえている樗(おうち)の木にうつくしい花が咲き誇っている初夏の今日という日だこと」
 という意味になるが、恋愛感情があったことを前提に考えると、
 「あの木のようにあなたは遠くへ旅立ってしまった」
 といった一文が加わることになる。


松陰はなぜ「ほととぎす」と詠んだのか!?

 前掲した高須久子の句「手のとはぬ 雲に樗(おうち)の 咲く日かな」の前に記された詞書には
 「高須うしに申し上ぐるとて」
 とある。この意味をよく考えないといけない。
 「うし」は、「年長者の女性に対する敬称」である。松陰は、相手が男でも女でも「長幼の序」をきちんとわきまえていたことが、この一語から読み取ることができるのだ。

 そんな松陰が高須久子に返した句は、次のようだった。

  一声を いかで忘れん ほととぎす 

 松陰は、自身を「ほととぎす」に例えた。これが重要なのだ。
 ほととぎすは、初夏を告げる鳥である。
 
 ♪卯の花の におう垣根に
  時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて
  忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ (小学唱歌「夏は来ぬ」)

 この歌がつくられた時代は明治で、初夏の情景をふんだんに盛り込んだ佐々木信綱作詞「夏は来ぬ」の歌詞は5番まであるが、4番の歌詞に前述した「楝」(おうち)が出てくる。

 ♪「楝」(おうち)ちる 川辺の宿の
  門(かど)遠く 水鶏(くいな)声して
  夕月すずしき 夏は来ぬ

 薄紫色のおうちの花びらが川面に散っている――初夏の美しい黄昏どきの情景が歌われている。


松陰の返した句の「ほととぎす」は「死の覚悟」を意味する

 ほととぎすは口のなかが赤いので、昔から「鳴いて血を吐くほととぎす」といわれてきた。松陰は、高須久子に返した句にその意味も込めているが、それ以上にもっと深い別の意味もあった。

 明治時代の作家徳富蘆花の小説に「不如帰」(ほととぎす)があるが、この当て字は中国の故事によっている。
 ほととぎす(不如帰)とは「帰ることができない」という意味なのだ。
 帰ることができないとは、「死ぬ」ことを意味している。
 
 松陰の句の「一声」を高須久子が詠んだ句の声と解釈するなら、吉田松陰は単なる凡人である。
 そうではなく、松陰のいう「一声」とは、自身が常日頃から口に出していっている「至誠」という一声が「主」であって、それに高須久子の句を詠んだ声を「副」として重ねたと解釈すべきではないのか。

 「あなたをはじめ、皆さんとは今生(こんじょう)の別れになるけれど、私はほととぎすのように血を吐いても私の主義主張をつらぬき通す覚悟です」
 こう解釈するというのが、私の説である。

 早世した明治の文豪正岡子規の「子規」は「ほととぎす」のことで、正岡子規は、当時は「死に至る病」とされた結核に罹患して喀血したときにその俳号をつけた。
 「悲壮な覚悟」がありながら、それを俳号にしてしまうような子規の「人間的なスケールの大きさ」を夏目漱石はそれ以前から気づいており、無二の親友になったのではないか。

 同様に「死を覚悟」した松陰は、高須久子の句への単純な返しとして、獄舎のどこかで鳴くようになった「ほととぎす」を句のなかに用いたのではない。

 そういう覚悟を軽くみなして、単なる恋愛感情だけを云々するという解釈は、松陰という人の人生航路のどこをたどっても出てくる話ではない。


樗(おうち)は「獄門の木」だ!

 重要なのは、「楝」(おうち)あるいは樗(おうち)の木に深い意味を読み取ろうとすると、致命的な矛盾が生じるということだ。
 獄門首を懸ける木や板は「楝(おうち)」でつくられていたのである。
 『源平盛衰記』は、「楝(おうち)」を「獄門の木」と書いている。

 最初に楝(おうち)の木に首をかけられたのは、源頼朝の父義朝で、次が信西(しんぜい)だ。
 獄門とは獄舎の門という意味で、当時、獄舎の門を入ってすぐ左側に大きな「楝」(おふち=樗)の木があり、そこに首を懸けて人目にさらしたのである。

 幕末の「安政の大獄」の犠牲者のなかには「獄門」になった者もいるが、松陰の場合は「斬首」である。
つまり、「樗」(おうち)に深い意味を持たせようとすると、おかしなことになってくるのだ。


