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2015/01/28

メディアは、なぜ「イスラム国」人質事件のジャーナリストの軽はずみな言動を非難しないのか!?


過信が招いた国際事件

 死者に鞭打つような言い方になるが、戦争を知らない湯川遥菜(以下、敬称略)という奇妙なオカマが蒔いた種が、とんでもない国際事件に発展した。
 実践訓練を受けたこともない軍事のド素人が、まるで戦争ごっこのように「軍事会社」を設立し、ハクをつけようとして紛争地帯へ行き、イスラム国に捕まった。

 それを知った日本の政府は、困惑するより、あきれかえった。

 そんな常識ハズレの人間と知り合いになって通訳をしたというだけなのに。ジャーナリストの後藤は、義侠心に駆られて自身を過信し、敵や戦場を甘く見、交渉すれば何とかなると高をくくった。

 その結果、湯川も後藤も、身代金目当ての捕虜にされ、挙句の果てに湯川は殺され、後藤の身の安全を図るには、巨額の身代金を要求されたり、テロリストの捕虜との交換を要求されるなどという事態を招いた。

 軽はずみな行動としか取れないのに、メディアは、後藤が人道的なジャーナリストであるといったことしか報じなかった。
 
 「イスラム国」が、湯川を脅して写したインターネット画像で日本やヨルダンに「解放条件」を突きつけ、自爆テロ未遂でヨルダンに捕まって死刑判決を受けているイラク人の女テロリストと「イスラム国」の捕虜になっているパイロットとを交換するという話が急浮上したが、それが実現した後、その女が再び自爆テロを敢行したら、どうなるのか。
 湯川は、全ヨルダン人を敵に回すことになる。

 危険を犯して紛争地域に潜入して取材しようとする根性は見上げたものではあるが、捕まったときに、被害が自分だけで収まらなくなったと判断した場合には「自決する」というような悲壮な覚悟があったのかどうか。

 そこまで覚悟を決めていたのなら何もいわないが、現実には国際問題を引き起こしてしまった。
 そうなると、単なる匹夫の勇、無謀でしかない。
 慎重のうえにも慎重を期し、もっと自重すべきだった。

 (城島明彦)

審判部批判で馬脚を現した白鵬! 相撲協会が甘やかしたから増長した!


〝勘違い横綱〞白鵬は、説教めいた話も自重せよ

 白鵬が強いのは誰にもわかる。
 大体、日本人力士がふがいなさ過ぎる。
 白鵬に手も足も出ない。
 だから、白鵬が増長し、説教めいた話をよくするのだ。

 横綱は勝って当たり前、兜の緒を緩めてはいけないのだ。
もっと自戒せよ。
 横綱は、ただ強いだけではいけないのだ。
 強ければ強いほど、淡々としていなければならない。
 白鵬は、そのことの本当の意味がわかっていない。

 白鵬は、しゃべりすぎる。よけいなことをべらべらとしゃべりすぎる。
 なにかというと「大鵬さんを尊敬している」と口にするが、そんなに尊敬しているのなら、大鵬にならって、もっと寡黙になったらどうか。


懸賞金でガッツポーズする〝おぞましい姿〞は横綱にふさわしくない

 「どうだ!」とでもいわんばかりに、白鵬がこれみよがしに懸賞金でガッツポーズをして見せる姿は「おぞましい」の一言に尽きる。

 「張り差し」やプロレスまがいの「かちあげ」のような〝セコイ技〞も大横綱にはふさわしくない。控えるべきである。品位にかける。

 堂々たる体格にくわえて、堂々たる押し相撲や、がっぷり四つに組んでの豪快な投げで勝てるにもかかわらず、セコイ手を使うのは、ただただ勝率を上げようという浅ましい魂胆なのか!?

 関脇ぐらいまでなら許されるそのようなセコイ手も、封印してこそ横綱だ。
 立合いの変わり身同様、横綱なら、勝負に負けてもいいから「張り差し」や「かちあげ」のような手はもう使うな。


大鵬が不滅なのは、ただ単に強かったからではない

 大鵬が名横綱といわれるのは、優勝回数が多かったからだけではない。
 大横綱にふさわしい堂々たる相撲をしたからだ。
 双葉山も同様だ。

 大鵬は、マイクを向けられても多くを語らなかった。
 人生を語ったり、大鵬についてあれこれ語ったりするのは、引退してからで十分だ。
 勝って兜の緒をゆるめっぱなしにしてどうする。

 黙っていれば神秘性が増す。
 勝っておごらず、なおも精進し続ける寡黙な姿こそ、真の大横綱にふさわしい。


白鵬を増長させたのは「相撲協会の怠慢」

 真の大横綱とは何か。
 強いだけなく、「心技体が完成している」と第三者の目に感じられることが必要だ。

 取り口が堂々として美しく、立ち居ふるまいにも「横綱としての品位」が滲み出てこそ、真の大横綱である。
 審判の判定に文句をつけるなど、もってのほか、横綱の風上にも置けないということだ。
 白鵬の懸賞金の扱い方にそれが現れていたが、相撲協会は注意すらしてこなかった。
 懸賞金を高々と掲げて、ガッツポーズをする横綱がどこにいるか!
 懸賞は「粛々と戴く」のが作法である。
 横綱なら、なおのこと。

 わかっていて、やっているとすれば、他の力士を小バカにし、国技をなめている、おごっているのであり、「横綱の資質」が問われることになる。


大鵬は誤審で46連勝をストップされた世紀の誤審にも黙っていた

 白鵬は、稀勢の里との勝負が取り直しとなった件で、「あれは勝っていた」と相撲協会の審判部をストレートに批判した。
 そもそも、大相撲の歴史のなかで、公然と審判を批判した力士などいない。
 それをいっちゃオシマイなのだ!
 だが、白鵬はそれを行い、相撲史を塗り替えてしまった。
 バカじゃないのか。

 明らかな誤審であれば、ファンが騒ぎ、メディアが騒ぐ。
 白鵬は「大鵬さんを尊敬している」という繰り返しいっているが、それなら取り直しの一番にも文句をいうな。

 相撲史に残る昭和44年の春場所2日目。
 双葉山の69連勝を破るのではないかといわれていた大鵬が、45連勝でストップしたのは〝世紀の誤審〞だった。

 戸田が勢いよく攻め、大鵬を土俵際に追い詰めた。
 大鵬は俵伝いに右に回り込んで、「はたく」と戸田の右足が土俵の外に出た。
 その直後に大鵬が土俵を割った。
 行司軍配は大鵬に上がったが、物言いがつき、協議の結果、「行司差し違い」で戸田の「押し出し」となり、大鵬の連勝は途絶えたのだ。

 その取り組みを私はテレビ(白黒テレビ)で見ていたが、戸田の足が出たので大鵬が勝ったとわかったので、
「審判の目は節穴か」
 と、非常に腹を立てたことを覚えている。

 翌日の新聞各紙が、戸田の足が先に俵を割っている証拠写真を掲出したことから騒ぎが大きくなり、相撲協会はビデオ判定を取り入れたのだ。

 白鵬の師匠が北の湖理事長と審判部長に詫びを入れ、「白鵬も反省している」といったと報道されているが、白鵬が本当に反省しているかどうかは、来場所の懸賞金の扱い方をみればわかることだ。

(城島明彦)

2015/01/26

NHK大河「花燃ゆ」(第4回「いきてつかあさい」)はよくできていた


初回からこんな感じでやればよかったが、視聴率は下落

 吉田松陰が下田沖に停泊している米艦に乗り込んで、アメリカへ密航しようとして失敗し、投獄される話がテーマということもあり、緊迫感があり、よくまとまった内容だった。

 松陰の家族の各人の反応も説得力があって、これまでで一番よかった。

 初回からこんな風にやっていたら、視聴率はもっと上がっていたのではないか。

 人物のテロップも入っており、その分、親切になっていた。

 ラストの牢獄で女性の手だけが出てくる思わせぶりな演出は、松陰に詳しくない人には何のことかわからない。 別牢につながれた唯一の女囚(高須久子)女性だが、そんな演出をする必要があるのか疑問に思った。

 今回はよくできていたが、視聴率はどうだったのか。


 (追記)第4回の視聴率は、14・4%(ビデオリサーチ調べ/関東地区)という厳しい数字が出た。
  初回からの推移は、16・7%→13・4%→15・8→14・4%となった。(1月26日12時15分 記)
 

 (城島明彦)

2015/01/25

「花燃ゆ」の謎――「吉田松陰と女囚(高須久子)の秘められた恋」とは!?


恋も知らず、国のために死んだはずだが、NHKは?

 坂本龍馬とお龍、桂小五郎(木戸孝允)と幾松、高杉晋作と愛人おうの――命がけで生きた幕末の英雄たちには、色恋沙汰のエピソードも多いが、吉田松陰はどうだったか!?

 「英雄色を好む」というがあるが、「至誠の人」吉田松陰には当てはまらなかった。
なぜなら、松陰は気まじめ人間で、酒は飲まず、タバコも喫わず、幼少期から本を読んでいるか、書き物をしているかで、女にうつつを抜かしている時間など少しもなかったのだ。それ以外にも、二度も牢屋に入れられたし、親元に幽閉された期間もあったという理由もある。

 最初の投獄は「脱藩」して東北旅行に出かけたためだった。
 二度目は、伊豆の下田に停泊中のペリーの艦船で密航しようとして断られ、自首して獄につながれた。
 なぜそんな無謀なことをしたかを彼自身の一言でいうと、
 「やむにやまれぬ大和魂」
 に突き動かされたからである。

 30年という短すぎる人生のなかで、松陰が思いを寄せた女性などいなかったのが歴史的事実だが、「それでは寂しい」「秘かに思った女性はいたのではないか」と考える人もいる。

 そしてその思いが「秘かにいた人があってほしい」という願望に変わり、やがては「秘かに思う人はいた!」という既定の話へと妄想がふくらんでいく。
 だが、それは事実は、吉田松陰が秘かに思いを寄せた女性など存在しなかったのである。

 その女性の名は、高洲久(高洲ひさ)または高須久子(たかすひさこ)という上級武士の未亡人。しかも彼女は、たった一人の女囚。
 彼女の投獄理由は、芸事が大好きで、複数の男の芸人を家に呼び、酒を振舞い、宿泊させたからだった。「武士の後家にあるまじき行い」と親戚の者が激怒し、藩の牢にぶちこんだのだ。

 NHK「花燃ゆ」は、色っぽさで人気がある井川遥を彼女の役に当てた。
 どう描くのか!?


