愛は与えるものなのか、奪うものなのか
異性への愛は、何を奪い、何を与えるのか!?
異性を好きになるということは、心を奪われるということだ。
奪われるのは、心だけではない。
時間も奪われる。
その人を好きにならなければ、別のことをしていた時間が、その人を思うことに向かうからだ。
相手を好きになると、自分もその相手から愛されたいと願うようになる。
愛が強まると、相手を独り占めにしたいと強く思うようになる。
それは、相手の心と体を奪おうという欲望である。
と同時に、自分の心と体も相手に与えたいという願望が強くなる。
愛の極致は、心身ともに結ばれること。
与え、奪うことで、愛は極致に達するのである。
与えるのが先か、奪うのが先か。
どちらであっても、最終的には、愛は与え、奪うのだ。
その形が成り立たない恋愛は、破綻する。
母と子の愛は、与えるのか奪うのか!?
母親の子どもに対する愛に、「打算」は介在しない。
そこにあるのは、無償の愛。
母親が子どもに尽くすのは、本能的な動物愛とみえる。
母親はわが子に愛情を注ぐ(=与える)が、それは別の見方をすると自己犠牲である。
子供がいなければ享受できたであろう、読書や映画鑑賞といった楽しみや喜びを犠牲にしている。
子は、自ら望まなくても、母の愛を奪っているのだ。
だが母は、その犠牲の代償として、子の笑顔、子が体いっぱいに表わす喜びの挙動から、他人では得られない至上の喜びを与えられている。
愛は奪い、そして愛は与えるのだ。
母は子が長じても、無償の愛を注ぎ続けるが、子は長じると、自我が生じ、その愛を苦痛に思うようになり、乳幼児から子供時代に見られた「奪い、与える」形は破綻する。
(城島明彦)