« 視聴率歴代ワースト3で始まった「花燃ゆ」は前途多難 | トップページ | 「花燃ゆ」の「寅兄」(とらにい)と呼ぶ今風の軽い言い方に抵抗感 »

2015/01/14

「花燃ゆ」の視聴率がふるわない「8つの理由」

大河ドラマらしからぬ軽すぎる演出・演技が裏目に

 「花燃ゆ」の初回の視聴率(関東地区)は16・7%(ビデオリサーチ調べ)で、大河ドラマ史上お尻から3番目という危ない離陸だったが、3連休の真ん中に放送された2回目の視聴率はさらに下げて13・4%と落ち込んだ。

 そうなったのは、私が見るところ、以下にあげるような理由による。


【理由1】 馴染みの薄い吉田松陰の妹「文」(ふみ)を主人公にしたこと

 朝ドラの「花子とアン」の翻訳者である村岡花子や小説『赤毛のアン』はよく知られているが、文のことを知っている人は極めて限られており、馴染みがないということも、視聴率に影響している。


【理由2】 背が低かった吉田松陰に長身の伊勢谷友介、主人公の文に人気イマイチの井上真央を起用した

 井上真央はNHK朝ドラ出身で、NHK好みの女優だが、民放のドラマではパッとしない。
 一方の伊勢谷は、180cmの長身で、小柄だったが、やったことはでっかい〝小さな巨人〞の吉田松陰を演じるには無理がある。

 吉田松陰は生涯独身で、女性との色恋沙汰がまったくなかった男。
 伊勢谷は、真偽のほどはよくわからないが、かつて付き合っていた女性との間で「DV」(ドメスティック・バイオレンス)があったと週刊誌に報じられたことがあり、また、女優の長澤まさみとの関係も噂されるなどしたことで、女性層が取り込めなかったのではないか。


【理由3】 文がのちに後妻となる小田村伊之助を「初恋の人」としたのはつくりすぎ 

 文に関する歴史的な記録は皆無に近いから、どう描こうが構わないが、説得力に欠けるエピソードは「ウソっぽい」と思われる可能性も高い。

 文は、高杉晋作と並んで「松下村塾の双璧」といわれた久坂玄瑞(くさかげんずい)に15歳で嫁ぐが、玄瑞は禁門の変で死んでしまう。
 文の4つ上の姉寿(ひさ)も、15歳のときに松陰の友人の小田村伊之助(のち楫取素彦に改名)と結婚したが、43歳で亡くなり、その後妻になるのが文である。
 そういう事実があるので、NHKは小田村伊之助を文の初恋の人という設定にしたのだろうが、そんな証拠はどこにもない。

 姉が死んで小田村伊之助と再婚してはどうかと言い出したのは母(滝)だったが、文は小田村のもとへ嫁いでいくことを頑なに拒んでいたという証言が残っている。
しかし、母の滝が執拗に勧めるので、折れて後妻となるのだ。

 姉の夫に嫁ぐということに対する拒否反応はあったとしても、また、時代が流れて当時のような感情ではなかったにしろ、もし小田村伊之助が初恋の人だったら、嫌だと強く拒否するようなことはなかったのではないか。
 NHKは、ドラマづくりをするために「初恋の人」などとでっち上げてしまったのだが、視聴者はそういう安易な設定に拒否反応を示したのかもしれない。


【理由4】 小田村伊之助は、松陰や高杉晋作のように言動が派手ではなく、「華」がない

 小田村伊之助(おだむら いのすけ)は、のち楫取素彦(かとり もとひこ)と改名し、初代群馬県令(けんれい。知事)になる人物で、誠実で頭も良く教育熱心だったが、地味な人。

 楫取素彦は、地方自治に情熱を傾けた人で、彼の事跡や残された手紙などから伝わってくる印象では、非常に実直な人柄だったようだが、同じ長州藩出身で総理大臣になった伊藤博文、山県有朋、木戸孝允(きど たかよし。桂小五郎)らのように中央政界で華々しい活躍をした人ではなく、ドラマの中心人物として描くには無理がある。

 群馬賢人には馴染みが深い人ではあっても、全国的な人気とはなりえない人物である。


【理由5】 話が面白いと評判を取った「花子とアン」にあやかろうとして〝ご都合主義〞に走り、史実を軽視した

 昨年の朝ドラ「花子とアン」は、村岡花子の孫が執筆した「原作」を脚色したのではなく、「原案」となっていた。
 NHKがドラマとしての展開を面白くするために、史実や時空を完全に無視してご都合主義に徹したが、視聴率は取れた。子孫は複雑だったのではないか。

 朝ドラはそれでよかったが、大河ドラマとなると、そうはいかない。実験しようとする前向きさは買うが、視聴者は吉田松陰などの登場人物に対する「イメージ」というものがあり、そのイメージとあまりにもかけ離れたドラマになっていると失望し、次第に見なくなる。