妹の証言「生涯婦人に関係せることはなかった」

 「花燃ゆ」の主人公文(ふみ)の一番上の姉千代は、松陰のことをこう証言している。
 (城島による現代語訳)

 「三十年の生涯は短いといえば短いですが、一般的な世間の尺度で見ると妻を迎え一家を成すべき年齢でした。
 けれど松陰は、成年に達してからは全国のあちらこちらと遊歴しましたし、ここ長州にいるときでもお咎めを受けて蟄居(ちっきょ)を申しつけられておりましたから、妻帯するなどという相談や話が湧いて出ようはずもありません。
 ましてや罪を負う身であってみれば、表立って妻を娶(めと)るというわけにもいきませんでしたが、せめて身の回りの世話を婦人くらいは近づけてはどうかという人もあったようで、その親切な気持ちはありがたいけれど、松陰の心を知らない人の言であるので、見知った人は誰も松陰に面と向かってそういったことを告げる者はありませんでした。
 松陰は生涯婦人に関係せることはなかったのです」


松陰の恋愛は話としては面白いが、信憑性に欠ける

 「松陰は生涯婦人に関係せることは無かりしなり」
 と、松陰の妹が断言しているのに、それを無視して、
 「色恋沙汰の一つくらいはあってもいいじゃないか」
 と考えたがる人の気持ちはわからなくもないが、そういう考え方はよくない。

 誰かいなかったかという視点で探すと、それらしい女性が浮上する。
 萩で牢獄に収監されていたとき、別牢にひとまわり上の女囚が一人だけいて、交流があったのだ。
 前述した「高洲久」(たかす ひさ)または「高須久子」(たかす ひさこ)である。

 高須久子は松陰より上の身分の上級武士の娘で、婿養子をとったが、夫に先立たれて未亡人となった。
 金があって暇をもてあますようになったために、三味線など趣味の芸事の世界に走った。
 それだけなら問題なかったが、彼女は芸人を家に呼んで酒をふるまい、泊めるなどした。

 そのことが近所の評判となり、やがて親戚の耳にも入った。
 身分制度が厳しい時代にあって、芸人が被差別部落出身の男だったことから、親戚の者が困り果て、長州藩に 訴え出て「借牢」(保護入獄)ということになったのだが、刑期はなく、無期限の入獄であった。


恋愛感情を疑われかねない和歌とは!?

 松陰がつくった和歌のなかには、詞書(ことばがき。前書き)に「高須久子との恋愛感情」を疑われそうなものもなくはない。
 「高須未亡人に数々のいさをしをものがたりし跡にて」という詞書のある次の和歌だ。

  清らかな 夏木のかげに やすらへど 人ぞいふらん 花に迷ふ

 「花を高須久子になぞらえている」として、松陰に秘められた恋愛感情があった解釈する向きがあるのだ。

 そういわれてみれば、そうも思えなくないが、素直に考えてみると我田引水。その裏に、「松陰に恋愛があったら面白い」という願望のようなものが見え隠れする。

 松陰は獄舎で一番年齢が若く、身分的には高須久子の方が上ということもあり、彼女は松陰に対して気軽に接した可能性はなきにしもあらずだが、恋愛感情からそのように接したとはいえないのである。

 逆に男の側から見ると、別牢とはいえ、牢獄にいる女性は30代後半の後家の高須久子だけであるから、男の囚人が生理的に情欲を刺激される場面もなくはなかったろう。
 だからといって、どうこうできるわけではない。
 ましてや松陰は、非常に禁欲的な生き方をした男であり、獄という特殊な状況下で堕落した道に走る気持ちにはなりえない。

 この歌が恋愛感情を歌ったものではないという論拠については、改めて後述する。


松陰は誰にも優しく親切で、相手を気遣う人

 前述した松陰の妹千代は、松陰のことをこうも語っている。
 「顔には疱瘡(ほうそう)のあとがいっぱいあるし、お世辞はいわないので、一見、とても無愛想なように思われたけれど、一度、二度と話をした人は、年齢に関係なく、松陰に親近感を覚えないことはありませんでした。
 松陰は相手に応じて話をしました。松陰は、また、好んで客を遇しました。御飯時になると、必ず御飯とありあわせのおかずを出し、空腹をがまんして話を続けるというようなことはありませんでした」

 このエピソードからわかるように、松陰は相手を気遣う人で、誰にも優しく親切だったのだ。
 そういう姿勢は牢獄でも同じで、どんな囚人にも分けへだてなく接したから、高須久子だけを特に意識するということは考えにくいのである。

 松陰には妹が4人(1人は早世)もいたから、女に対する接し方がわからなかったわけではない。
 したがって、高須久子に対してもごく自然に接することができたはずで、特別に親切にしたり、異性を意識してやさしくするというような対応はなかったと考えるべきである。


牢獄内で歌会や句会を開いた

 松陰が込められた「野山獄」と呼ぶ長州藩の牢獄は、差し入れ自由で、囚人間の交流も禁止されてはいなかった。

 それでも、厳しい規則は存在し、それを疑問に思った松陰は、司獄(牢役人)と掛け合って、牢獄環境の改善に尽力し、夜も読書できるように点灯を認めさせるなどした。

 こういうところも普通の囚人と違っており、囚人をそのように待遇するのは長州藩始まって以来だった。
 そういう待遇を獄舎側が受け入れたのは、牢内で松陰が他の囚人たちに「孫子」や「孟子」について講義している様子を司獄が見て感激し、自らも学びたいと申し出るほど松陰の人格に傾倒していたからである。

 司獄が牢屋内に入って一緒に講義を受けることは禁じられているので、その司獄は、牢の外に坐って講義を聞き、弟にもその講義を受けさせるほど、薫陶を受けた。

 松陰が江戸送りになる前夜、こっそり自宅へ帰らせ、宿泊も認めて家族との別れをさせたのも、この司獄である。そのことがわかって、後で司獄は罰せられた。
 接した相手をそこまで動かすのが松陰という人物なのである。

 松陰は、長い年月にわたって投獄されていた何人かの囚人の出獄も実現させるという画期的なこともやった。
 と同時に、松陰は教えるだけでなく、書道や俳句のうまい囚人を教師にして自らも習った。
 そうやって、和気あいあいとした雰囲気が牢内に満ちあふれていくのだ。
 
 そういう環境のなかで、句会や歌会が開かれたのである。


歌はいかようにも解釈できる

 和歌は、「ノストラダムスの大予言」にある予言詩ではないが、いかようにも解釈できる。
 松陰が獄を出るときに高須久子が送った次の句も同様だ。

  鴫(しぎ)立つて 跡さびしさの 夜明けかな

 「恋愛関係があった」する考える人は、「さびしさ」を異性に対する思いと考え、「鴫」(しぎ/鳥の種類)が松陰の字『子義』にかけ、久子が松陰に対する思いを込めた」とする。

 松陰には「子義」という字(あざな)もあるが、これはほとんど使っていない。
 松陰が好んで使い、遺書の『留魂録』などにも記しているポピュラーな字は、もう一つの「義卿」の方である。
 
 松陰は、囚人たちから「子」と呼ばれていた。老子、孔子などの「子」と同じで、「先生」「子」という意味の尊称である。
 
 鴫を子義に懸けたと解釈しても、松陰がいなくなった獄舎はさびしくなったという単純な意味にしかとれず、そこに恋愛感情があったとするのは考えすぎというものだ。


NHKは「恋愛説」か「人間愛説」か

 松陰は身分差別をせず、被差別部落の人間に対してもやさしい態度で対等に接したので、彼らからも尊敬された。
 一方、高須久子は被差別部落の芸人を家に招き、宿泊までさせているので、松陰と共通するところはある。

 だが、30代後半の未亡人と20代後半の若い男が、心を通わしたからといって、それを即「恋愛感情」とみなすのは、あまりに短絡的すぎはしまいか。
 両者間に「恋愛感情があった」という先入観にとらわれてしまうと、「こじつけっぽい解釈」に陥りがちである。

 NHKは、高須久子に井川遥という色っぽさを売りにしている女優を起用しているが、「安易な恋愛説」を採るのか、もっと深い「人間的な共感関係説」ととるのか。
 その描き方次第で、安っぽいドラマともなるし、人間性追求のレベルの高いドラマともなりうる。その意味で、私はNHKの描き方を知りたい。

 高須久子との関係の描き方一つで、松陰の生き方・考え方そのものが変わってしまう。高須久子のことを知っている視聴者はごく限られている。たかが「ドラマ」ではすまないのだ。

 松陰を神聖視する人が「牢獄での恋愛などもってのほか」と否定する場合もあるだろうが、きちんと理詰めで考えれば、松陰の恋愛説は否定できるのである。
 映画や小説にするには、恋愛関係にあったとする方が面白いし、書きやすいが、現実はそうではなかったのだ。


解釈次第では「松陰の恋愛」ととれなくもない和歌

 「松陰恋愛説」とする人が根拠とする前述の和歌について、改めて述べる。

 「高須未亡人に数々のいさをしをものがたりし跡にて」という詞書のついた松陰の歌で、「松陰が女囚の未亡人にひそかに恋愛感情を抱いていた」とされる。

  清らかな 夏木のかげに やすらへど 人ぞいふらん 花に迷ふ

 詞書にある「いさをし」は「勲し」(勇ましい)で、詞書は「高須未亡人に私が蛮勇をふるった体験を話した場所で詠んだ歌」という意味である。
 
 「夏の暑い日差しを避けて、獄にある涼やかな木の陰で一息入れていただけなのに、はた目には、美しく咲き誇る花を眺めている柔(やわ)な男のように写ったかもしれない」
 
 松陰の考え方を推量すると、こういう解釈になると私は考える。

 和歌にある「花」を高須久子ととれば、ひめやかな恋の歌と思えるかもしれないが、獄につながれた身の松陰が、あからさまな歌を恥も臆面もなくつくるということはありえない。

 男を知っている未亡人の久子が、無防備に若い松陰に接近してくるのを牽制する内容の歌ともとれなくない。

 いやしくも国のために死のうと思っている人間が、女の色香に迷うなどということをストレートに歌に詠もうとは思われない。このことは、松陰以外の男にもいえることだ。

 歌は、いかようにも解釈できるのだ。
 

松陰への愛を込めたという高須久子の句の矛盾

 江戸送りとなった松陰との別れに際して、囚人たちは、めいめいの思いを込めた。
 高須久子が詠んだ句は、次のようなものだった。

   手のとはぬ 雲に樗(おうち)の 咲く日かな
 
 樗(おうち)は栴檀(栴檀)の旧名。「楝」(おうち)とも書く。
 「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」という諺にある、あの木のことだ。
 樗(おうち)は、庭木にも使われているが、生育すると樹高10メートル以上になる大きな木だ。
 
 松陰が長州藩の野山獄を出て、江戸の評定所へと向かったのは5月25日(旧暦)である。
 薄紫色の花が咲き誇るのは初夏なので、その時期のことを詠んだということがわかるが、この歌に松陰への愛を込めたとするには無理がある。
 
 この句をごく普通に解釈すると、
 「どんなに手を伸ばしても届かない雲のように、高いところまでそびえている樗(おうち)の木にうつくしい花が咲き誇っている初夏の今日という日だこと」
 という意味になるが、恋愛感情があったことを前提に考えると、
 「あの木のようにあなたは遠くへ旅立ってしまった」
 といった一文が加わることになる。


松陰はなぜ「ほととぎす」と詠んだのか!?

