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2015/01/11

大河ドラマ「花燃ゆ」第1回で、文が叔父から平手打ちされたのは史実か?

司馬遼太郎の小説のエピソードを使ったが、事実かどうかは疑わしい

 NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の第1回で鮮烈だったのは、
 「(のちに再婚する相手となる)小田村伊之助(おだむら いのすけ)と川のほとりで偶然出会い、初めて言葉を交わした幼い文が、伊之助の落としていった禁書を拾って、それを本人に返そうとして藩校へ忍び込み、見つかってしまうのだが、文は藩校でも家に戻ってからも仔細を告白しなかったために、藩校で教鞭をとっている叔父の玉木文之進(たまき ぶんのしん)に両親の眼前で平手打ちをくらい、雨が降っている外に放り出される」
 ――というシーンと、もう一つ、松陰の幼少時の回想シーンで、
「少年寅次郎(松陰の幼少期の名前)が、夏のある日、文之進からマンツーマンで漢籍の講義を受けているとき、左の頬に蚊が止まり、かゆくなったので掻いたとたん、文之進の平手打ちが飛んだ」
――という場面だ。

 松陰は杉百合之助(すぎ ゆりのすけ)の次男である。
 百合之助は杉七兵衛の長男で、次男が大助、三男が文之進。
大助は、親戚で兵学師範の吉田家の養子となったが、松陰が6歳のときに病没したので、松陰が養子となったが、そのまま杉家で暮らしていた。
 文之進は文化7年(1810年)生まれで、松陰は天保元年(1830年)生まれなので、20歳の年齢差がある。
 松陰がまだ生まれていない文政3年6月に親戚の玉木家の養子に入り、玉木姓となった。
 松陰は9歳のときに家学見習いとして初めて藩校に行き、10歳で最初の講義を行い、11歳のときに長州藩主に講義をした天才だった。
 松下村塾を開いたのは文之進で、開塾は1842年(天保13年)。松陰12歳のときだ。

 玉木文之進は、26歳のとき(松陰が6歳のとき)に嫁をもらうが、そのまま杉家で同居を続け、翌年、杉家の敷地内に新築された別棟に移った。
 この嫁辰子は博識で、のちに乃木希典に『論語』や『日本外史』を教えることになる。


インパクトはあるが、フィクション

 大河ドラマでは、外出から戻った松陰が、夜の雨の中でずぶ濡れになっている文を見つけ、一緒に雨に打たれながら、自分の少年時代の蚊のエピソードを話す回想シーンが挿入されるのだ。

 松陰は、心根が優しい人で、弱者に対しては特にそうだったから、年の離れた妹と一緒に自分もずぶ濡れになったとしても不思議ではないが、
 「玉木文之進が幼い姪を張り倒した」
 ということは、実際にあったのだろうか。

 玉木文之進が厳しい人だったことは、家族の証言や1年ほど同居したことがある乃木希典の証言などから事実である。

 明治41年に吉田庫三(吉田家の養子)が書いた「玉木正韞(まさかぬ)先生傳(でん)」には、
 「人と為(な)り厳正にして、勤倹は百合之助に過き、剛直は大助に超ゆ」
 とある。
 「過き」は「過ぎ」と同じで「以上」の意味で、
 「(玉木文之進の)人となりを一語でいうなら厳正そのもので、勤倹さにかけては長兄の松陰の父百合之助以上であり、剛直という点では吉田家の養子となった次兄大助を超えている」


NHKは司馬遼太郎の小説を史実と思ってまねたのか!?

