私の先祖は、武田信玄が大嫌いで信濃から逃げた!?
40年前に先祖のことを調べた
年を重ねるにつれて、身辺の整理をしなければならないという思いが強くなってきた。
今から40年近く前に、先祖のことを調べたことがある。
先祖の墓がある土地の役場へいって、戸籍謄本や戸籍抄本のコピーをもらい、次に本家を訪ねて系図を見せてもらって、それを写した。
今は戸籍を調べまくることは法律的に難しくなっているが、当時はほかの家の戸籍も自由に閲覧でき、コピーももらえたので、本家の戸籍簿の写しも手元にある。
それによると、わが先祖は、いかなる理由かはさだかではないが、信濃佐久郡大日向(しなのさくぐん おおひなた)というところから三重の員弁郡(いなべぐん/現いなべ市)へとはるばる流れてきたらしい。
戦国時代の大日向直政・直武の家来か?
大日向という姓の戦国城主がいた。
信濃水内郡(しなの みのちぐん)に城(小川城)を構えた大日向直政・直武(おおひなたなおまさ・なおたけ)親子で、彼らは武田信玄に従ったという記録がある。
すんなり信玄の家臣になったのではなく、城内は信玄派と反信玄派に二分されていたとされ、そのとき、わが先祖が大日向親子の家来で反信玄派だったとすれば、信玄に帰属することを嫌って信濃を逃れ、伊勢方面へと向かった可能性は十分にありうる。
わが先祖の姓は小林で、系図によると、「大日向長在(おおひなた ながあり)の外家(がいけ)を嗣(つ)ぎし為、小林氏となる」とある。外家とは、「母方の親族」のことだ。
肝心の「大日向長在」という人がどういう人なのかは、よくわからない。
わからないということは、極端な言い方をすれば、「どこの馬の骨ともわからない」ということになる。
戦国時代、三重には300をはるかに超える城があった
先祖が移り住んだ員弁(いなべ/現いなべ市)という土地は、戦国時代に数え切れないくらい戦いが行われた伊勢國(現三重県)にあり、数多くの寺や人家が、繰り返し、戦火に遭って消失しているが、現在わかっているだけでも40近い城があったようだ。
城といっても、石積みをした城郭建築ではなく、砦(とりで)といってもいいような土塁(どるい)の山城だ。
桑名、四日市、鈴鹿、津なども加えると、戦国時代には300~400もの城主がいたことがわかっている。まさに群雄割拠だ。それらのほとんどは、信長らに攻められて落城したり、廃城になるなどした。
城主が他の領地に移封されるときに付き従いたくないときは、別の城主に鞍替えするか、その時点で武士を廃業するなどしたが、わが先祖の動向は不明だ。歴史に名を残すような武士でなかったということだけは確かだ。
江戸時代は「郷士」で名字帯刀(みょうじたいとう)を許されていたというが、戦国城主の数が多すぎて、どの城主に仕えたのかといった正確な記録が残っていないことから、いつ、どんな事情で武士を廃業し、農民化したのかは明白ではない。
寺で「過去帳」を調べる
戸籍調べに続いて、系図や戸籍簿に記された名前の人が実際に存在したかどうかを確認するために寺へ行った。
寺には「過去帳」と呼ばれるものがあり、そこに誰がいつ死んだかが記されているのだ。
そこで壁にぶつかった。系図には元禄(元禄年間は1688~1704年)の火事で過去帳が消失とあるが、災難はさらに続き、住職の話では、「戦後の混乱期に寺に泥棒が入り、いろいろなものを盗まれたが、そのなかに過去帳をしまった行李(こうり)も含まれていた」というのだ。
泥棒は、あとで行李を開け、金品ではないことを知って、どこかへ捨ててしまったに違いない。
そんな関係で、わが先祖の初代は、江戸時代中期の8代将軍吉宗の時代から始まっている。「善正」という人が「享保16年(1731年)亥夭 正月二十四日」と過去帳に記載されているのだ。
享保年間は1716年から1745年なので、中頃になくなったようだ。何歳でなくなったのかはわからないが、生まれたのは享保以前である。
寛文(1661→1673年)→延宝(1673~1681年)→元禄(1688~1704年)→宝永(1704~1711年)→正徳(1711~1716年)→享保
60~70歳まで生きたなら寛文年間の生まれになるし、50歳で死んでいたら延宝末年の生まれ、40歳なら……ということになる。
根拠など何もないが、ないからこそ勝手な想像ができるのであり、そうした想像をすることは楽しい。
(城島明彦)
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