82年前の正月、少年たちが読んで感激した吉田松陰のエピソード
少年雑誌「KING」の昭和8年(1933年)新年号の付録より
凡(およ)そ人(ひと)一日(いちにち)此世(このよ)にあれば、一日の食を喰(くら)ひ、一日の衣を着(き)、一日の家に居(ゐ)る。何ぞ一日の學問(がくもん)、一日の事業を勵(はげ)まざるべけんや。
(以下、※は城島注)
『御願(おねが)ひがあるが、御聞届(おききとどけ)下さるまいか』
半坪(はんつぼ)しかない檻(をり)の中で、吉田松陰が牢番(ろうばん)に呼びかけた。 ※半坪は畳半畳で、その狭い牢に二人。
安政元年三月二十八日のことだ。前の夜、彼は、金子重輔(かねこぢうすけ)と共に、伊豆下田に停泊中の米國軍艦(ぐんかん)にのりつけて、海外密航を企てたのだったが、不幸にして失敗したのである。 ※安政元年 1854年。金子重輔は松陰の最初の弟子。
『どう云ふ御用かの』
牢番は、そつと訊(たづ)ねた。
『いや、他でもないが、實(じつ)は、昨夜バッテイラにのせた行李(こうり)が流されて了(しま)つたので、手元に讀(よ)みものがない、恐れ入るが何ぞ御手元(おてもと)の書物を拝借できぬであろうか』 ※バッテイラ 小船のこと。
『ふゝう』
牢番は、びっくりした。
『お前さま方は、大(だい)それた密航を企(たくら)み、かうして捕(と)らわれ人(びと)になつてござるので、何も檻(をり)の中で、勉強をなさらんでもよい、いづれは重い御處(処)刑(おしおき)になるのだから……』
『御尤(ごもっと)もでござります。その儀は覚悟して居(ゐ)るが、御處刑(おしおき)になる迄にはまだ時日があらう、それ迄は、やはり一日の仕事をせぬといけない。人間といふものは、一日此世(このよ)に生きて居(ゐ)れば、一日の食を喰(くら)ひ、一日の衣を着、一日の家に住む。それぢゃによつて、一日の學問(がくもん)、一日の事業(じげふ)をはげんで、天地萬物(てんちばんぶつ)への御恩報(ごおんはう)じを致さねばならぬ、……此儀(このぎ)が、納得出來たなら、是非、御貸(おかし)が願ひたい』
牢番は、この一言に悉く感じ入って、『赤穂義士傳(あかほぎしでん)』『三河後風土記(みかはごふうどき)』『眞田(さなだ)三代記』などを持つて來(き)て、松陰の手にわたした。
すると、松陰は金子と二人して、これを誦讀(しやうどく)してゐたが、そのゆつたりとした容子(ようす)は、やがて處刑(しよけい)に赴(おもむ)く囚人のやうな處(ところ)が少しも見えなかった。そして松陰は、
『金子君、今日(けふ)のこの讀書(どくしよ)こそ、これがほんとうの學問(がくもん)であるぞ』
同志の金子をふりかへつて、かう云うた。
※これは、松陰自身の回顧録にある実話で、『赤穂義士伝』などを牢番から借り受け、従者となった金子重輔と交互に朗読したと記されている。
松陰は、「登場人物に感情移入して読め」と松下村塾の塾生たちに教え、尊崇していた楠正成の話は涙を流しながら読んだと述べている。
松陰は、赤穂義士たちを教えた山鹿素行(やまがそこう)が始めた山鹿流兵法を学んだので、『赤穂義士伝』を誦読(しょうどく)したときは、主君の仇(かたき)吉良上野介の首級(しゅきゅう)を討ち取った場面では泣いたのではないか。
(吉田松陰のことがよくわかる本)
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(城島明彦)
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