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2013/06/10

「八重の桜」は会津藩主を美化して描き過ぎだが、「会津を救え」(6月9日放送)の視聴率は15・0%(前回より1・7%アップ)と健闘!

実際の会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)は、暗愚(あんぐ)。時代が読めず、「家訓」を守って多くの家臣や民を死なせ、自分は生き延びた

 大河ドラマ「八重の桜」は、史実に沿った形で天下の趨勢をドラマチックに描いているので、日本史を勉強している中高生にはとても役立つ。

 6月9日の第23回「会津を救え」は、仙台版ほかの奥羽諸藩が連携して会津藩救済を願い出る話で、前回13・3%とイマイチだった視聴率(関東地区/ビデオリサーチ調べ)は15・0%(5月12日と同率)を記録した。

 1昨年の大河ドラマ「江」(6月12日第22回18・3%/6月19日第23回の18・0%)と比べると見劣りするが、昨年の「平清盛」(6月10日第23回)が11・6%だったことを考えると、「奮闘」といっていいかもしれない。


西郷隆盛の拳(こぶし)の下ろし先

 官軍の指揮官西郷隆盛が、「江戸を火の海にしても平気なのか」という幕臣勝海舟の考えに同意し、江戸決戦を断念する有名な場面は、6月2日の前回の放送で描かれていた。

 西郷隆盛は、勝海舟の提案する「江戸城の無血開城」を条件として将軍徳川慶喜の命を助けたが、大河ドラマでは、そのとき西郷にこういわせていた。

 「振り上げた拳(こぶし)は、どこへ下ろせばいいのか!?」

 その拳の下ろし先が、会津藩である。

 ところが、会津藩主松平容保(まつだいら かたもり)は、そういう西郷の心の奥が読めず、拳を下ろさせる道を選んだ。
 「あらゆる手段を講じ、恭順する」という方策を取れなかったのだ。
 その結果、会津戦争で大量の戦死者を出すことになる。


松平容保はなぜ恭順しなかったのか

 松平容保が判断を誤った主な原因は、3つ。

 1つは、先祖の残した「家訓」に盲従したから。
 1つは、時代が読めなかったから。
 もう1つは、「武士の一分」(武士の意地)から。

 「家訓」をつくったのは、「会津藩の祖」である名君保科正之(ほしな まさゆき)。
 保科正之は、恐妻家の2代将軍徳川秀忠が年上の正室江姫(ごう)に隠れて愛妾にこっそり産ませ、育てさせた子で、3代将軍家光とは異母兄弟。

 家訓は15条あり、その第1条には、
 「将軍家への忠誠に励め。二心(ふたごころ)など抱いてはならぬ」
 ということが書いてあった。

 大君の儀、一心大切に忠勤に存ずべく、列国の例をもって自ら処るべからず。
 若し二心を懐かば則ち我子孫にあらず、面々決して従うべからず。
 

 しかし、将軍が大政を奉還したことで、忠誠を尽くすべき将軍家そのものが消失してしまい、将軍自身も水戸まで逃げてしまっているのだ。
 
 そこまで時代が激変してしまっているのだから、容保は「家訓」を踏みにじるようなダイナミックな〝苦渋の決断〟をしなければならなかった。

 兵力、軍備などを総合的に判断すれば、官軍に勝つことは不可能とわかったはず。
 そう考えると、容保は、自分の首と引き換えに家臣を救う道を選ぶべきだった。

 だが、そうしなかったのだから、〝暗愚の藩主〟といわざるをえない。

 今日、パナソニック、ソニー、シャープなどの経営が揺らいでいるのも、時代が変わったのに、創業者のつくった「創業理念」の文言をひたすら守ろうとして道を誤ったのと似ている、と私は思う。


西郷・勝と容保の〝器(うつわ)〟の大きさの差

 戦わなければ「先祖の遺訓を破る」という大儀を貫いて、負けることは必定のいくさを戦えば
 「会津藩そのものが存続できなくなり、そうなれば元も子もなくなる」 という深い考察が容保にはなかったのである。

 江戸決戦を控えた西郷隆盛は、勝海舟の「何の罪もない江戸の100万の民はどうなる」との言を聞いて、江戸攻めを中止したが、松平容保は、会津を戦場にし、火の海にしてしまったのだ。

 容保が、自分の首を差し出していれば、白虎隊の悲劇は起こらなかったのである。

 NHKは、松平容保を美化して描いているが、これはおかしい。


桑名藩主松平定敬(まつだいら さだあき)も暗愚だった

 桑名藩も会津藩に同調したが、そうした理由は単純明快。
 桑名藩主松平定敬は、容保の実弟だったからである。

 定敬も、容保同様、大局が読めず、〝朝敵〟となったため、明治維新後、桑名は産業発展から取り残されることになった。
 容保とは年齢が11歳も離れているので、何でもいわれるままに従った。

 前記「家訓」の第3条に、こう書かれている。

 「兄を敬い、弟を愛すべし」(第3条)

 だが、容保・定敬の兄弟は、少年を含む家臣や婦女子を多勢死なせても、自分たちは、のうのうと生き延びたのだから、理解に苦しむ。

 「家訓」の第4条には、こんなことも書かれている。

 「婦人女子の言、一切聞くべからず」(第4条)

 会津藩士たちはこの一条も忠実に守っていたはずと考えると、NHK大河ドラマ「八重の桜」の八重の男まさりの言動はありえないということになるが……。

(城島明彦)

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