 前掲した高須久子の句「手のとはぬ 雲に樗(おうち)の 咲く日かな」の前に記された詞書には
 「高須うしに申し上ぐるとて」
 とある。この意味をよく考えないといけない。
 「うし」は、「年長者の女性に対する敬称」である。松陰は、相手が男でも女でも「長幼の序」をきちんとわきまえていたことが、この一語から読み取ることができるのだ。

 そんな松陰が高須久子に返した句は、次のようだった。

  一声を いかで忘れん ほととぎす 

 松陰は、自身を「ほととぎす」に例えた。これが重要なのだ。
 ほととぎすは、初夏を告げる鳥である。
 
 ♪卯の花の におう垣根に
  時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて
  忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ (小学唱歌「夏は来ぬ」)

 この歌がつくられた時代は明治で、初夏の情景をふんだんに盛り込んだ佐々木信綱作詞「夏は来ぬ」の歌詞は5番まであるが、4番の歌詞に前述した「楝」(おうち)が出てくる。

 ♪「楝」(おうち)ちる 川辺の宿の
  門(かど)遠く 水鶏(くいな)声して
  夕月すずしき 夏は来ぬ

 薄紫色のおうちの花びらが川面に散っている――初夏の美しい黄昏どきの情景が歌われている。


松陰の返した句の「ほととぎす」は「死の覚悟」を意味する

 ほととぎすは口のなかが赤いので、昔から「鳴いて血を吐くほととぎす」といわれてきた。松陰は、高須久子に返した句にその意味も込めているが、それ以上にもっと深い別の意味もあった。

 明治時代の作家徳富蘆花の小説に「不如帰」(ほととぎす)があるが、この当て字は中国の故事によっている。
 ほととぎす(不如帰)とは「帰ることができない」という意味なのだ。
 帰ることができないとは、「死ぬ」ことを意味している。
 
 松陰の句の「一声」を高須久子が詠んだ句の声と解釈するなら、吉田松陰は単なる凡人である。
 そうではなく、松陰のいう「一声」とは、自身が常日頃から口に出していっている「至誠」という一声が「主」であって、それに高須久子の句を詠んだ声を「副」として重ねたと解釈すべきではないのか。

 「あなたをはじめ、皆さんとは今生(こんじょう)の別れになるけれど、私はほととぎすのように血を吐いても私の主義主張をつらぬき通す覚悟です」
 こう解釈するというのが、私の説である。

 早世した明治の文豪正岡子規の「子規」は「ほととぎす」のことで、正岡子規は、当時は「死に至る病」とされた結核に罹患して喀血したときにその俳号をつけた。
 「悲壮な覚悟」がありながら、それを俳号にしてしまうような子規の「人間的なスケールの大きさ」を夏目漱石はそれ以前から気づいており、無二の親友になったのではないか。

 同様に「死を覚悟」した松陰は、高須久子の句への単純な返しとして、獄舎のどこかで鳴くようになった「ほととぎす」を句のなかに用いたのではない。

 そういう覚悟を軽くみなして、単なる恋愛感情だけを云々するという解釈は、松陰という人の人生航路のどこをたどっても出てくる話ではない。


樗(おうち)は「獄門の木」だ!

 重要なのは、「楝」(おうち)あるいは樗(おうち)の木に深い意味を読み取ろうとすると、致命的な矛盾が生じるということだ。
 獄門首を懸ける木や板は「楝(おうち)」でつくられていたのである。
 『源平盛衰記』は、「楝(おうち)」を「獄門の木」と書いている。

 最初に楝(おうち)の木に首をかけられたのは、源頼朝の父義朝で、次が信西(しんぜい)だ。
 獄門とは獄舎の門という意味で、当時、獄舎の門を入ってすぐ左側に大きな「楝」(おふち=樗)の木があり、そこに首を懸けて人目にさらしたのである。

 幕末の「安政の大獄」の犠牲者のなかには「獄門」になった者もいるが、松陰の場合は「斬首」である。
つまり、「樗」(おうち)に深い意味を持たせようとすると、おかしなことになってくるのだ。


山上憶良が詠んだ頃とは「楝」(おうち)意味が違う

 山上憶良(やまのうえのおくら)が、妻を亡くした大伴旅人(息子が、万葉集を編纂した大伴家持)の心情を思いはかって贈った歌に、こういうのがある。

  妹(いも)が見し 楝(おふち)の花は 散りぬべし わが泣く涙 いまだ干(ひ)なくに 
 
 楝(おふち)は「樗」(おふち)と同じで、「逢ふ」(あふ)を懸けおり、次のような意味になる。

 「あなたが好きだった庭のおうちの花は散ってしまいそうです、その花をあなただと思ってずっと見続けている、この私の涙がまだ枯れてもいないのに――」

 この時代と江戸時代とでは、同じ「樗」(おふち)から連想する意味が違っているのだ。


高須久子が餞別に送った「手ぬぐい」にも深い意味はない

 太平洋戦争中、戦地にいる日本兵の無事を祈って「千人針」を縫って贈ったが、その相手に恋愛感情など抱きはしない。国を遠く離れて戦っている兵隊に鉄砲の玉が当たらないように、ケガをしないようにとの単純な祈りの気持ちを込めただけである。
 
 吉田松陰が、長州藩の獄(野山獄)から江戸へ送られることになったときに、囚人たちは別れの歌を詠んだ。
 そのとき、高須久子は「手縫いの手ぬぐい」も贈った。
 それを愛のあかしだと取るのも単純すぎる。
 女性だから裁縫ができ、みじかに役立つものと考えたら、

 もし手ぬぐいでなく、「ふんどし」であれば、恋愛感情があったとも考えられるが、手ぬぐい一枚で恋愛感情を云々するというのは強引過ぎるのではないか。

 そのお礼に松陰が詠んだ歌がある。

  箱根山 越すとき汗の 出でやせん 君を思ひて ふき清めてん

 「君を思いて」が「恋愛感情」というのは簡単だが、松陰の気持ちはそんな低レベルではない。

 汗を拭くたびに、それを贈ってくれた人を思い浮かべるのは松陰に限ったことではない。
 母親に贈られたのであれば母親を、妹から送られたのであれば妹を思うのは、ごく普通だ。

  箱根山 越すとき汗の 出でやせん 君を思ひて ふき清めてん


松陰の遺書『留魂録』に出てくる手ぬぐいとは別物だ!

 処刑を前にした松陰は、江戸の獄舎で『留魂録』と題した遺書をしたためる。
 その冒頭に、次のように書かれている。

 一白綿布を求めて、孟子「至誠而不動者未之有也」(至誠にして動かざる者、未だこれあらざるなり)の一句を書(しょ)し、手巾(しゅきん)へ縫い付け、携へて江戸に来たり。我これを評定所に留(と)め置きしも、吾志(わがし)を表するなり。
 (詳細は、拙著『吉田松陰「留魂録」』を参照されたい)

 松陰は自ら用意した別の手ぬぐいに「至誠」と書いた綿布を縫いつけ、それを鉢巻にして主義主張を示したが、もし高須久子に恋愛感情を抱いていたなら贈られた鉢巻をそうしていたはずだ。
 だが松陰は、それを汗拭きに使ったのである。


平成15年発見の「久子69歳の歌」と朝日新聞のノー天気

 2005年(平成15年)に松陰が松下村塾で教えた塾生の一人だった渡邊蒿蔵(こうぞう)という男の遺品のなかから、和歌と「久子 六十九歳」という文字が刻んである茶碗が発見された。
 その歌は、次のようだった。

  木のめつむ そてにおちくる 一声に よをうち山の 本とゝとき須かも

 松陰と久子に恋愛関係があったと考える人は、この歌も松陰を思い浮かべて詠んでいると解釈してしまう。
 だが、この歌を素直に解釈すると、 
 「春先の山で木の芽を摘んでいると、鳥の一声が着物の袖のあたりに落ちてきたように聞こえたけれど、その声の主は宇治の山のほととぎすかもしれない」
 という、ごく普通の内容である。

 「よをうち山の」は「世を宇治山の」の意味に「をうち」を懸けていると読めなくはないが。こじつけになる。
 
 この歌から連想するのは、平安時代の歌人喜撰法師(きせんほうし)の歌だ。

  わが庵(いを)は都のたつみ しかぞすむ 世を宇治山とひとはいふなり

 朝日新聞は、茶碗発見の記事(平成15年11月20日付朝刊)に、こんな見出しをつけた。
 「松陰『恋人』高須久子 想い茶わんに刻む」(山口総合版)

 朝日新聞は、こんなところでも捏造していたのだ。

Photo

(城島明彦)


2015/01/22

ちょっといい話「郵便局の親切に『ありがとう!』」


文句ばかりいっている私だが、今回はお礼を言いたい

 昨日、郵便物を小脇に2つかかえて出かけた。
 ひとつは、出版社宛のA4サイズの茶封筒。
 もうひとつは、請求書を入れた縦長の普通の封書。

 外出目的は、さらにもうひとつあった。
 家にある大型コピー機が壊れたので、A4サイズのゲラをコンビニのコピー機でB4サイズに拡大するためだ。

 なぜそんなことをするかといえば、当今はゲラチェックはメールに添付して送られてくるPDFで行うことが多くなっている。
 
 しかるに、パソコンのプリンターはA4サイズである。
 それをプリントアウトしたものに赤字を入れ、FAXで出版社に送るという二度手間をやっている。

 PDFに訂正を書き込む作業ができないためにそういう面倒なことをやらざるを得ないのだ。
 もっとも、パソコン画面でチェックすると、結構見落としが出るので、ゲラチェックはプリントアウトした紙で見るに限る。
 (本題から少し脱線するが、原稿用紙に手書きすれば間違うことなどありえない文章をパソコンを使って打ち込むと、信じられないような誤記が多数出る。これは、誰もが経験していることではないか)
 
 当日、外はあいにくの雨。
 封書が濡れないように、もうひとつA4サイズの茶封筒を用意し、そこに入れた。
 しかし、右手に傘を持っているので、左脇にかかえた4サイズの2つの封筒が何度となくズレそうになる。
 そういう状態でバスに乗って、駅前の郵便局へと向かった。
 バスの社内では、3歳ぐらいの女の子が泣きじゃくっている。
 それを見た20代の女性が席を立った。
 それでも女の子は坐ろうとせず、泣いている。
 「ベビーカー! ベビーカーがいい。シートベルトがいい、シートベルト!」
 と、ぐるっているのだ。
 それを聞いて、笑えてきた。
 泣く理由はわかったが、泣きやまないので、ほかの乗客も苦笑していた。
 バスが駅に着くまで、その子は泣いていた。

 そういうことがあったせいか、私が年をとってボケてきたせいか、郵便局のポストの前で封書だけ投函した後、局内で大型封筒を女性局員に手渡したとき、封筒に切手を貼り忘れていたことに気づいた。

 「ポストから回収できませんか」
 と私が尋ねると、
 「回収しているのは本局なので、ここではできません」
 といって、連絡先を書いた用紙をくれた。

 さっそく本局に電話すると、
 ①料金不足のまま配達し、送付先から切手代82円をもらう。
 ②(私のところへ)封書を戻し、切手を貼りなおして再投函する。
 のいずれがいいか、と尋ねられた。

 私は最初、先方に払ってもらっておいて、あとから不足分の切手を送るか、(封書の中身は請求書なので)請求金額から82円分を差し引いて振り込んでもらうよう、メールで先方に連絡するかのどちらかにしようと思ったが、考え直して、私のところへ封書を戻してもらうようにお願いした。

 送付先の会社名と住所(区だけしか覚えていなかった)・名前と私の住所と名前を告げると、翌日、郵便局の袋に其の封書を入れたものが自宅ポストに届いた。
 そのスピードに驚いたが、封筒を開けると、封書の上に手書きの文章のある付箋紙が貼ってあって、
 「いつもおせわにおります。一度戻させていただきます。
 切手をお払いいただき、もう一度、ポストに投函してください」
 とあり、末尾に「青葉郵便局 コールの係の人の名」が書かれていた。

 かつては、「料金不足」と書かれたわら半紙のような縦長の紙がノリづけされ、はがすと汚くなるので、新しい封筒を用意する必要があったが、今は付箋紙をはがせば、あとは切手を貼り、再び出せるようにしてあり、「ありがとう」と声に出していいたくなるほど、はずんだ気持ちになった。

 世の中、暗い話ばかりではなかったのだ。

 (城島明彦)

2015/01/19

ここらで、ちょいと頭の体操、オイチ・ニッ・サン!


