「花燃ゆ」(第3回)の吉田松陰は、単なる〝添え物〞。多くを望むと落胆
松陰の起こした事件の描写が簡単すぎるのでは?
「軍師 官兵衛」の後の大河ドラマが「花燃ゆ」という題名だと知ったとき、頭の奥に、私が1900年代の終わりに「夕刊フジ」に連載した「ソニー燃ゆ」という題名が浮かんだ。
そういう縁もあり、昨年9月末に『吉田松陰「留魂録」』という単行本を上梓したという縁も重なって、吉田松陰の妹の文を主人公にした「花燃ゆ」という大河ドラマには大いに期待した。
だが、放送が始まってみると、私の期待とドラマの間には、かなりのギャップがあり、落胆している。
ドラマ全体が軽いのは、それはそれで構わないが、役者の演技も軽く、セリフも言葉だけが上(うわ)っすべりしていて、内面の喜怒哀楽が表現できていないのだ。
去年の「軍師 官兵衛」でも、たくさんの脇役、たくさんの女性を扱っていたが、それぞれの内面をうまく描いていた。
ところが、今回の「花燃ゆ」に登場する女性からは、今のところ、それが感じられないのが不満だ。
「松陰は添え物」と思わないと腹が立つ
放送が始まる前に、
「吉田松陰のことを、かなり詳しく描くのだろう、どうやって描くか楽しみだ」
と思っていた大河ドラマファンは、たくさんいたはずだ。
私も、幕末という時代を駆け抜け、明治維新を生む原動力となった吉田松陰の言動を、NHKがどう描くかということに強い関心をもっていた。
しかし、実際のドラマは、その思いに肩すかしをかけた。
今回の大河ドラマでの松陰は、NHKにとって、文(ふみ)という妹の単なる〝添え物〞にすぎない扱いでしかなかったのだ。
松陰ファンや松陰に関心をもっている人は、少なからぬ失望と不満を感じているのではないか。
あまり多くは望まず、高望みもせず、「この原作は、瞳キラキラの少女マンガなのだ」と自分に言い聞かせて見れば、それはそれで面白いのかもしれない。
松陰の内面を深く描くべきだ
かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂
この歌に松陰の気持ちが凝縮されている。
「結果は見えている。それでもやるのだ。やるしかない」
というのが、吉田松陰である。
松陰は、時間をかけて周囲を説得するという術には長(た)けていなかった。
たとえば、松陰は、松下村塾時代の伊藤博文のことを、
「周旋屋」(政治的な交渉ごとがたくみな人物)
と見破っていたが、まさにそのとおりで、のちに初代総理大臣になった。
井上真央は好感が持てる
高杉晋作と並ぶ〝松門(松下村塾)の双璧〞といわれた俊英・久坂玄瑞(くさかげんずい)は、14歳で母を亡くし、15歳で父と兄を亡くし、家を背負う重圧がのしかかったが、それに負けまいと胸に期すところがあったはずだ。
しかしNHKは、久坂玄瑞を頼りないボンボンのように描いた。
黒船が関門海峡を通過すると聞いて、文に引っ張られるようにして山頂までいくが、見逃して地団太を踏んだり、山の中の神社でおみくじを三度引いても「凶」だったと嘆くのを、文に叱りつけられ、激励されたりするという描き方だった。
文の尻に敷かれて小さくなっている久坂玄瑞という描き方からは、この男がのちに長州藩のリーダー格の一人になって、禁門の変で幕府軍と戦い、重傷を負うと「もはやこれまで」と自刃して果てるような勇猛果敢な姿に変貌するとはとても思えない。
旧来の大河ドラマを超えたいという思いはわかるが、軽すぎるのではないか。
ただし、文を演じている井上真央はよく演じている。
(城島明彦)
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