「惜春鳥」と「鴬告春」
「野沢の氷 とけそめて」
という詞で始まる美しい旋律の歌を中学校で習ったのは、会津を舞台にした映画「惜春鳥(せきしゅんちょう)」(監督木下惠介)が封切られた1959(昭和34)年の冬だったように思う。
そのとき、私中学一年生。50年以上も昔の話だ。
「野沢の氷 とけそめて」
で始まる歌の題名は、「鴬告春」(おうこくしゅん)。
「うぐいす」(鴬)の訓読みが「おう」だと知った最初だった。
春が来るのを告げる鳥、春が逝くのを告げる鳥
「鴬告春」(おうこくしゅん)と「惜春鳥」(せきしゅんちょう)。
字面も言葉の響きもよく似ていると思った。
だが、よく考えてみると、意味が違っていた。
春が来るのを告げる鴬が「鴬告春」。「鶯(うぐいす)、春を告ぐ」と読む。
春が去ると告げる鳥が「惜春鳥」。「春を惜しむ鳥」と読む。
春を告げる鳥「春告鳥」は、昔から、「しゅんこくちょう」と音読みせず、「はるつげどり」と訓読みしてきた。
この「春告鳥」(はるつげどり)が鴬の正式な異名であって、「鴬告春」(おうこくしゅん)という呼び方はなく、造語である。
「惜春鳥」も、同じく造語だ。
映画「惜春鳥」の同名の主題歌(作曲木下忠治)は、若山彰が歌ってヒットし、ラジオの歌謡番組でよく流されたので自然と覚えた。
若山彰は、その2年前にやはり木下作品の主題歌「喜びも悲しみも幾歳月(いくとしつき)」を歌って大ヒットさせ、それに続くヒットとなっていた。
和洋折衷の歌「鴬告春」
「鴬告春」という歌は、「野沢の氷 とけそめて」という出だしの表現から、古い時代の歌詞だと察しが付く。
「とけそめて」の「そめ」は、
まだあげそめし 前髪の
林檎のもとに 見えしとき (島崎藤村「初恋」)
の「そめ」と同じで、漢字混じりにすると、
「溶け初めて」
「溶け始めた」という意味だ。
映画「タイタニック」とテレビアニメ「フランダースの犬」
「鴬告春」の一番の歌詞は、こうだった。
野沢の氷 溶け初めて
うら若草や 萌えぬらん ※うらは、「うら若い」というときの「うら」と同じ。
春来と告ぐる うぐひすの ※来は「く」と読む。来るの古語。
声の末こそ かすむなれ ※末は「すえ」と読む。
「鴬告春」は、明治33年に発行された日本最初の女学生用の音楽教科書『女学唱歌』(全35曲)に載った歌である。
その頃の女学生は、髪は束髪(そくはつ)、服装は「海老茶袴」(えびちゃばかま)だった。
そういう女学生たちが歌った「鴬告春」。
曲はというと、
「主よ御許(みもと)に」
という賛美歌を少しだけアレンジしたものだった。
初めに曲があって、それに日本語の士がつけられたのだ。
「主よ御許に」は、映画「タイタニック」で沈む船の甲板で楽団が繰り返し演奏した曲として知られるようになった讃美歌である。
テレビアニメ「フランダースの犬」の最終回で、主人公の少年と愛犬が死んで昇天する場面でも流され、感動を呼んだ。
明治時代の歌詞「ありとも など」
「主よ御許に」は、人が昇天する場面にふさわしい「悲しげで清らかな旋律」で、次のような日本語の訳詞がつけられた。
主よ みもとに 近づかん
のぼる道は 十字架に
ありとも など 悲しむべき
主よ みもとに 近づかん
とても短い詞なのに、
「ありとも など」
という難解な言葉が入っていて、戸惑う人が多い。
「あり友など」と解釈する人もいるかもしれないが、そうではない。
これは完全な古文の言い回しである。
「(さは)ありとも など(てか)悲しむべき」
を略したものなのだ。
現代語にすると、
「そうであっても、どうして悲しむことがあろうか、いや悲しむべきではない」
という意味になる。
つまり、「十字架にかかろうとも」という意味で、「十字架にかかろうとも悲しむべきではない」という内容だ。
歌詞の内容をわかりやすく説明すると、次のようになる。
野の沢に張った氷が、溶け始めている
うす緑色をしたみずみずしい若草が、きっと萌えだしているだろう
春が来ると告げるように、うぐいすが鳴いている
その声のする彼方の空が、霞んでいるよ
「主よ御許に」の原曲は、英語の賛美歌〝Nearer, My God, to Thee〞である。
Nearer, my God, to thee, nearer to thee!
E'en though it be a cross that raiseth me,
still all my song shall be, nearer, my God, to thee.