「動物園だより」第1号をお届けします

 わたしゃ、ただいま頭病中、
 頭の中がクンクルリンのパーラパラ。
 少し遅いが、いや、かなり遅いぞ、
 はげまして、おめでとう。

 わたしゃ、動物園の飼育員ですだ。
 年齢は? ってか、
 「しいく」だから419だよ。
 4+1+9=13歳
 てなわけないか。
 本当は41歳と9か月だよ~ん。

 担当はオランウータンだで、
 一緒にいるうちに、
 こっちの頭もハゲちょびれ。
 最初は、少~しハゲの小路ツル麻呂。
 それが今では、
 どえりゃあハゲちまったで、アカンがや。
 赤ハゲ髪、黄ハゲ髪、青ハゲ髪!
 舌が回らず、頭も回らず、
 ハゲに毛はなく、ハケに毛はあり!
 大好物は、ハーゲンダッツだよ。
 ハゲに耳あり、障子に目あり、レレレのレ。

 ♪レはレンコンのレ
 ♪ミはミジメのミ
 ♪ソは「そうかいな」のソ
 ♪ラはラッキョのラ
 ♪シは失敗のシ
 ♪ドはどうでもいいよのド
 ♪ドドシラソファミレド耳ドふがふが
 あかんがな、入れ歯が飛んでしもうた

 近頃、頭がラリパッパ!
 オムツをオツムにかぶせたり、
 オムレツ焼いたら股ムレて、ムッときた。
 Oh! モーレツ!

 (城島明彦)

名物喫茶店「さぼうる」で異物混入事件――娘のアイスティーにゴキブリ


保健所が調査報告「ストローを入れるコップの底に成虫と幼虫がいました」

 2週間ばかり前の実話である――。

 雑誌に連載している「危機管理」の次号のテーマは昨年12月に起きた「ぺヤングにゴキブリ混入事件かな」と考えていたところ、マクドナルドでの異物混入事件多発が表面化、1月7日に謝罪会見を開くという話になったので、急遽、テーマを「マクドナルドの異物混入事件」に変更することにした。

 そんな私の目の前で、マクドナルドの謝罪会見を翌日に控えた1月6日、「異物混入事件」が発生した。
 それは「ぺヤング」のようなインスタント食品でもなく、「チキンナゲット」のようなファーストフードでもなく、喫茶店での飲み物「アイスティー」に起こった。


事件の一部始終

 1月6日の午後2時5分に、私は千代田区の神田神保町(かんだじんぼうちょう)にある昔ながらの喫茶店「さぼうる」(1960年創業の有名店)で、娘と待ち合わせていた。
 「さぼうる」は2軒並んでおり、通りから奥の方の1号店である。

 先に店に入った私のテーブルには、すでにアメリカン。むろん、ホットだ。
 店の天井や床は木材。いまどき、こういう内装の店は珍しい。

 雨が降っていて寒い日だったが、15分ほど遅れてやってきた娘は、駆けてきたとみえて、「暑い暑い」といって「アイスティー」を頼んだ。

 運ばれてきたアイスティーを前に、娘はストローの包装紙を破って、ストローを取り出すと、細長いコップに突っ込んで、二口、三口と飲んだ後、そのストローを引き出すと、
 「なに、これ」
 と、小さな悲鳴。

 ストローの下から3分の1くらいの位置に、体長1センチくらいの羽の透けた虫がしがみつくようにしていた。
 よく見るとチャバネゴキブリだった。
 ぺヤングに混入していたのは、でっかいクロゴキブリだが、この種類は小さい。とはいえ、不気味であり、どこを這いずり回ったかわからないし、不潔であることに変わりはない。下手をすれば病原菌がくっついているかもしれない。

 動かないところを見ると死んでいるようだ。
 ストローを抱くように張りついているところをみると、熱湯を注がれて苦しくなり、へばりついたように思えた。

 虫の正体がわかったとたんに、娘は落ち込んだ。
 私は、そのストローを右手に、コップを左手に持って、レジまで運び、そこにいた店員に渡して席に戻った。

 しばらくすると、店員が新しいレモンティーを運んできたが。娘は口をつけようとしない。

 その後、店員がお詫びとして、小皿に入ったアイスクリームを2つ持ってきた。
 娘は食べようとしなかったので、
 「口直しに食べたほうがいい」
 と私が強く勧めたので、食べた。

 その後、食事をする予定だったが、とても食べる気にならないというので、その店を出て、別行動を取った。
 翌日、千代田区の保健所に電話で通報しておいた。
 数日後、保健所から電話があり、2度、検査に入ったと告げ、以下のようなことを私に報告した。

 「当日、同店には291人の客があり、うちアイスティーを飲んだのは3名のみでした。店のカウンターの食器戸棚のところにグラスが逆さにして置いてありました。調理台の背後に置いてあるコップにストローがさしてあり、調べたら底にゴキブリの成虫と幼虫が見つかりましたが、それ以外にもポットの可能性も考えられます。
 紅茶は茶漉(こ)しに入れ熱湯を注ぎ、ポットに移してからグラスに注ぐそうですから、そのポットにゴキブリが入り込んでいた場合、ポットが洗浄不足でゴキブリが排除されなかったということもありえます。ポットにはフタがあっても、注ぎ口にはフタをつけていないので、そこから侵入する可能性もあるということです。アイスティーの氷は、製氷屋から仕入れた角氷を砕いて使っているそうです」


千代田区の保健所からの報告

 「さぼうる」の老社長は、腰を痛めているとのことで、事件当日は店におらず、申し訳ないと詫びていたそうで、こんなこともいっていたという。
 「社員にコーヒーをふるまったことがあり、そのとき、ポットからゴキブリが出たことがあります」
 社長は正直な人のようだ。
 千代田区の保健所員がいうには、
 「店では業者に依頼して、煙で落とす殺虫剤は使っているが、ゴキブリホイホイのようなものは使っていないということなので、殺虫剤は継続して行い、ゴキブリホイホイを置いて捕獲できるようにするだけでなく、食べるエサも同時に置くようにと指導しました。それから、ポットの注ぎ口にもフタをつけるように指導しました」
 ということだった。

 店の表で娘と別れ、そこから遠くない編集プロダクションに顔を出して、ゴキブリ混入の話をすると、その場にいた出版社の元編集部長が
 「頭のはげた社長が謝罪に来ましたか」
 というので、
 「社長ですか」
 というと、そうだとのこと。
 前述したように、その老社長は、あいにく、店にはいなかったのだ。


マクドナルドに告ぐ「記者の前で、歯とかゴキブリを入れて食べるのが謝罪会見だ」

 保険所の人は、電話報告の最後に、
 「どうしてほしいですか」
 というので、次のように答えた。

 「1月7日のマクドナルドの謝罪会見で、ある記者がマクドナルドホールディングスとマクドナルド日本法人の上席執行役員2人にバカな質問をした。
 『異物混入があった後でも、あなたは、ご自分のお子さんにチキンナゲットを食べさせられますか』
 YESというにきまっているでしょう。そうではなく、こういう質問をすべきだった。
『われわれに目の前で、私が誰かの入れ歯か抜けた歯を入れますから、それをお子さんに食べてもらってください。むろん、あなたがたも一緒に』。
 異物が混入した飲食物は、それを口にしたものにしか気持ちや不気味さはわからない。『さぼうる』の社長や店員にも、ゴキブリを入れたレモンティーを飲んでもらってください」

 マクドナルドは、何件もの事件が表面化したが、外部機関に調査を依頼し、
「うちの工場や店舗にはないものでした」
 などと公表して自社のせいではないと言いつくろっているが、そういうことではないのだ。

 謝罪会見でも、記者の質問に答えて、
「出てきた歯は、届け出た人のものだ」
 と断言したが、そういわれた女性は、別の日に、
「私の歯でないことを証明してもらっても構わない」
 といっている。
 マクドナルドは、その女性と白黒つけたらどうか。
 
それにしても、マクドナルドという企業は、ブランドにあぐらをかき、自社の正当性ばかりを主張しようとする情けない企業だという印象しかない。
もし女性の言っていることが正しかったら、会見で明言した上席執行役員はクビだ!

 繰り返すが、異物が混入した飲食物を食べた不気味さ、後味の悪さは、実際にそれを体験した者にしかわからないのだ。
 詫びてすむとか、謝罪金を渡せばすむという問題ではないのである。
 マクドナルドの経営者らは、もう一度、そのことをよく考える必要がある!

(城島明彦)

2015/01/18

「花燃ゆ」(第3回)の吉田松陰は、単なる〝添え物〞。多くを望むと落胆


松陰の起こした事件の描写が簡単すぎるのでは?

 「軍師 官兵衛」の後の大河ドラマが「花燃ゆ」という題名だと知ったとき、頭の奥に、私が1900年代の終わりに「夕刊フジ」に連載した「ソニー燃ゆ」という題名が浮かんだ。

 そういう縁もあり、昨年9月末に『吉田松陰「留魂録」』という単行本を上梓したという縁も重なって、吉田松陰の妹の文を主人公にした「花燃ゆ」という大河ドラマには大いに期待した。

 だが、放送が始まってみると、私の期待とドラマの間には、かなりのギャップがあり、落胆している。

 ドラマ全体が軽いのは、それはそれで構わないが、役者の演技も軽く、セリフも言葉だけが上(うわ)っすべりしていて、内面の喜怒哀楽が表現できていないのだ。

 去年の「軍師 官兵衛」でも、たくさんの脇役、たくさんの女性を扱っていたが、それぞれの内面をうまく描いていた。
 ところが、今回の「花燃ゆ」に登場する女性からは、今のところ、それが感じられないのが不満だ。


「松陰は添え物」と思わないと腹が立つ

 放送が始まる前に、
 「吉田松陰のことを、かなり詳しく描くのだろう、どうやって描くか楽しみだ」
 と思っていた大河ドラマファンは、たくさんいたはずだ。

 私も、幕末という時代を駆け抜け、明治維新を生む原動力となった吉田松陰の言動を、NHKがどう描くかということに強い関心をもっていた。

 しかし、実際のドラマは、その思いに肩すかしをかけた。
 今回の大河ドラマでの松陰は、NHKにとって、文(ふみ)という妹の単なる〝添え物〞にすぎない扱いでしかなかったのだ。

 松陰ファンや松陰に関心をもっている人は、少なからぬ失望と不満を感じているのではないか。
 あまり多くは望まず、高望みもせず、「この原作は、瞳キラキラの少女マンガなのだ」と自分に言い聞かせて見れば、それはそれで面白いのかもしれない。


