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2014/12/03

『枕崎物語』を楽しく読んだ

創立140周年を超えた枕崎小学校 

 『枕崎物語』は、鹿児島県の枕崎市立枕崎小学校の創立140周年記念本だ。2013年の夏につくられた。

 執筆者は、同校の麓純雄(ふもと すみお)校長。

 麓先生とは面識はなかったが、同年秋発行の「日本教育」という小冊子の巻頭随筆に私が「学校の広報」について書いたところ、感想に添えて同書を送っていただいたのだ。

 そのお礼をと思いながら、1日また1日と日が過ぎてしまい、気がつくと1年以上も経ってしまった。

 『枕崎物語』は、枕崎市の歴史や枕崎小学校の沿革がわかりやすい言葉で綴られ、写真も豊富にあって、本が届いた直後に興味深く読んだ。
 残念ながら、この本は非売品である。

 時代が移り、人も変わっていくと、町や村の歴史も忘れ去られるので、本にして残しておくことは大事だ。

 古い時代の白黒写真や新しい時代のカラー写真は、私のような第3者であっても、眺めているだけで楽しい。特に自分が子供だった頃の街の様子や校舎のたたずまいの写真は、少年時代の光景を蘇らせる効果がある。

 私が少年時代を送った昭和30年代は、街の様子とか学校の建物などは、どこもかしこも似たような感じだったのだ。


「かごしま」と「かごめ」

 『枕崎物語』で、特に興味を引かれたのは、枕崎が昔は「鹿籠」(かご)と呼ばれていたという点。
 鹿籠は、鹿児島の語源のようで、
 「竹で編んだ丸い小舟(竹のたらい)で、籠(かご)の目をびっしりと編んで水が入り込まないようにしたもの」「目無籠」(めなしかご)を意味するようだが、
 なぜ「鹿」という字が入っているのか、連想が働く。
 
 「鹿籠」を「かごめ」と読むとどうなるか。もともとは、「鹿」を閉じ込めるのに使った籠なのだろうか。
 鹿は泳ぐ。敵に追われて、海に逃げ込み、それを人が助けようとして竹で編んだ籠に乗せて海岸まで運んだといったエピソードがあったのかもしれない。
 この話は、別の機会に推理したい。

 安曇野の方にも「鹿籠」という地名のところがあるが、「かろう」と読んでいる。
 広島市安芸郡にも「鹿籠」という知名があり、なんらかの関係があるかもしれないが、こちらは、「かごめ」ではなく、「こごもり」と読む。
 
 『枕崎物語』に興味を引かれたもうひとつの理由は、枕崎が、『古事記』や『日本書紀』に出てくる海幸彦・山幸彦の話に出てくる「わたつみのいろこのみや」の候補地のひとつという点だ。
 「わたつみ」は「わだつみ」ともいい、漢字では「綿津見」と書く。


〝天才と狂気のはざま〞青木繁の「わだつみのいろこの宮」

 明治を代表する画家に青木繁がいる。作品では「海の幸」が有名だが、「わだつみのいろこの宮」もよく知られた作品だ。

 山幸彦が兄から借りた大切な釣り針をなくし、いろこ(魚鱗)のように連なる瓦のある海の底の宮殿を訪ね、そこにある井戸のところで、侍女を伴ったトヨタマヒメと出会う場面を絵にしたのが、「わだつみのいろこの宮」だ。

 山幸彦は、木の上に登って、様子をうかがっていると、姫が水をくみにやってくるというストーリーである。


画室とした旧家と愛人の実家

 私は、30代の頃、青木繁のことをとことん調べた。
 青木が家族と住んでいた久留米の家へも行ったことがあるし、「わだつみのいろこの宮」を描いた栃木の旧家を訪ねて、絵を書いた部屋を見せてもらったこともある。
 そういう部屋にしばらくいると、どういう状況で絵を描いたかが想像できる。

 「わだつみのいろこの宮」に描かれたトヨタマヒメは、濃いピンク色というより「珊瑚色」に近い色の衣を身にまとっている。

 Photo_3青木繁「わだつみのいろこの宮」 
 なぜ、この色にしたのかは理由がある。
 当時、青木はその旧家の近くに住んでいた。愛人(福田たね)の実家である芳賀町(はがちょう)の呉服屋に転がり込んでいたのだ。
 その呉服屋からさまざまな色の布地を持ち出して、旧家の一室を借り受け、そこを画室として「わだつみのいろこの宮」を描いた。

 姫のモデルは、近所の農家の娘だが、顔は福田たねに似せて描いた。
 福田たねは、その後、九州へ帰ったまま戻らぬ青木と別れて、親の勧める身持ちの固い別の男と結婚し、多くの子を産むことになるが、私は、たねの娘の家を訪ねて、写真や存命中の話を聞いたこともある。

 旧家の画室へは、愛人の弟の少年が、弁当や布などを届けていた。
その少年は、90歳で存命だったので、そのころの話を聞いたこともある。

 私が訪ねたとき、その部屋の壁の色は珊瑚色に近いピンクに塗られていた。家主に聞くと、どういうわけか、明治の昔からピンクに塗られていたとのこと。

 そういう部屋で描いたから、トヨタマヒメの衣にもそういう色を使うアイデアが湧いたのだ、と私は思った。

 青木は、久留米市から上京し、東京美術学校(現在の東京芸大)で学び、在学中に描いた「海の幸」で注目を浴びたが、横柄な態度と極端な貧乏が災いして、その後、いい作品がかけなくなる。

 再起を期そうとして、愛人の実家へ転がり込み、生活の心配のない状態で、展覧会の1位入賞を狙った。その作品が「わだつみのいろこの宮」である。

 絵に描かれた木は、「かつら」とされているが、青木はそのようには描かなかった。
 しかし、高名な美術史家が「福田たねの実家の庭にある金木犀を描いた」としてしまったために、その説が一般化したが、これは間違いである。
庭に植わっているのは、珊瑚樹(さんごじゅ)である。庭に、かなり大きな珊瑚樹があるのだ。

 たねと青木の一粒種は、福田家で育てた。
 福田蘭堂といって音楽家になり、NHK連続ラジオドラマ「笛吹き童子」ほかの音楽を担当。その息子も、音楽が得意だった。クレイジーキャッツに長くいた石橋エータローだ。

 「鹿籠」という地名と「わだつみ」からの連想で、話が脱線してしまった。


鹿児島県人との縁

 私は、この何か月か、鹿児島出身の3人のクリエイターと仕事をしてきた。

 1人は、東宝映画「ゴジラ対スペースゴジラ」などを撮った山下賢章監督。私が東宝で助監督をしていた頃の仲間の一人だ。私は映画界からは長くはなれていたが、彼の誘いで最近になって映画の企画を一緒に考えているところ。

 もう1人は、編集者の伊集院尚子女史。彼女は、マガジンハウスの女性誌「クロワッサン」や「Hanako」の編集者を経て、サッカーJリーグの清水エスパルスの元広報部長を務めた異色のキャリアの持ち主。私が執筆したムック「世界の名家・大富豪の経済学」(12月6日発売/ダイアパレス)の編集を担当した。この本は、コンビニなどにも並ぶという話だ。

 もう1人は、作家エージェント「アップルシード・エージェンシー」の代表である鬼塚忠さん。去る9月末に私が執筆した『吉田松陰「留魂録」』(致知出版社)のプロデューサーだ。彼は自分でも本を書き、芝居の台本も書くマルチ人間。

 いままで、地方の同じ県の出身者3人と同時期に一緒に仕事をしたことはなく、偶然にしても、その確率の高さを思い、驚いている。

(城島明彦)

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