この二行目を「ありとも など 悲しむべき」と明治の日本人は訳したのだ。
raiseth は、raise(上げる)の古風な言い回しだから、
E'en though it be a cross that raiseth me, は、
「たとえ、わが身が十字架に架けられようとも」
という意味である。
異端派のプロテスタントが書いた詩
英語の賛美歌〝Nearer, My God, to Thee〞は、1841年に書かれた。
書いたのは、サラ・F・アダムスというイギリスの女流詩人。
ユニテリアン派の牧師から「賛美歌の詞を書いてほしい」と頼まれて書いたのだが、この詞が有名になるのは彼女の死後だ。
サラは、1848年に43歳でこの世を去り、その8年後(1856年)にアメリカで詞に曲がつけられるのである。
曲をつけたのは、〝アメリカの賛美歌の父〞ローレル・メーソン。
詞が書かれてから数えると、15年もの歳月が過ぎていた。
サラもローレルも、プロテスタントのなかの「ユニテリアン派」と呼ばれるキリスト教の宗派に属していた。
ユニは「単一の」という意味だ。
キリスト教では「神と子と聖霊の三位一体」(トリニティ)がよく知られているが、ユニテリアン派は「子と聖霊」を否定、「神のみに神性を認める異端派」である。
ローレルとルーサー――二人のメーソン
〝Nearer, My God, to Thee〞に曲をつけたローレル・メーソンは、著名な教会音楽家だが、もう一人、「鴬告春」にも関係があるルーサー・メーソンという人物がいたから話がややこしくなる。
こちらのメーソンは、〝お雇い外国人〞として1880(明治13)年に来日、2年間滞在して日本の音楽教育に多大な貢献をした人物である。
ルーサー・メーソンを日本に招いたのは、〝日本の音楽の父〞井沢修二である。
井沢は1875(明治8)年から1878(明治11)年までアメリカのボストンへ留学するが、そのときルーサー・メーソンと知り合うのだ。
帰国後、伊沢は「東京師範学校」(東京教育大の前身)の校長に任ぜられるが、やがて音楽教育の充実と教師の必要性を政府に説き、その献言が受け入れられて明治12年に「文部省音楽取調掛」が設置されると、「御用掛」となり、指導者としてルーサー・メーソンを招聘する。
文部省音楽取調掛は、音楽の教科書として「小学唱歌集」第一編(明治14年)・第二編(明治16年)・第三編(明治17年)をつくる。
その選曲をしたのがルーサー・メーソンで、それにつける日本語の詞を監修したのが井沢だった。
「蝶々」「蛍の光」「仰げば尊し」「霞か雲か」などは、そのとき選ばれ、新しく詞をつけたのである。
ユニテリアン派、日本上陸
「主よ御許に」をつくったサラとルーサー・メーソンが帰依(きえ)したプロテスタントのユニテリアン派は、18世紀後半のアメリカ・イギリスで起こり、日本へは1887(明治20)年に入ってきた。
その年の10月、文部省の「音楽取調掛」は、勅命によって「東京音楽学校」(東京芸大の前身)と改称。その初代校長に伊沢が命じられた。
翌明治22年には東京音楽学校が「中等唱歌集」編集する。「埴生の宿」はこのなかに収められた楽曲だ。この年には、「幼稚園唱歌集」もつくられた。
そうした流れがあって1900(明治33)年に「鴬告春」を載せた「女学唱歌」が発行されるのである。
「鴬告春」を載せた日本初の女学生用の音楽教科書「女学唱歌」を編集したのは、山田源一郎という音楽家だが、この山田の恩師に当たるのが井沢修二だった。
伊沢も山田も、「和洋折衷」を目指していた。
それにぴったりだったのが、「主よ御許に」だったのだ。
ユニテリアン派の日本上陸から女学生唱歌「鴬告春」の登場まで十三年という期間を考えると、最初に「主よ御許に」という日本語の歌詞がつくられたと解釈するのが自然だ。
山田源一郎は、ユニテリアン派を信仰する日本人信者が歌っている賛美歌「主よ御許に」の曲を微妙にアレンジして、宗教色がまったく感じられない新しい日本語の歌詞をつけて「鴬告春」としたのではないか。
福沢諭吉も支援
「鴬告春」の二番の歌詞は、こうなっている。
いつしか雪も 消えはてゝて
軒端(のきば)の梅ぞ かをるなる
鳴くうぐひすの 声よりや
野山も春や 知りぬらん
(歌詞の意味)
いつのまにか雪も すっかり消えて
軒口(のきぐち)に植えてある梅の木が花をつけ かぐわしい匂いが漂ってくる
鳴いている鴬の声を 耳にすると
野や山も春になったということを 知ったよ
こうして、サラ、井沢、ルーサー・メーソン、山田、そしてローレル・メーソンは、〝Nearer, My God, to Thee〞(主よ御許に)「鴬告春」という同じ旋律の歌を通じて一本の糸でつながるのだ。
慶応義塾を創設した福沢諭吉は、アメリカで学んだこともあり、当初、ユニテリアン派の布教活動を支援したが、日本では根付かなかった。
「ト長調」と「ヘ長調」の違い
「主よ御許に」と「鴬告春」はどちらも8分の6拍子だが、まったく同じではない。
山田源一郎は、すぐれた音楽家ではあったが、作詞した曲が残っていないところから推して、詞をつくったり、他人の詞をいじったりするのは不得手だったようだ。
しかし、作曲したり、誰かが作曲した曲に手を入れたりするのはお手のものだった。
♪ やまだのなかの 一本足のかかし(「案山子(かかし)」
は、山田が作曲した傑作だ。
山田は、「主よ御許に」の賛美歌色を少しでも減らそうと工夫した。
そのことが、次のことから読み取れる。
①「主よ御許に」はヘ長調だが、「鴬告春」はト長調。
②出だしの小節など、微妙に変えてある。(例)「主よ御許に」の方が音符が一つ少ない。
③出だしを変えた。
「鴬告春」:野~ざわ~の(4文字)=音符4つ(4分音符・8分音符・4文音符・8分音符)
「主よ御許に」:「主~よ御」(3文字)=音符3つ(付点4文音符・4文音符・8分音符)
④違い 小節比較(1小節~16小節) ○は同じ・×は異なる
1 ~ 4小節 × ○ × ×
5 ~ 8小節 × ○ ○ ×
9 ~12小節 × ○ ○ ○
12~16小節 × ○ ○ ×
「鴬告春」は、完璧な「二部形式」(A・A´・B・A´)の曲で、覚えやすい点も音楽教科書向きだったかもしれない。
(城島明彦)