松陰の内面を深く描くべきだ

  かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂 

 この歌に松陰の気持ちが凝縮されている。
 「結果は見えている。それでもやるのだ。やるしかない」
 というのが、吉田松陰である。

 松陰は、時間をかけて周囲を説得するという術には長(た)けていなかった。
 たとえば、松陰は、松下村塾時代の伊藤博文のことを、
 「周旋屋」(政治的な交渉ごとがたくみな人物)
 と見破っていたが、まさにそのとおりで、のちに初代総理大臣になった。


井上真央は好感が持てる
 
 高杉晋作と並ぶ〝松門(松下村塾)の双璧〞といわれた俊英・久坂玄瑞(くさかげんずい)は、14歳で母を亡くし、15歳で父と兄を亡くし、家を背負う重圧がのしかかったが、それに負けまいと胸に期すところがあったはずだ。

 しかしNHKは、久坂玄瑞を頼りないボンボンのように描いた。
 黒船が関門海峡を通過すると聞いて、文に引っ張られるようにして山頂までいくが、見逃して地団太を踏んだり、山の中の神社でおみくじを三度引いても「凶」だったと嘆くのを、文に叱りつけられ、激励されたりするという描き方だった。

 文の尻に敷かれて小さくなっている久坂玄瑞という描き方からは、この男がのちに長州藩のリーダー格の一人になって、禁門の変で幕府軍と戦い、重傷を負うと「もはやこれまで」と自刃して果てるような勇猛果敢な姿に変貌するとはとても思えない。

 旧来の大河ドラマを超えたいという思いはわかるが、軽すぎるのではないか。
 ただし、文を演じている井上真央はよく演じている。

 Photo_2 

 (城島明彦)


「花燃ゆ」の「寅兄」(とらにい)と呼ぶ今風の軽い言い方に抵抗感


「長幼の序」を無視した印象を受ける

 「花燃ゆ」では、現代劇的な感覚を重視したのか、文たち妹が、兄の松陰のことを今風に、
 「寅兄」(とらにい)
 と気軽に呼んでいるが、その呼び方に抵抗を感じる視聴者は多いのではないか。

 武家社会では、幼少時から「長幼の序」について厳しく教育され、父は「父上」、母は「母上」と呼ぶようにしつけられ、手紙などを出す場合には「父上様」「母上様」と書くように教育された。

 武士の師弟は、お父(とう)とか「お母(かあ)」などとは呼ばないし、「父様」「(ととさま)「母様」(かかさま)とも呼ばない。そう呼ぶのは庶民である。
 同様に、兄は「兄上」、姉は「姉上」で、手紙は「兄上様」「姉上様」。
 例外は、言葉がろくにいえない幼児期は例外だ。

 坐る位置も、上座・下座があり、長幼の順に従った。

 NHKは、そういうことを知った上でわざと無視することで自由さを強調しようとしたのだろうが、基本的なところはビシッと押さえるべきではないのか。


登場人物にスーパーを入れない悪弊がまた顔を出している
 
 北大路欣也が扮する長州藩主が初登場する場面でも、セリフで「殿様」と家臣に呼ばせるまで、誰かわからず、スーパーを入れないのは不親切。
 こういうところに、NHK制作陣のもったいぶった姿勢が感じられる。


 長州藩主 毛利敬親(もうり たかちか)
 と、なぜスーパーを入れないのか。

 もっとも、冒頭に紹介する前回までのあらすじのダイジェストのところでは、きちんと人物のテロップをを入れており、その点は評価できるが、本編でも入れるべきだ。

 おそらくNHKは、
 「番組の最初に流すタイトルバックの登場人物のところに、毛利敬親 北大路欣也と書いてある」
  と開き直るのだろうが、視聴者全員がタイトルバックに流れる役柄とその日の出演者を覚えていると思うのは、NHKの思い上がり。

 その日初めて見る人もいるのだから、その日初めて登場する人物や頻繁に顔を出さないような人物が出てきたときには、スーパーを入れるのが親切というもの。
 
 大河ドラマにに登場する全員を、誰もが知っているとは限らないのだ。

 思い上がったことを繰り返していると、登場人物がどんどん増えて、視聴者は誰が誰だかわからなくなり、面白くなくなって次第に離れていく。
 皮肉っぽい言い方になるが、「平清盛」の二の舞にならないことを祈るばかりである。

 Photo

(城島明彦)

2015/01/14

「花燃ゆ」の視聴率がふるわない「8つの理由」

大河ドラマらしからぬ軽すぎる演出・演技が裏目に

 「花燃ゆ」の初回の視聴率(関東地区)は16・7%(ビデオリサーチ調べ)で、大河ドラマ史上お尻から3番目という危ない離陸だったが、3連休の真ん中に放送された2回目の視聴率はさらに下げて13・4%と落ち込んだ。

 そうなったのは、私が見るところ、以下にあげるような理由による。


【理由1】 馴染みの薄い吉田松陰の妹「文」(ふみ)を主人公にしたこと

 朝ドラの「花子とアン」の翻訳者である村岡花子や小説『赤毛のアン』はよく知られているが、文のことを知っている人は極めて限られており、馴染みがないということも、視聴率に影響している。


【理由2】 背が低かった吉田松陰に長身の伊勢谷友介、主人公の文に人気イマイチの井上真央を起用した

 井上真央はNHK朝ドラ出身で、NHK好みの女優だが、民放のドラマではパッとしない。
 一方の伊勢谷は、180cmの長身で、小柄だったが、やったことはでっかい〝小さな巨人〞の吉田松陰を演じるには無理がある。

 吉田松陰は生涯独身で、女性との色恋沙汰がまったくなかった男。
 伊勢谷は、真偽のほどはよくわからないが、かつて付き合っていた女性との間で「DV」(ドメスティック・バイオレンス)があったと週刊誌に報じられたことがあり、また、女優の長澤まさみとの関係も噂されるなどしたことで、女性層が取り込めなかったのではないか。


【理由3】 文がのちに後妻となる小田村伊之助を「初恋の人」としたのはつくりすぎ 

 文に関する歴史的な記録は皆無に近いから、どう描こうが構わないが、説得力に欠けるエピソードは「ウソっぽい」と思われる可能性も高い。

 文は、高杉晋作と並んで「松下村塾の双璧」といわれた久坂玄瑞(くさかげんずい)に15歳で嫁ぐが、玄瑞は禁門の変で死んでしまう。
 文の4つ上の姉寿(ひさ)も、15歳のときに松陰の友人の小田村伊之助(のち楫取素彦に改名)と結婚したが、43歳で亡くなり、その後妻になるのが文である。
 そういう事実があるので、NHKは小田村伊之助を文の初恋の人という設定にしたのだろうが、そんな証拠はどこにもない。

 姉が死んで小田村伊之助と再婚してはどうかと言い出したのは母(滝)だったが、文は小田村のもとへ嫁いでいくことを頑なに拒んでいたという証言が残っている。
しかし、母の滝が執拗に勧めるので、折れて後妻となるのだ。

 姉の夫に嫁ぐということに対する拒否反応はあったとしても、また、時代が流れて当時のような感情ではなかったにしろ、もし小田村伊之助が初恋の人だったら、嫌だと強く拒否するようなことはなかったのではないか。
 NHKは、ドラマづくりをするために「初恋の人」などとでっち上げてしまったのだが、視聴者はそういう安易な設定に拒否反応を示したのかもしれない。


【理由4】 小田村伊之助は、松陰や高杉晋作のように言動が派手ではなく、「華」がない

 小田村伊之助(おだむら いのすけ)は、のち楫取素彦(かとり もとひこ)と改名し、初代群馬県令(けんれい。知事)になる人物で、誠実で頭も良く教育熱心だったが、地味な人。

 楫取素彦は、地方自治に情熱を傾けた人で、彼の事跡や残された手紙などから伝わってくる印象では、非常に実直な人柄だったようだが、同じ長州藩出身で総理大臣になった伊藤博文、山県有朋、木戸孝允(きど たかよし。桂小五郎)らのように中央政界で華々しい活躍をした人ではなく、ドラマの中心人物として描くには無理がある。

 群馬賢人には馴染みが深い人ではあっても、全国的な人気とはなりえない人物である。


【理由5】 話が面白いと評判を取った「花子とアン」にあやかろうとして〝ご都合主義〞に走り、史実を軽視した

 昨年の朝ドラ「花子とアン」は、村岡花子の孫が執筆した「原作」を脚色したのではなく、「原案」となっていた。
 NHKがドラマとしての展開を面白くするために、史実や時空を完全に無視してご都合主義に徹したが、視聴率は取れた。子孫は複雑だったのではないか。

 朝ドラはそれでよかったが、大河ドラマとなると、そうはいかない。実験しようとする前向きさは買うが、視聴者は吉田松陰などの登場人物に対する「イメージ」というものがあり、そのイメージとあまりにもかけ離れたドラマになっていると失望し、次第に見なくなる。


【理由6】 トレンディドラマのような時代劇になっており、登場人物に重みやリアリティがなく、大河ドラマのファン層が違和感を覚えた

 去年の大河ドラマ「軍師 官兵衛」も黒田家の家庭内を描いていたが、武家の作法はきちんと押さえていた。しかし、「花燃ゆ」は、文にしろ、姉の寿にしろ、いかにも軽すぎる印象がある。

江戸に遊学に出た吉田松陰から父宛に来たと思える手紙を、ふみが勝手に開けて読んでいる場面が何度かあったが、そんなことをすること自体、ありえない。
 演出家も脚本家も、わかっていて、そういう無茶なことをさせている。


【理由7】 主人公の文(ふみ)をさまざまな事件に絡ませるために、立ち聞きさせたり、その場にいるようにさせたりするという設定にも無理がある

 ふみが、姉のあとをつけたり、話を盗み聞きしたりする場面が何度も出てくるが、これは「江」のときにもNHKが使った手で、女性脚本家が使いたがる手法。2011年の大河ドラマ「江・姫たちの戦国」も「花燃ゆ」も、どちらも女性脚本家という共通点がある。

 歴史的場面を盗み聞きすることで主人公が関わっていたとする演出だが、そういう設定にすると、話としては面白くなるが、歴史的事実を無視したことになる。


【理由8】 文の母(滝)は耐える女性。いつもニコニコしていられるような状況ではなかった

 文の母親を演じている壇ふみは、いつもニコニコしているが、果たしてそうだったのか!?
 松陰の母滝(たき)は、「女の鑑(かがみ)」として、戦前まで修身の教科書に登場していた人物である。
 明治時代に有名になり、訪れる人が増えて、写真をほしいといって、もらっていく人も多く、皇太后や皇后もその写真を見た。

 松陰の生家は貧乏な下級武士で、松陰が小さい頃は貧乏で、早朝から家族総出で田畑を耕し、麦や野菜などは自給自足していた。

 松陰の兄が、生前の母親のことを書いた『太夫人實成院行状』(たいふじんじつじょういんぎょうじょう)には、彼女が夫に従って朝から野を耕し、山で木を切るなどしただけでなく、農耕具を馬に引かせて畑を耕すという男顔負けの作業もしていたと書いてある。
 のちに夫百合之助が仕官の道を得て勤めに出るようになると、彼女は夫がやっていた農作業をひとりでやるようになった。