山上憶良が詠んだ頃とは「楝」(おうち)意味が違う

 山上憶良(やまのうえのおくら)が、妻を亡くした大伴旅人(息子が、万葉集を編纂した大伴家持)の心情を思いはかって贈った歌に、こういうのがある。

  妹(いも)が見し 楝(おふち)の花は 散りぬべし わが泣く涙 いまだ干(ひ)なくに 
 
 楝(おふち)は「樗」(おふち)と同じで、「逢ふ」(あふ)を懸けおり、次のような意味になる。

 「あなたが好きだった庭のおうちの花は散ってしまいそうです、その花をあなただと思ってずっと見続けている、この私の涙がまだ枯れてもいないのに――」

 この時代と江戸時代とでは、同じ「樗」(おふち)から連想する意味が違っているのだ。


高須久子が餞別に送った「手ぬぐい」にも深い意味はない

 太平洋戦争中、戦地にいる日本兵の無事を祈って「千人針」を縫って贈ったが、その相手に恋愛感情など抱きはしない。国を遠く離れて戦っている兵隊に鉄砲の玉が当たらないように、ケガをしないようにとの単純な祈りの気持ちを込めただけである。
 
 吉田松陰が、長州藩の獄(野山獄)から江戸へ送られることになったときに、囚人たちは別れの歌を詠んだ。
 そのとき、高須久子は「手縫いの手ぬぐい」も贈った。
 それを愛のあかしだと取るのも単純すぎる。
 女性だから裁縫ができ、みじかに役立つものと考えたら、

 もし手ぬぐいでなく、「ふんどし」であれば、恋愛感情があったとも考えられるが、手ぬぐい一枚で恋愛感情を云々するというのは強引過ぎるのではないか。

 そのお礼に松陰が詠んだ歌がある。

  箱根山 越すとき汗の 出でやせん 君を思ひて ふき清めてん

 「君を思いて」が「恋愛感情」というのは簡単だが、松陰の気持ちはそんな低レベルではない。

 汗を拭くたびに、それを贈ってくれた人を思い浮かべるのは松陰に限ったことではない。
 母親に贈られたのであれば母親を、妹から送られたのであれば妹を思うのは、ごく普通だ。

  箱根山 越すとき汗の 出でやせん 君を思ひて ふき清めてん


松陰の遺書『留魂録』に出てくる手ぬぐいとは別物だ!

 処刑を前にした松陰は、江戸の獄舎で『留魂録』と題した遺書をしたためる。
 その冒頭に、次のように書かれている。

 一白綿布を求めて、孟子「至誠而不動者未之有也」(至誠にして動かざる者、未だこれあらざるなり)の一句を書(しょ)し、手巾(しゅきん)へ縫い付け、携へて江戸に来たり。我これを評定所に留(と)め置きしも、吾志(わがし)を表するなり。
 (詳細は、拙著『吉田松陰「留魂録」』を参照されたい)

 松陰は自ら用意した別の手ぬぐいに「至誠」と書いた綿布を縫いつけ、それを鉢巻にして主義主張を示したが、もし高須久子に恋愛感情を抱いていたなら贈られた鉢巻をそうしていたはずだ。
 だが松陰は、それを汗拭きに使ったのである。


平成15年発見の「久子69歳の歌」と朝日新聞のノー天気

 2005年(平成15年)に松陰が松下村塾で教えた塾生の一人だった渡邊蒿蔵(こうぞう)という男の遺品のなかから、和歌と「久子 六十九歳」という文字が刻んである茶碗が発見された。
 その歌は、次のようだった。

  木のめつむ そてにおちくる 一声に よをうち山の 本とゝとき須かも

 松陰と久子に恋愛関係があったと考える人は、この歌も松陰を思い浮かべて詠んでいると解釈してしまう。
 だが、この歌を素直に解釈すると、 
 「春先の山で木の芽を摘んでいると、鳥の一声が着物の袖のあたりに落ちてきたように聞こえたけれど、その声の主は宇治の山のほととぎすかもしれない」
 という、ごく普通の内容である。

 「よをうち山の」は「世を宇治山の」の意味に「をうち」を懸けていると読めなくはないが。こじつけになる。
 
 この歌から連想するのは、平安時代の歌人喜撰法師(きせんほうし)の歌だ。

  わが庵(いを)は都のたつみ しかぞすむ 世を宇治山とひとはいふなり

 朝日新聞は、茶碗発見の記事(平成15年11月20日付朝刊)に、こんな見出しをつけた。
 「松陰『恋人』高須久子 想い茶わんに刻む」(山口総合版)

 朝日新聞は、こんなところでも捏造していたのだ。

Photo

(城島明彦)


« ちょっといい話「郵便局の親切に『ありがとう!』」 | トップページ | NHK大河「花燃ゆ」(第4回「いきてつかあさい」)はよくできていた »