【理由6】 トレンディドラマのような時代劇になっており、登場人物に重みやリアリティがなく、大河ドラマのファン層が違和感を覚えた

 去年の大河ドラマ「軍師 官兵衛」も黒田家の家庭内を描いていたが、武家の作法はきちんと押さえていた。しかし、「花燃ゆ」は、文にしろ、姉の寿にしろ、いかにも軽すぎる印象がある。

江戸に遊学に出た吉田松陰から父宛に来たと思える手紙を、ふみが勝手に開けて読んでいる場面が何度かあったが、そんなことをすること自体、ありえない。
 演出家も脚本家も、わかっていて、そういう無茶なことをさせている。


【理由7】 主人公の文(ふみ)をさまざまな事件に絡ませるために、立ち聞きさせたり、その場にいるようにさせたりするという設定にも無理がある

 ふみが、姉のあとをつけたり、話を盗み聞きしたりする場面が何度も出てくるが、これは「江」のときにもNHKが使った手で、女性脚本家が使いたがる手法。2011年の大河ドラマ「江・姫たちの戦国」も「花燃ゆ」も、どちらも女性脚本家という共通点がある。

 歴史的場面を盗み聞きすることで主人公が関わっていたとする演出だが、そういう設定にすると、話としては面白くなるが、歴史的事実を無視したことになる。


【理由8】 文の母(滝)は耐える女性。いつもニコニコしていられるような状況ではなかった

 文の母親を演じている壇ふみは、いつもニコニコしているが、果たしてそうだったのか!?
 松陰の母滝(たき)は、「女の鑑(かがみ)」として、戦前まで修身の教科書に登場していた人物である。
 明治時代に有名になり、訪れる人が増えて、写真をほしいといって、もらっていく人も多く、皇太后や皇后もその写真を見た。

 松陰の生家は貧乏な下級武士で、松陰が小さい頃は貧乏で、早朝から家族総出で田畑を耕し、麦や野菜などは自給自足していた。

 松陰の兄が、生前の母親のことを書いた『太夫人實成院行状』(たいふじんじつじょういんぎょうじょう)には、彼女が夫に従って朝から野を耕し、山で木を切るなどしただけでなく、農耕具を馬に引かせて畑を耕すという男顔負けの作業もしていたと書いてある。
 のちに夫百合之助が仕官の道を得て勤めに出るようになると、彼女は夫がやっていた農作業をひとりでやるようになった。

 掃除機も電気釜も洗濯機もない時代だから、大勢の家族のための炊事・洗濯・掃除など、やるべきことは山のようにあった。使用人を雇えるような家計の状態ではなかったため、ひとりで家事全般もやっていた。

 しかも、民治(みんじ、幼名梅太郎)、松陰(幼名寅次郎)、千代(のち芳子に改名)という3人の子の育児があった。
 それぞれ2つ違いで、民治によれば、「民治が5、6歳で、松陰が3、4歳、千代は1、2歳の頃の話」で、まだ文は誕生していない。

 文が誕生するのは民治15歳、松陰13歳、千代11歳のときだ。
 松陰の兄弟は7人。男3人で妹は4人。
 長女が千代(2つ下。93歳まで生きる)、次女が寿(千代の7つ下。文の4つ上。43歳で死去)、艶(つや。早世)と続いて、文は一番下。文の下に聾唖だった敏三郎がいた。

 千代は、16歳で親戚の児玉家に嫁ぐ。そのとき文は7歳。
 杉家の姉妹を束ねていたのは、長女の千代。
 千代は烈婦だった。
 明治になって、不平士族が反乱を起こす。松陰の教え子だった前原一誠も乱(萩の乱)を起こしたが、その乱に叔父玉木文之進(百合之助の下の弟)が教えた塾生たちや息子も加わっていたことから、文之進はその責任をとって先祖の墓前で切腹する。そのとき、千代は叔父の文之進から見届けるように懇請され、男まさりの役割を果たしている。

 そういう生き方は、母の滝から学んだ生き方だった。
 滝は、気丈な人だった。
 人前では決して泣かなかった。
 松陰が処刑になっても、人前では涙を流さなかったと伝えられている。
 
 松陰が幼少の頃、家には舅(しゅうと)・姑(しゅうとめ)も同居していたが、そこへ姑の妹が転がり込んできた。そして病気になって寝込むと、滝はその介護をし、汚物を扱うときにも嫌な顔ひとつせずに親身に行った。

 そのときの様子を、民治はこう記している。
 「姑氏泣テ之ヲ謝シ、観る者為メニ涙ヲ垂ル」
 (姑は涙を流して感謝し、その光景を観ていた者は涙をこぼさずにはいられなかった)

 そんな滝を、めったに人をほめない玉木文之進が、
 「女丈夫(じょじょうぶ)とは義姉(あね)さんのような人だ」
 といったという。


 (城島明彦)

« 視聴率歴代ワースト3で始まった「花燃ゆ」は前途多難 | トップページ | 「花燃ゆ」の「寅兄」(とらにい)と呼ぶ今風の軽い言い方に抵抗感 »