 掃除機も電気釜も洗濯機もない時代だから、大勢の家族のための炊事・洗濯・掃除など、やるべきことは山のようにあった。使用人を雇えるような家計の状態ではなかったため、ひとりで家事全般もやっていた。

 しかも、民治(みんじ、幼名梅太郎)、松陰(幼名寅次郎)、千代(のち芳子に改名)という3人の子の育児があった。
 それぞれ2つ違いで、民治によれば、「民治が5、6歳で、松陰が3、4歳、千代は1、2歳の頃の話」で、まだ文は誕生していない。

 文が誕生するのは民治15歳、松陰13歳、千代11歳のときだ。
 松陰の兄弟は7人。男3人で妹は4人。
 長女が千代(2つ下。93歳まで生きる)、次女が寿(千代の7つ下。文の4つ上。43歳で死去)、艶(つや。早世)と続いて、文は一番下。文の下に聾唖だった敏三郎がいた。

 千代は、16歳で親戚の児玉家に嫁ぐ。そのとき文は7歳。
 杉家の姉妹を束ねていたのは、長女の千代。
 千代は烈婦だった。
 明治になって、不平士族が反乱を起こす。松陰の教え子だった前原一誠も乱(萩の乱)を起こしたが、その乱に叔父玉木文之進(百合之助の下の弟)が教えた塾生たちや息子も加わっていたことから、文之進はその責任をとって先祖の墓前で切腹する。そのとき、千代は叔父の文之進から見届けるように懇請され、男まさりの役割を果たしている。

 そういう生き方は、母の滝から学んだ生き方だった。
 滝は、気丈な人だった。
 人前では決して泣かなかった。
 松陰が処刑になっても、人前では涙を流さなかったと伝えられている。
 
 松陰が幼少の頃、家には舅(しゅうと)・姑(しゅうとめ)も同居していたが、そこへ姑の妹が転がり込んできた。そして病気になって寝込むと、滝はその介護をし、汚物を扱うときにも嫌な顔ひとつせずに親身に行った。

 そのときの様子を、民治はこう記している。
 「姑氏泣テ之ヲ謝シ、観る者為メニ涙ヲ垂ル」
 (姑は涙を流して感謝し、その光景を観ていた者は涙をこぼさずにはいられなかった)

 そんな滝を、めったに人をほめない玉木文之進が、
 「女丈夫(じょじょうぶ)とは義姉(あね)さんのような人だ」
 といったという。


 (城島明彦)

視聴率歴代ワースト3で始まった「花燃ゆ」は前途多難


第2回はさらに大幅ダウン

 「花燃ゆ」の初回の視聴率(関東地区)は16・7%(ビデオリサーチ調べ)で、大河ドラマ史上お尻から3番目という危ない離陸だったが、3連休の真ん中に放送された2回目の視聴率はさらに下げて13・4%。

 安倍晋三首相が「先生」と崇める吉田松陰の妹を主人公にしたので、安倍内閣のように高い支持率が期待できたが、ドラマづくりを誤ったために、そのような結果を招いた。
 
 画面の汚さとひとりよがりの前衛的演出が嫌われてワースト1となった「平清盛」ですら、初回17・7%、2回目17・8%で、13・3%を記録するのは6回目になってからだ。
 女性を主人公にした一昨年の「八重の桜」は、初回21・4%、2回目18・8%で、10回目に12・6%という低い数字になったが、年間を通した平均視聴率は14・6%。
 前途に暗雲が垂れ込めた。

 国民的指示を得られなかった理由は何か!?
 その問題については、もったいつけるわけではないが、視聴率とは切り離した別稿(「花燃ゆ」の視聴率がふるわない「8つの理由」)で触れたい。

(城島明彦)
 

2015/01/13

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」とキムタク(木村拓也)を結ぶ点と線


ヒントは松下村塾を開いた男

 どこか怪しげな見出しから、どういう話なのかをズバッと当てられる人は、まずいないのではないか。

 昨年12月に、私はある異業種交流会で「吉田松陰」をテーマにした講演を二度行う機会があった。
 最初の講演では、講師に予定されていた方が急逝した関係で代打である。

 二回目は「松下村塾」について話した。
 キムタクと「花燃ゆ」がつながっていることを知ったのは、講演後だ。
 
 参加者の一人の、ある会社の執行役員が面白い話をしてくれた。
 「先日、NHK大河ドラマの「花燃ゆ」の制作関係者が、どうやって調べたのか、うちの社長を訪ねて来たそうです」
 うちの社長というのは、注文住宅のタマホームの玉木康裕社長だ。

 察しのいい人は、「玉木」という苗字から、松下村塾を開いた吉田松陰の叔父(松陰の父の弟)玉木文之進を連想したかもしれない。

 そうなのだ。
 社長は、「玉木文之進の直系ではないが、つながっている家系」なのだという。

 「それにしても、NHKはどうやって調べたんだろう」
 と、驚いていたそうだ。


では、キムタクは?

 キムタク(木村拓也)は、関東地区だけかもしれないが、タマホームのCMに出ているのだ。
 というわけで、以下のそれぞれの点が一本の線でつながるのである。

 キムタク――タマホーム――玉木康裕社長――玉木文之進――吉田松陰「なぁんだ」とガッカリする人もいるかもしれない。

 NHKの大河ドラマ班は、そうやって登場人物に関係のある子孫を片っ端から訪ね歩いてエピソードを収集しているようである。
 同じNHKに先祖を調べまくる「ファミリーヒストリー」という番組があるが、あれに近いようなことをやっているのだろうか。

 玉木文之進を調べると、本家筋の乃木希典(のぎまれすけ)の家系・血筋も調べないといけない。

 男の場合は記録が残っているが、「花燃ゆ」主人公文についての記録は、ほとんど残っていない。
 だからNHKは、勝手に人物を造形しているが、家族の描き方も含めて、実際とはかなり違っているように私には思える。

(城島明彦)

2015/01/11

大河ドラマ「花燃ゆ」第1回で、文が叔父から平手打ちされたのは史実か?

司馬遼太郎の小説のエピソードを使ったが、事実かどうかは疑わしい

 NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の第1回で鮮烈だったのは、
 「(のちに再婚する相手となる)小田村伊之助(おだむら いのすけ)と川のほとりで偶然出会い、初めて言葉を交わした幼い文が、伊之助の落としていった禁書を拾って、それを本人に返そうとして藩校へ忍び込み、見つかってしまうのだが、文は藩校でも家に戻ってからも仔細を告白しなかったために、藩校で教鞭をとっている叔父の玉木文之進(たまき ぶんのしん)に両親の眼前で平手打ちをくらい、雨が降っている外に放り出される」
 ――というシーンと、もう一つ、松陰の幼少時の回想シーンで、
「少年寅次郎(松陰の幼少期の名前)が、夏のある日、文之進からマンツーマンで漢籍の講義を受けているとき、左の頬に蚊が止まり、かゆくなったので掻いたとたん、文之進の平手打ちが飛んだ」
――という場面だ。

 松陰は杉百合之助(すぎ ゆりのすけ)の次男である。
 百合之助は杉七兵衛の長男で、次男が大助、三男が文之進。
大助は、親戚で兵学師範の吉田家の養子となったが、松陰が6歳のときに病没したので、松陰が養子となったが、そのまま杉家で暮らしていた。
 文之進は文化7年(1810年)生まれで、松陰は天保元年(1830年)生まれなので、20歳の年齢差がある。
 松陰がまだ生まれていない文政3年6月に親戚の玉木家の養子に入り、玉木姓となった。
 松陰は9歳のときに家学見習いとして初めて藩校に行き、10歳で最初の講義を行い、11歳のときに長州藩主に講義をした天才だった。
 松下村塾を開いたのは文之進で、開塾は1842年(天保13年)。松陰12歳のときだ。

 玉木文之進は、26歳のとき(松陰が6歳のとき)に嫁をもらうが、そのまま杉家で同居を続け、翌年、杉家の敷地内に新築された別棟に移った。
 この嫁辰子は博識で、のちに乃木希典に『論語』や『日本外史』を教えることになる。


インパクトはあるが、フィクション

 大河ドラマでは、外出から戻った松陰が、夜の雨の中でずぶ濡れになっている文を見つけ、一緒に雨に打たれながら、自分の少年時代の蚊のエピソードを話す回想シーンが挿入されるのだ。

 松陰は、心根が優しい人で、弱者に対しては特にそうだったから、年の離れた妹と一緒に自分もずぶ濡れになったとしても不思議ではないが、
 「玉木文之進が幼い姪を張り倒した」
 ということは、実際にあったのだろうか。

 玉木文之進が厳しい人だったことは、家族の証言や1年ほど同居したことがある乃木希典の証言などから事実である。

 明治41年に吉田庫三(吉田家の養子)が書いた「玉木正韞(まさかぬ)先生傳(でん)」には、
 「人と為(な)り厳正にして、勤倹は百合之助に過き、剛直は大助に超ゆ」
 とある。
 「過き」は「過ぎ」と同じで「以上」の意味で、
 「(玉木文之進の)人となりを一語でいうなら厳正そのもので、勤倹さにかけては長兄の松陰の父百合之助以上であり、剛直という点では吉田家の養子となった次兄大助を超えている」


NHKは司馬遼太郎の小説を史実と思ってまねたのか!?

 少年寅次郎が、「頬を蚊に刺されて掻いたら、ひっぱたかれた」というエピソードは、司馬遼太郎の小説『世に棲む日々』(一)に出てくる話だ。
 そのくだりは次のようになっている。

 《ある夏のことである。その日格別に暑く、野は燃えるようであった。暑い日は松陰は大きな百姓笠をかぶらされた。この日もそうであったが、しかし暑さで顔じゅうが汗で濡れ、その汗のねばりに蝿がたかってたまらなくかゆかった。松陰はつい手をあげて掻いた。これが文之進の目にとまった。折檻(せっかん)がはじまった。この日の折檻はとくにすさまじく、
 「それでも侍の子か」
 と声をあげるなり松陰をなぐりたおし、起きあがるとまたなぐり、ついに庭の前の崖へむかってつきとばした。松陰は崖からころがりおち、切り株に横腹を打って気絶した。
(死んだ)
 と、母親のお滝はおもった。お滝はたまたまこの不幸な現場をみていたのである。(中略)
 この現場をみてきもをつぶしたであろう。しかし、玉木文之進に教育がまかされている以上、とやかくいうことはできない。このとき、文之進にきこえぬよう、小声で、ちょうど祈るように、
 「寅や、いっそお死に、死んでしまえばいいのに」
 と、つぶやきつづけた。》