 少年寅次郎が、「頬を蚊に刺されて掻いたら、ひっぱたかれた」というエピソードは、司馬遼太郎の小説『世に棲む日々』(一)に出てくる話だ。
 そのくだりは次のようになっている。

 《ある夏のことである。その日格別に暑く、野は燃えるようであった。暑い日は松陰は大きな百姓笠をかぶらされた。この日もそうであったが、しかし暑さで顔じゅうが汗で濡れ、その汗のねばりに蝿がたかってたまらなくかゆかった。松陰はつい手をあげて掻いた。これが文之進の目にとまった。折檻(せっかん)がはじまった。この日の折檻はとくにすさまじく、
 「それでも侍の子か」
 と声をあげるなり松陰をなぐりたおし、起きあがるとまたなぐり、ついに庭の前の崖へむかってつきとばした。松陰は崖からころがりおち、切り株に横腹を打って気絶した。
(死んだ)
 と、母親のお滝はおもった。お滝はたまたまこの不幸な現場をみていたのである。(中略)
 この現場をみてきもをつぶしたであろう。しかし、玉木文之進に教育がまかされている以上、とやかくいうことはできない。このとき、文之進にきこえぬよう、小声で、ちょうど祈るように、
 「寅や、いっそお死に、死んでしまえばいいのに」
 と、つぶやきつづけた。》


司馬遼太郎は〝松陰のバイブル〞を無視した

 蚊の話の少し前に、次のような説明がある。
 《その教場が野天であることは、父の百合之助に教わっていたばあいとかわらない。文之進が畑仕事をする。松陰はあぜに腰をおろして本をひらいている。文之進が諳(そらん)じてゆく。そのあと松陰がひとりで朗読する。利発で従順な子である。
 文之進は謹直そのものの男だが、ときどき、魔王のように荒れた。
 「寅、傲(おご)ったか」
 と、飛びあがるなり松陰をなぐりたおすことがしばしばであり、たいていのばあい、殴られながらなんのことやら理由がわからない。起きあがると、文之進は根掘り葉掘りその理由を説明する。それがまた、ささいなことばかりであった。書物のひらき方がぞんざいであったとか、両手で書物を掲げ、手をまっすぐにあげて朗読せねばならぬところを、ひじがゆるんでいたとか、そういうかたちの上でのことが多い。「かたちは、心である」と、文之進はよく言った。形式から精神に入るという教育思想の熱狂的な信奉者がこの玉木文之進であったのであろう。しかしここまでの極端さは、やはり一種の狂気としかおもえない。》

 司馬遼太郎は、玉木文之進をこのように描いていた後、そう描いた理由に触れる。

 《「あんなひどい目にあっても、よく死ななかったものだ」
 と、松陰は後年、自分の門弟にそっと洩(も)らしたことがある。》

 つまり、司馬遼太郎は、門弟の一人がいったというエピソードを「史実」と解釈し、前記のような小説を展開したというのだが、母親や門下生の証言も含めた松陰に関するあらゆる資料を網羅した岩波書店「吉田松陰全集」(全10巻。12巻物もある)には、玉木文之進がぶん殴る話は出てこないのである。

 〝吉田松陰の資料バイブル〞ともいうべき「吉田松陰全集」は、真偽が怪しい談話や手記なども収載しているが、それらを詳しく検証し、間違いであるとか、事実かどうか不明といった但し書きを加えている。

 司馬遼太郎は、バイブルが記載しなかった信憑性のないエピソードから小説を創作したのであり、NHKはその小説を鵜呑(うの)みにして剽窃(ひょうせつ)まがいの筋書きのドラマにしたということになる。


文之進が松陰をたやすく殴るのは、状況的に難しい

 司馬遼太郎が「百姓笠」と表現したのは「菅笠」(すげがさ)のことである。
 少年寅次郎は、菅笠をかぶってアゴひもを結び、日盛りの畦(あぜ)に腰をおろして読書していたわけで、笠の縁が目の上くらいまできており、頬に平手打ちをしようとしても笠が邪魔をして頬に命中させるのは難しい。
 司馬遼太郎は、そこまで深く考えずに書いている。

 NHKも、田んぼとか畑では無理があると考えて、蚊の場面を室内に変え、玉木文之進から講義を受けている最中に松陰が頬を刺され、掻いたという設定にしたのかもしれない。
 いずれにせよ、蚊のくだりは、少年期の松陰を教育した叔父の玉木文之進という人物の狂気に満ちた一面を示す面白いエピソードではあるが、実際にはなかったと考える方が理にかなっている、と私は考える。