司馬遼太郎は〝松陰のバイブル〞を無視した

 蚊の話の少し前に、次のような説明がある。
 《その教場が野天であることは、父の百合之助に教わっていたばあいとかわらない。文之進が畑仕事をする。松陰はあぜに腰をおろして本をひらいている。文之進が諳(そらん)じてゆく。そのあと松陰がひとりで朗読する。利発で従順な子である。
 文之進は謹直そのものの男だが、ときどき、魔王のように荒れた。
 「寅、傲(おご)ったか」
 と、飛びあがるなり松陰をなぐりたおすことがしばしばであり、たいていのばあい、殴られながらなんのことやら理由がわからない。起きあがると、文之進は根掘り葉掘りその理由を説明する。それがまた、ささいなことばかりであった。書物のひらき方がぞんざいであったとか、両手で書物を掲げ、手をまっすぐにあげて朗読せねばならぬところを、ひじがゆるんでいたとか、そういうかたちの上でのことが多い。「かたちは、心である」と、文之進はよく言った。形式から精神に入るという教育思想の熱狂的な信奉者がこの玉木文之進であったのであろう。しかしここまでの極端さは、やはり一種の狂気としかおもえない。》

 司馬遼太郎は、玉木文之進をこのように描いていた後、そう描いた理由に触れる。

 《「あんなひどい目にあっても、よく死ななかったものだ」
 と、松陰は後年、自分の門弟にそっと洩(も)らしたことがある。》

 つまり、司馬遼太郎は、門弟の一人がいったというエピソードを「史実」と解釈し、前記のような小説を展開したというのだが、母親や門下生の証言も含めた松陰に関するあらゆる資料を網羅した岩波書店「吉田松陰全集」(全10巻。12巻物もある)には、玉木文之進がぶん殴る話は出てこないのである。

 〝吉田松陰の資料バイブル〞ともいうべき「吉田松陰全集」は、真偽が怪しい談話や手記なども収載しているが、それらを詳しく検証し、間違いであるとか、事実かどうか不明といった但し書きを加えている。

 司馬遼太郎は、バイブルが記載しなかった信憑性のないエピソードから小説を創作したのであり、NHKはその小説を鵜呑(うの)みにして剽窃(ひょうせつ)まがいの筋書きのドラマにしたということになる。


文之進が松陰をたやすく殴るのは、状況的に難しい

 司馬遼太郎が「百姓笠」と表現したのは「菅笠」(すげがさ)のことである。
 少年寅次郎は、菅笠をかぶってアゴひもを結び、日盛りの畦(あぜ)に腰をおろして読書していたわけで、笠の縁が目の上くらいまできており、頬に平手打ちをしようとしても笠が邪魔をして頬に命中させるのは難しい。
 司馬遼太郎は、そこまで深く考えずに書いている。

 NHKも、田んぼとか畑では無理があると考えて、蚊の場面を室内に変え、玉木文之進から講義を受けている最中に松陰が頬を刺され、掻いたという設定にしたのかもしれない。
 いずれにせよ、蚊のくだりは、少年期の松陰を教育した叔父の玉木文之進という人物の狂気に満ちた一面を示す面白いエピソードではあるが、実際にはなかったと考える方が理にかなっている、と私は考える。


玉木文之進に弟子入り志願した乃木希典

 乃木希典は明治40年から学習院院長を務めるが、ある日、生徒たちに16歳のときに玉木文之進の家で過ごした元治元年(1864年)の話をしている。
 玉木家は野木家の分家で、親戚である。
 乃木希典は、体が弱かったことから、武士でありながら武芸に熱心になれず、文学に傾倒し、将来は学者になろうと思い、父に話すと強く反対された。

 納得がいかない乃木は、黙って家を飛び出し、乃木家の分家である玉木家に文之進を訪ね、学問を教えてほしいと直訴した。
 だが、齢(よわい)54歳に達し、「翁」(おきな)と呼ばれていた文之進は、
 「武士の家に生まれて武芸を好まずば、百姓をせよ」
 といった。

 乃木が驚いていると、百姓をする気なら、我が家には多少の田畑があるから、見習いをせよ。学問したいという気持ちを改めないのなら、早々に立ち去った方がよいという。
 夜になっていたが、帰ろうとして門のところまで歩みを進めると、文之進の妻辰子が追いかけてきて「これからどうするのか」と尋ねるので、「故郷へ帰ります」と答えると、
 「今夜は遅いから、とまりなさい」

 部屋に戻った乃木に辰子は、
 「御身は学問を志しているようだから、まず試しにこの本を読んでみなさい」
 と『論語』を渡して読むようにいったが、誤読が多かったことから、
 「そんなレベルで学者になろうとはおこがましい。翁が許さないのももっともだ。御身はまだ若いから、もし農業に精を出すというのなら、夜、私が頼山陽の『日本外史』を読み聞かせましょう」


文之進は肥桶(こえおけ)をかつぎ、乃木は茶や農具を運んだ

 翌日から、山や田畑へ行って農業に精を出した。
 そのときの玉木文之進の様子を、乃木は次のように語っている。
 「玉木翁は腰に大小を挿しながら、肥桶を荷(にな)ひ耕作をせられたり。余は碌々(ろくろく)撃剣も学びたることなかしかば、重き鍬(すき)鎌(かま)を採りて耕作に従事するは誠に困なりしを以て、初(はじめ)は茶を運び、農具を携(たずさ)へ行くなどの手伝(てつだい)をなせるのみ」

 それ迄やったことのない農作業がつらく、
 《其(そ)の後に至りても困難に堪(た)へずして玉木家を去らんとの念も生じたれど、なほ暫(しばら)く忍耐する内(うち)に次第に事慣(ことな)れて、終(つい)には困難とも思はず、大(おほい)に興味を生ずるに至れり。》

 そして、文之進から学ぶようになるのだが、その様子はというと、
 《農耕の暇には畑中にて玉木翁より学問上の話も聞き、夜に入れば、夫人が糸を紡ぐ傍(かたわら)にて日本外史などを読み習ひたり》

 松陰にも同じようなやり方していたのではないか。
 乃木は、そういうことが1年も続くと、生来の虚弱体質はすっかり影を潜め、見違えるような体力の持ち主に変貌していたのである。

 《余は是(ここ)に於(おい)て玉木翁の教育の効果の空しからざるを悟り、漸(ようや)武士としての修養を積まんと志すに至れり》(傍線城島)


 以上、長い引用を挟みながら話を進めてきたが、乃木希典は「農作業を強いられ、それを苦痛に感じた」と語ってはいても、殴打されたなどとは語っていないのである。
 
 松陰を教えた頃の文之進はまだ若く、乃木を教えたときは老いているという違いはあるが、あるいは、長州藩の兵学師範という重要な職責を担うことになるまだ幼い甥っ子を育成するケースと軟弱な体つきをした本家筋の16歳の若者の心身を鍛えるというケースの違いはあっても、教え方に天と地ほどの違いはないと解釈すべきではないだろうか。
 つまり、玉木文之進は、心身を鍛えるための厳しい指導は行ったが、狂気に満ちた体罰をもって教えたとはいえない、というのが私の結論である。

 ※玉木文之進と乃木希典の話は、大濱徹也『乃木希典』(講談社学術文庫)より引用。

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(城島明彦)

2015/01/08

「花燃ゆ」番外編――〝小さな巨人〞吉田松陰役に180cmの伊勢谷友介を起用したNHKのアホさ加減


小柄だった松陰

 吉田松陰が小柄だったことは、私塾「松下村塾」で間近に接していた教え子たちが証言している。

 たとえば、品川弥二郎(しながわやじろう)は、
 「体格の小兵(こひょう)なる人にてありしなり」
 と明治26年に語っている。

 小兵とは、「小柄」「体つきが小さい」という意味である。
 今日ではあまり使わない表現だが、伝統を重んじる大相撲では「小兵力士」という言い方はしばしば使われる。

 「小兵」という表現は、品川の次のような言葉の中で使われている。

 「松陰先生の人となりを語ることは、余(よ)の身に取りて誠に忍ばざる事なれども、一言申さば、実に想像外の人にてありしなり。誰しも先生の事跡より考ふれば、如何(いか)にも厳格にて激烈なる人の様(よう)に思はるれども、決して然らず。実に温順にして、怒ると云ふ事のなき、体格の小兵なる人にてありし」
(松陰先生の人となりをかたるのは、私の身では誠におそれ多いことではあるが、一言申し上げるなら、見た目のイメージとはまるで違うのが松陰先生でした。誰もが先生が残された事跡が頭にあるので、それを根拠にして厳格で激烈な人のように思ってしまうのだけれど、断じてそうではなかったのです。先生は、とても温順で、怒るというようなことなど決してしない、小柄な体つきの方でした)


〝希覯(きこう)男子〞品川弥二郎 

 松蔭は、15歳頃に松下村塾生となった品川弥二郎を、
 「事に臨んで驚かず、少年中希覯(きこう)の男子なり」
 と高く評価した。
 古書や珍しい本のように、なかなか手に入らない貴重な本を「希覯本(きこうぼん)」というが、松蔭は品川を〝希覯男子〞とみなしたのである。
 
 品川弥二郎は、のち、高杉晋作らと品川の英国公使館焼き討ちにも加わったり、禁門の変では久坂玄瑞らと会津・薩摩などで構成された幕府軍と戦うなどし、維新後は内務大臣などを歴任した。


優しいのに、教え子はびくびくしていた

 前言に続けて品川弥二郎は、こういっている。
 「三百人の書生が、一度も先生より叱られたることなきを以(も)って知るべし。併(しか)しながら、此書生等(このしょせいら)は、一人として先生を恐れざるものなく、皆先生を見てビクビクして居たり」
(300人いた塾生が、一度も先生に叱られたことがなかったという事実からも、先生が温順だったことがわかるはずだ。それなのに、塾生たちは一人の例外もなく先生を恐れていて、先生を見るとビクビクしていたのである)


松陰はオーラを放つ〝小さな巨人〞。それが松陰の大きな特徴だ 

 背も小さく、しかも温厚で、怒ったことがなかった松陰。
 それなのに、塾生は例外なく松陰を恐れていた。
 その理由を一言で言い表すと、松陰は〝オーラ〞を放っていたのだ。
 だから、体つきは小さいのに、
 「オーラを放つ巨人」
 として全塾生の目に映っていた。


松陰は〝小さな巨人〞だったのだ。

 それを180cmも背丈のある俳優が演じるなど見当違いも、はなはだしい。
 大きな松陰では小さな巨人である松陰を表現できない。
 だから、
 「180cmの伊勢谷友介はミスキャスト、松蔭役は小柄な俳優にすべし」
 というのが私の考えである。

 別にドラマなんだから、誰が演じようと関係ないという人もいるだろうが、極論すれば、イエス・キリストを描くのにデブの俳優は起用しないと考えると、「NHKのキャスティングに対する考え方はおかしい」と気づくはずだ。


ダスティン・ホフマン主演映画「小さな巨人」の意味
 
 蛇足になるが、1970年のアメリカ映画「小さな巨人」は、インデアンに育てられた数奇な運命をたどった小柄な白人の話だが、121歳という信じがたい設定の〝小さな巨人〞と呼ばれたその男を、身長165センチの名優ダスティン・ホフマンが演じたからこそ説得力が感じられ、高い評価を勝ち取れたのである。

 NHKの「花燃ゆ」のプロデューサーやヂィレクターは、そういうことを考えたことなどないのだろう。

(城島明彦)

2015/01/05

82年前の正月、少年たちが読んで感激した吉田松陰のエピソード


少年雑誌「KING」の昭和8年(1933年)新年号の付録より


 凡(およ)そ人(ひと)一日(いちにち)此世(このよ)にあれば、一日の食を喰(くら)ひ、一日の衣を着(き)、一日の家に居(ゐ)る。何ぞ一日の學問(がくもん)、一日の事業を勵(はげ)まざるべけんや。


(以下、※は城島注)

 『御願(おねが)ひがあるが、御聞届(おききとどけ)下さるまいか』
 半坪(はんつぼ)しかない檻(をり)の中で、吉田松陰が牢番(ろうばん)に呼びかけた。  ※半坪は畳半畳で、その狭い牢に二人。
 安政元年三月二十八日のことだ。前の夜、彼は、金子重輔(かねこぢうすけ)と共に、伊豆下田に停泊中の米國軍艦(ぐんかん)にのりつけて、海外密航を企てたのだったが、不幸にして失敗したのである。 ※安政元年 1854年。金子重輔は松陰の最初の弟子。
 『どう云ふ御用かの』
 牢番は、そつと訊(たづ)ねた。
 『いや、他でもないが、實(じつ)は、昨夜バッテイラにのせた行李(こうり)が流されて了(しま)つたので、手元に讀(よ)みものがない、恐れ入るが何ぞ御手元(おてもと)の書物を拝借できぬであろうか』  ※バッテイラ 小船のこと。
 『ふゝう』
 牢番は、びっくりした。
 『お前さま方は、大(だい)それた密航を企(たくら)み、かうして捕(と)らわれ人(びと)になつてござるので、何も檻(をり)の中で、勉強をなさらんでもよい、いづれは重い御處(処)刑(おしおき)になるのだから……』
 『御尤(ごもっと)もでござります。その儀は覚悟して居(ゐ)るが、御處刑(おしおき)になる迄にはまだ時日があらう、それ迄は、やはり一日の仕事をせぬといけない。人間といふものは、一日此世(このよ)に生きて居(ゐ)れば、一日の食を喰(くら)ひ、一日の衣を着、一日の家に住む。それぢゃによつて、一日の學問(がくもん)、一日の事業(じげふ)をはげんで、天地萬物(てんちばんぶつ)への御恩報(ごおんはう)じを致さねばならぬ、……此儀(このぎ)が、納得出來たなら、是非、御貸(おかし)が願ひたい』
 牢番は、この一言に悉く感じ入って、『赤穂義士傳(あかほぎしでん)』『三河後風土記(みかはごふうどき)』『眞田(さなだ)三代記』などを持つて來(き)て、松陰の手にわたした。
 すると、松陰は金子と二人して、これを誦讀(しやうどく)してゐたが、そのゆつたりとした容子(ようす)は、やがて處刑(しよけい)に赴(おもむ)く囚人のやうな處(ところ)が少しも見えなかった。そして松陰は、
 『金子君、今日(けふ)のこの讀書(どくしよ)こそ、これがほんとうの學問(がくもん)であるぞ』
 同志の金子をふりかへつて、かう云うた。

 ※これは、松陰自身の回顧録にある実話で、『赤穂義士伝』などを牢番から借り受け、従者となった金子重輔と交互に朗読したと記されている。
 松陰は、「登場人物に感情移入して読め」と松下村塾の塾生たちに教え、尊崇していた楠正成の話は涙を流しながら読んだと述べている。
 松陰は、赤穂義士たちを教えた山鹿素行(やまがそこう)が始めた山鹿流兵法を学んだので、『赤穂義士伝』を誦読(しょうどく)したときは、主君の仇(かたき)吉良上野介の首級(しゅきゅう)を討ち取った場面では泣いたのではないか。

(吉田松陰のことがよくわかる本)
 Photo ※クリックすると画像が大きくなります

(城島明彦)

2015/01/04

「花燃ゆ」第1回はレベルが低すぎて失望! 文と小田村伊之助を際立たせるために無理に筋書きを創っている


脚本も演出も音楽もナレーションも安っぽく、「軍師 官兵衛」と比べて数段下

 小田村伊之助(のち楫取素彦に改名)は、最初、文の姉の寿(ひさ)と結婚。しかし、寿はやがて死ぬ。
 一方、文は、松陰の門下生の久坂玄瑞(くさかげんずい)と結婚するが、久坂が禁門の変で自刃。未亡人となるが、母の強い勧めで寿の夫だった小田村伊之助と再婚する。
 
 小田村伊之助が文の初恋の人だったなどという事実はないが、文が後添(のちぞえ)になれうという結果がわかっているので、NHKは伏線を張ろうとして、ありもしないエピソードをいくつもでっち上げた。

 史実を知らない人は、本当にあった話なのかと思うだろう。
 ドラマなのだから何をやってもいいということにはならない。

 小田村伊之助が書き残した手紙などを読むと、大河の演出のように華やかなイメージはなく、非常に地味な言動が目立つ。

 史実は史実として押さえたうえで演出しないと、まったくの別人を描くことになる。

(参考)
 Photo_3 ※クリックすると拡大します。

(城島明彦)
 

2015/01/03

おひとつ、どうどす? 和尚さんと珍念の会話 ~お題は「新年」~


山寺にて

  お寺の和尚(おしょう)さんと珍念が、めでたく正月を迎えました。
 和尚「珍念や、珍年おめでとう」
 珍念「新年早々、くだらないダジャレをかますのはよしてくださいよ。ヘックション!」
 和尚「どうした、かぜでも引いたか」
 珍念「体が故障したようです」
 和尚「できるな、珍念。故障と胡椒をかけるとは、あっぱれじゃ」
 珍念「くすぐったい。そう胡椒ぐらないでください。いきなり褒められると照れます」
 和尚「ダジャレのレベルが低すぎるぞ、珍念」
 珍念「そんなことをいうなんて、和尚さんは高村光太郎ですか」
 和尚「ん?」
 珍念「『智恵子抄』をご存じない!? 和尚さんは『知恵、故障』。詩集だけに死臭が漂って参ります」
 和尚「縁起でもないことをいうでない」
 珍念「演技ではございません。本気です」
 和尚「くそっ、将棋でもするか」
 珍念「将棋ないですね」
 和尚「将棋なら、ここにあるぞ。将棋の味方だ、仮面ライダー」
  と懐から将棋の箱を出すと、なかから金(きん)を一つつまみ出し、
 和尚「年が明けたから、これをおまえにくれてやろう。金が珍念じゃ!」
 珍念「かんべんしてくださいよ」

(城島明彦)

アマゾンの在庫管理者はサボっているのか!?


「嫌がらせ?」「ソデの下?」と思う人がいた!

 明1月4日から、吉田松陰の妹文を主人公にしたNHK大河ドラマ「花燃ゆ」が始まる。

 大河ドラマを見て、吉田松陰という人に興味を抱き、本を読んでみたいと思う人も当然、出てくるはずで、拙著『吉田松陰「留魂録」』も好評につき、御礼申し上げますといったところ。

 ところが、新年早々、病床にいる知人がこんなことをいってきた。

 「腰が痛くて本屋へいけないからアマゾンで買って読もうと思い、昨晩ネットで確認したら、在庫があった。それで、明日申し込もうと思って寝た。ところが今日見たら、
 『通常3~5週間以内に発送』
 となっていました。明日から大河ドラマが始まるのに、間が悪すぎます。嫌がらせをされているのではありませんか。
 読者からすると、せっかく買おうと思っても、『本が届くのが3週間以上も先ということなら、別の作者の本にするか』という気持ちになります。
 アマゾンで買い物をするときには、ついでにあなたの『吉田松陰「留魂録」』の順位などを見ていましたが、ずっと上位にランクされていました。それなのに、アマゾンの在庫管理者が在庫を補充しないというのはおかしいと思いました。
 「花燃ゆ」が始まる前日に『通常3~5週間以内に発送』という表示になるというのは、あまりにもタイミングがドンピシャリです。偶然にしてはおかしいと思いませんか。

 それで、ちょっと調べてみたら、『吉田松陰「留魂録」と同じ出版社(致知出版社)の別の吉田松陰の本にも、そのような表示が出ていました。担当者がただサボっているだけなのか、それとも、その担当者がどこかの出版社から販促金でももらっていて、その本を売るために売れている本に嫌がらせをしているのではないのかと思いました。文句をいった方がいいですよ」


拙著『吉田松陰「留魂録」』は3か月で二度の被害

 まさかと私は思ったが、発売1か月後にも同様のことが起きていた。
 在庫表示が『通常3~5週間以内に発送』となると、買い控えが起き、同じテーマや類似した書名をつけた別の本が売れるということを経験しているのだ。

 私の『吉田松陰「留魂録」』でいうと――
 最初のときは、「一般」というジャンルで3~5位(ノンフィクション全体の順位では100位以内~250位くらい/本全体では1000位台~2000位台くらい)で頑張っていたのが、『通常3~5週間以内に発送』が出たとたん、買い控えが起きたために順位が急降下し始め、2日後には早くも20位台とか30位台となり、1週間も過ぎると100位からも陥落(本全体では1万位台に陥落)。
 
 その後もどんどん落ち続け、私が見たなかで最も下落したときのアマゾンの本全体の順位は10万3395位だった。
 ところが在庫が補給されると、また順位が急上昇して10位台になり、出版社の方でも会員に書籍紹介をしたこともあって、ヒトケタ台にカムバックした。
 
 「よかった」と思っていたら、また在庫不足だ。
 在庫冊数表示が消えて、
 「通常3~5週間以内に発送」
 表示である。

 コンピューターによる在庫管理が鉄壁で、注文から発送までを電光石火でやるのがアマゾンの売りではないのか。在庫不足にしてどうする!
 著者は誰でも、少しでも多くの人に読んでほしいと思っている。
 著者もまたアマゾンの顧客である。
 顧客を不快な思いにするビジネスのやり方は、まともではない。
 アマゾンは、まじめにやれ!

(城島明彦)

2015/01/01

元旦に初夢、そしてブログが90万アクセスを突破。読んでいただき、ありがとう!

宝くじを買っておけばよかった

 あけましておめでとうございます。
 新春の「かきぞめ」は、「初夢」でございます。

 夏目漱石の短編小説『夢十夜』の第一夜は、
 「こんな夢を見た」
 という文章で始まるが、私の場合は、日付が2015年1月1日に変わった夜、
 「初夢」
 を見た。
 元旦に「初夢」を見たのは、68年も生きてきて初めての体験だった。

 小学生の頃に読んでいた雑誌の新年号には、必ず「初夢」をテーマにしたマンガが載っていたが、私自身は正月に夢など見たことなどなかったので、「初夢」に憧れたが、見ることはなかった。

 私が見た夢は、深窓の美しい令嬢と恋する20代後半の私だった。
 相手も私のことを思ってくれていることが伝わってきたが、いいところで目が覚めたので、結末がどうなるのかはわからない。

 (なんのこっちゃ!)
 とガッカリしたが、これは小説になるかも、と思った。

 夢を見たのは、年末に熱を出したのとかんけいがあるのだろうか。
 年末に「花子とアン」の総集編をやっていたのを途中まで見たのが影響しているのか?

 外では初雪が降った。
 そしてブログも90万アクセスを突破した。

 これだけ偶然が重なると、何か「いいことがある予兆」だったのかもしれないと思えてきて、宝くじを買い忘れたのが惜しまれた。


 (城島明彦)

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