玉木文之進に弟子入り志願した乃木希典

 乃木希典は明治40年から学習院院長を務めるが、ある日、生徒たちに16歳のときに玉木文之進の家で過ごした元治元年(1864年)の話をしている。
 玉木家は野木家の分家で、親戚である。
 乃木希典は、体が弱かったことから、武士でありながら武芸に熱心になれず、文学に傾倒し、将来は学者になろうと思い、父に話すと強く反対された。

 納得がいかない乃木は、黙って家を飛び出し、乃木家の分家である玉木家に文之進を訪ね、学問を教えてほしいと直訴した。
 だが、齢(よわい)54歳に達し、「翁」(おきな)と呼ばれていた文之進は、
 「武士の家に生まれて武芸を好まずば、百姓をせよ」
 といった。

 乃木が驚いていると、百姓をする気なら、我が家には多少の田畑があるから、見習いをせよ。学問したいという気持ちを改めないのなら、早々に立ち去った方がよいという。
 夜になっていたが、帰ろうとして門のところまで歩みを進めると、文之進の妻辰子が追いかけてきて「これからどうするのか」と尋ねるので、「故郷へ帰ります」と答えると、
 「今夜は遅いから、とまりなさい」

 部屋に戻った乃木に辰子は、
 「御身は学問を志しているようだから、まず試しにこの本を読んでみなさい」
 と『論語』を渡して読むようにいったが、誤読が多かったことから、
 「そんなレベルで学者になろうとはおこがましい。翁が許さないのももっともだ。御身はまだ若いから、もし農業に精を出すというのなら、夜、私が頼山陽の『日本外史』を読み聞かせましょう」


文之進は肥桶(こえおけ)をかつぎ、乃木は茶や農具を運んだ

 翌日から、山や田畑へ行って農業に精を出した。
 そのときの玉木文之進の様子を、乃木は次のように語っている。
 「玉木翁は腰に大小を挿しながら、肥桶を荷(にな)ひ耕作をせられたり。余は碌々(ろくろく)撃剣も学びたることなかしかば、重き鍬(すき)鎌(かま)を採りて耕作に従事するは誠に困なりしを以て、初(はじめ)は茶を運び、農具を携(たずさ)へ行くなどの手伝(てつだい)をなせるのみ」

 それ迄やったことのない農作業がつらく、
 《其(そ)の後に至りても困難に堪(た)へずして玉木家を去らんとの念も生じたれど、なほ暫(しばら)く忍耐する内(うち)に次第に事慣(ことな)れて、終(つい)には困難とも思はず、大(おほい)に興味を生ずるに至れり。》

 そして、文之進から学ぶようになるのだが、その様子はというと、
 《農耕の暇には畑中にて玉木翁より学問上の話も聞き、夜に入れば、夫人が糸を紡ぐ傍(かたわら)にて日本外史などを読み習ひたり》

 松陰にも同じようなやり方していたのではないか。
 乃木は、そういうことが1年も続くと、生来の虚弱体質はすっかり影を潜め、見違えるような体力の持ち主に変貌していたのである。

 《余は是(ここ)に於(おい)て玉木翁の教育の効果の空しからざるを悟り、漸(ようや)武士としての修養を積まんと志すに至れり》(傍線城島)


 以上、長い引用を挟みながら話を進めてきたが、乃木希典は「農作業を強いられ、それを苦痛に感じた」と語ってはいても、殴打されたなどとは語っていないのである。
 
 松陰を教えた頃の文之進はまだ若く、乃木を教えたときは老いているという違いはあるが、あるいは、長州藩の兵学師範という重要な職責を担うことになるまだ幼い甥っ子を育成するケースと軟弱な体つきをした本家筋の16歳の若者の心身を鍛えるというケースの違いはあっても、教え方に天と地ほどの違いはないと解釈すべきではないだろうか。
 つまり、玉木文之進は、心身を鍛えるための厳しい指導は行ったが、狂気に満ちた体罰をもって教えたとはいえない、というのが私の結論である。

 ※玉木文之進と乃木希典の話は、大濱徹也『乃木希典』(講談社学術文庫)より引用。

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(城島明彦)

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